父と子2
エドガーさんや調理場のみんなが腕によりをかけて作ったご馳走の味は、ほとんどわからなかった。お兄様方の前で粗相があってはいけないという緊張と、それからヒース様がシオンの名に母の死を背負わせたという話がずっと熾火のようにくすぶり続けていて、味わうどころではなかったから。
シオンは食事中、お兄様方と歓談を楽しんでいる様子だった。でも食事が終わってもまだ話し足りない様子のお兄様方とは違い、お子様達に遊ぼうとせがまれると喜々としてそれを受ける。
子供好きなのは知っているし、お子様方は確かに素直でかわいらしいけれど。
でも、遠方で滅多に会えないお兄様方との語らいの時間を惜しいと思わないのかと考えるのは、心配しすぎなのだろうか。
本当にヒース様がちらりとも顔を見せてくださらないから、不安は募る一方で――しかし結局、お子様方の就寝の時間になるのに合わせて私達も部屋に下がろうという話になってもまだヒース様は姿を見せなかった。
アゼル様とセオス様は話し足りないから部屋に酒肴を持ってきてくれと頼んでいたが、シオンはそれも気にするわけではなかった。
「今日は疲れただろう? 部屋に戻る前にティナのところに行ってくつろげる服に着替えてくるといい」
私室への戻り足、シオンはいつもどおりの穏やかな声で労ってくれる。いつもどおりであることに、今はひどく息苦しさを覚える。
「ねぇシオン、ヒース様にこの衣裳をお借りしたお礼を言っておきたいのだけど、ダメかしら?」
そう提案したのは、その息苦しさを堪えきれなかったからだ。
「多分執務室にいると思うから、行ってくるといい」
「………シオンは?」
「私はこの前着せてやれと言われた時にも言っておいたし、どうせ明日は嫌でも顔を合わせるから朝の挨拶と一緒でいい」
シオンはなんでもないことのように笑って「父上も、今日くらい私の顔など見たくないだろう」なんて呟くから、胸が痛くて思わずその手を握った。
シオンがあと10歳くらい小さな子供だったら抱きしめてしまったかもしれない。だが、さすがに自分よりずっと身長も高い青年に対してはさすがに憚られ、代わりにシオンの手を包み込む両手にきゅっと力を込める。
(シオンは……毎年こんなふうに誕生日を過ごしているの?)
切なさに胸が詰まり、問いが口にできなかった。
あっさりと「そうだよ」と頷かれることが、ひどく恐ろしかった。
私ですら、誕生日というのは一年で一番、生まれてよかったと思う日だ。
両親や街のみんなに祝いの言葉をかけてもらって、ささやかなプレゼントをもらって。生まれた喜びをみんなで分かち合う日。
なのに最も近い家族に避けられて過ごすなんて、あまりにも酷だ。
(本当に、あの優しいヒース様がシオンを避けているの……?)
(今ここにいるシオンより亡き奥方様のことばかりを気に掛けているのかしら?)
「サラ……ありがとう」
声にならない問いが聞こえてしまったのか、シオンは握られていないほうの手でそっと私の頭を撫で、ほのかに伝わるぬくもりが染みた。
「こんなこと言うと調子に乗りそうだから絶対に本人に直接言う気はないけど、ティナのおせっかいもたまには感謝しないとな」
シオンはくしゃりとした複雑な笑みを浮かべ、あぁそうなんだと納得した。
(……だからティナは、朝から夜までずっと私が傍にいるように差し向けたのね)
シオンが少しでも寂しくないように、と。
さすがは家族、さすがはちょっぴりお姉ちゃんだと思うと、ようやくほんのりと心があたたまっていくのを感じた。
シオンはひとりじゃない。
ちゃんと、あたたかく見守ってくれる人達がいる。
「行ってきます。すぐに戻るから、先に戻って待ってて」
「うん、行っておいで」
ヒース様に尋ねてみようと決意を秘めて握っていた手を離すと、シオンはその温もりを逃がすまいとするように自分の手を重ね、少し名残惜しそうに見送ってくれた。
* * *
執務室の扉の隙間からはうっすらと光が滲んで誰かしらの在室を示していたが、叩扉しても返事はなかった。
「サラです。入ってもよろしいでしょうか?」
迷いながらもう一度叩扉し、声をかける。
それでも、返事はなかった。
私室ではなく執務室だから用事があれば立ち入っても叱られはしないだろうと、思い切って扉を開いて足を踏み入れる。
ヒース様は普段、執務室には花を飾らない。
故に私がここに足を踏み入れるのは初めてだった。
一番奥にもっとも立派な飴色のどっしりとした書き物机。それより少し手前にやや小振りなふたつの机があって、壁は一面書棚と引き出しで埋め尽くされている。
いずれの机の上も綺麗に片づけられていて、仕事中という感じは受けなかった。
「……ヒース様?」
一番奥の机の向こう側に、今は扉に背を向けている椅子があり、人の気配があった。
けれども、やはり返事がなかった。
「ヒース様?」
もしかして体調が悪いのかと心配になって駆け寄ると、ヒース様は肘掛けに腕をついて眠っていただけだった。
傍らには小振りの皿に控えめに盛られた晩餐に少しだけ手をつけた後と、空のワイングラスがある。
ふ、と笑みがこぼれそうになった。
シオンがしょっちゅう厨房だったり街の広場の木陰だったりですやすやと心地よさそうに昼寝をしているのを思い出してしまったから。
けれどヒース様の寝顔はシオンと違って眉間の皺が消えず、とても疲れているように見え、笑みはそっと鳴りをひそめる。
「ヒース様、こんなところでお休みになると風邪を召されますよ。ご公務が忙しくてもきちんとお部屋でお休みいただかないと……」
起こすのは気が引けたが、このままにしておくわけにもいかずにそっと声をかける。
「……サーシャ……?」
うっすらと目を開けたヒース様は虚ろに呟き、無くしていた宝物を見つけて、でも夢の中かもしれないと疑っているようなゆっくりとした動きで手を伸ばした。
「……すまない、君だったか。一瞬、妻の幽霊でも出たのかと見間違えた」
「いえ、私こそ勝手に入ってきてしまって申し訳ありませんでした。大事にしているサーシャ様の品をお借りしたと聞いたので、今日中に一言お礼をと思って訪ねてきたのですが、お返事がいただけなかったので……」
「礼には及ばない。新調するには時間がなかっただけだからな」
「私のためにドレスを仕立てるより、街のために遣っていただくほうが有意義です」
きっぱりと断ると、ヒース様は「欲のないことだ」と言ってわずかに苦笑いをこぼした。
「改めまして、ありがとうございました。これほど華やかな装いをすることになるなんて、しばらくは街の女の子達の羨望の的になりそうです」
「……うむ」
居住まいを正して深々と頭を下げると、ヒース様はいつものようにただ静かに笑って頷いた。
「……あの、」
その静かな笑みを陰らせるだろう問いに、わずかに口は重くなった。
けれどもシオンを思うなら、この機を逃してはいけないと自分を鼓舞して口を開いた。
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