父と子3



「シオン様のお名前の由来は花のシオンでしょうか? 男性に花の名前は珍しいかと思うのですが」

「ああ」


 ヒース様は静かに窓の外を見つめ、懐かしそうに目を細めた。


「サーシャが――妻が、今際の際に名付けた。男児でも女児でもシオンと名付けてほしいと。傍にいることはできないが片時も忘れることなく天国から見守っていると」


 やっぱりという安堵と一緒に、ではなぜと苦い気持ちも溢れた。


「――……なぜそれを、シオン様に伝えてくださらないのですか?」


 差し出がましいことだが、聞かずにはいられなかった。


 なぜ教えないのだろう。

 亡き母がシオンに残した想いが詰まった名前だと。

 たったそれだけのことで彼の心痛がどれほど和らぐかと思うと、言わずにはいられなかった。


「……聞かれたこともなければ、伝える機会もなくてな」


 ヒース様は苦虫を噛み潰したような顔をして目を伏せた。


「機会なら、いくらでも作れるでしょう!」


 苛立ちが募り、語調はどうしても強くなってしまう。

 話そうという気持ちさえあれば、毎日顔を合わせ、仕事の片腕をしていて、今まで一度も機会がなかったなんてことは絶対にありえない。

 会いたくないだろうと遠慮しているシオンから、聞けるはずがない。

 判断力も決断力も、実践力だってある立派な領主だと信じていたのに、たったそれだけのことに二の足を踏むなんて。


「ではなぜシオンに直接会って、たった一言お祝いの言葉をかけてくださらないのですか? どれほど忙しくても、そのほんの数分を工面できないはずがないのに」


 責められたヒース様は口を引き結んだまま、静かに窓の外を眺めた。そこに、亡き妻の幽霊でもいるみたいに。


「……ヒース様は……シオンが生まれなければよかったと思っていらっしゃるのですか? そうすればサーシャ様が亡くなることはなかったと、サーシャ様を死なせたのはシオンだと?」


 いつも朗らかなシオンの笑顔を思い出すと、息苦しい。

 シオンが寂しいとか傍にいたいと言えば、私は内心幼子のようだと思って笑っていた。それがどれほど残酷なことだったのかと、今さら思う。

 人懐っこい笑顔で人の輪の中に入り込んでいく背中もいたいけに思えて、ぽろぽろと涙がこぼれる。

 ヒース様はしばらく私が泣いているのをほのかな笑みを湛えて見つめていた。


「………毎年この日を迎える度に身を切るように思うのだ。妻が死んだのは私のせいだと。あの子を見ればなおのことな」


 ぽつりとそう呟くと、目を伏せた。

 厳格な表情をわずかに歪め、胸の痛みに耐えているように思えた。


「かねてから娘が欲しいと話していたがなかなか授からなくてな。十年経ってようやく授かったのがシオンだった」


 ぽつりぽつりと、こぼれるような呟きだった。


「医者は母体が出産に耐えられないかもしれないと子供の命は諦めることを薦めていたが、サーシャはせっかく神様が授けてくれた命を諦めたくないと言った。3人目だから大丈夫だと。私は仕事に心血を注ぐばかりであいつがどれほど無理をしているのか、体を弱らせているのか、気づいてやれず、止めることもなく――」


 目元を覆ったヒース様から後悔と自責の念をひしひしと感じた。

 ならばなおさら、わからない。


「ならばなおさら……なぜシオンを慈しんでくださらないのですか? サーシャ様は命を賭しても生むことを選び、それを後悔してもいらっしゃらなかったでしょうに」


 わかっている、とくぐもった呻きが大きな掌の奥から漏れる。


「妻の分まで愛情を注ぎ立派に育ててやらねばと思った。しかし妻が死んではじめて、私は子供達との接し方すらあいつに頼っていたのだと知ったのだ。赤子の抱き方も声の掛け方もわからず――結局私は無心に仕事に没頭することで逃げた。妻が死ぬ前と何も変わることなく、だ。アゼルとセオスはそれなりに大きくなっていたから武芸なり公務を教えることもできたが、赤子ではそうもいかん。それで結局今もあれをどう扱っていいものか持て余している」


 ヒース様は目を上げ、私に目を止めると薄く笑った。

 とても穏やかで優しくて、でもとても寂しげな笑みだった。


「……私は父親失格だな」


 呟く声が、懺悔するように聞こえた。

 おそらくは、亡き妻への。


「あれを無駄に厳しく叱り、必要以上に物を与えて甘やかしたのだろうな。おかげでいつまで経っても子供のようなことばかりして全く一人前にならん。私が――」


 いつもは口数が少ないヒース様がいつになく饒舌だと思った途端唐突に彼は口をつぐみ、まるでたった今夢から醒めたような顔をした。


「………すまない、少々感傷が過ぎた。忘れてくれ」


 決まり悪そうに視線を泳がせるヒース様に、急に親近感が湧いた。


「いえ……なんだか少し安心しました。ヒース様も人の子で、人の親なんだと」


 今までヒース様は神様みたいに絶対間違わなくて絶対正しい人だと思っていた。完全無欠で非の打ち所のない立派な領主であっても、やはり人の親なのだという当然のことを、やっと理解した。

 らしくないとかこういう人だと勝手に理想像を押しつける私達に、弱みを見せないだけなのだと。

 シオンの生まれた頃と言えば、ヒース様がリュイナールを興すことに心血を注いでいた頃だ。そのおかげで、今この街は活気と笑顔が溢れている。

 神様ではないのだから、この街のために密かに犠牲にしたものがあったのだ。

 ならば、それが一段落している今から取り戻してもいいのではないだろうか。


「ちゃんと、シオン様に名前の由来と亡きお母様の想いを伝えてください」

「……君から伝えてもらっても構わない」


 みんなの尊敬を集める剛健なヒース様の思いがけず弱腰な態度に、笑みがこぼれてしまう。


「ヒース様からお話することに意味があるのだと思います」


 生まれたての赤子に触れるのが怖いまま、今まできてしまっただけ。かよわくて壊れそうに見えても、案外大丈夫なものなのに。

 結局、親子なのにお互い無闇に気を遣いすぎているだけだ。

 ならば、ちゃんと話をすれば距離を埋められる。

 水の膜くらい、手を出せば簡単に壊せる。


 渋面を作ったヒース様は、くるりと椅子を反転させて机に向かった。手近な書類を手にとってから、呟く。


「………時期をみて検討する。君は戻りなさい」

「はい、ありがとうございます。では失礼します」


 返事は必然軽くなった。



 早く戻ってあげなくてはと気持ちが急く。慣れないドレスの裾をさばくのに手間取ってなかなか足が進まないのがもどかしいほどに。

 けれどティナ達が待っているはずの侍女の控室のドアノブに手をかけてから――熱い物に触れたように反射的に手を引いた。

 私が少しでもあの人の寂しさを埋められるのならできるだけ傍にいようと決意を秘めていた胸を強く押さえる。


 ……大丈夫。

 来年はきっと、私がいなくてもあの人は寂しくない。

 彼には本当の家族も、家族のように愛してくれる人たちも、たくさんいるのだから。

 これはほんの一時のことだから。


 何度も自分に言い聞かせて、それからようやくゆっくりとドアノブを回した。



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