2章 かりそめの恋人

かりそめの関係の始まり



 体を破って出てきそうなくらい激しい鼓動を刻む心臓を落ち着かせようと胸を押さえ――彼を見ていたらいつまでも落ち着いてくれそうにないので外に視線を移す。


 たとえいつか私を顧みてくれなくなる日が来るとしても、彼の今の真摯な想いに偽りはないのだろうと思う。

 恋なんかしている暇はないし、まっとうな女性の幸せなんかとっくの昔に諦めていた。だったらほんの一時(いっとき)、夢を見てもいいだろうかと思った。

 いつか醒める夢でも、その後どれほどの不幸が訪れようとも――その記憶に縋って生きて行けるほどの幸せな夢ではないだろうかと、思った。

 けれど彼はあくまでかりそめの恋人でいるというのだ。


(……どうしたらいいのかしら……)


 そもそもまともに付き合った経験がないのに、恋人のフリというのは、なにをしたらいいのかよくわからない。

 本来、貴族の戯れが特例なのであって未婚女性は純潔を守るのが鉄則。婚前交渉なんてもってのほか。彼は熱心に愛情を示してくれる。ならば、なにをもってかりそめ、なにをもって真実なのか、皆目見当がつかなかった。


 窓の外では石畳の街並みが暮れゆく光に照らされて、あたたかなオレンジ色に染まっていた。その景色に唐突に仕事を放置してきたことを思い出して、急に体の芯まで凍ったように思えた。


「あの、シオン様は――」

「シオン」


 慌てて振り返ったら、腫れた頬にあてるハンカチを換えようと屈んでいたシオン様にすかさず訂正を要求された。

 そもそも下町のおばさんですら一般的には妻が夫を呼び捨てになんかしないものなのに、変なところで頑固だ。

 おそらく対等でありたいと言ったその言葉を体現したいのだろう。ならば、呼び捨てにすることに抵抗が全くないわけではないけれど、望むようにしてあげたいと思う。私が彼の希望を叶えられることなど、本当に少ないのだし。


「……シオンは、お仕事は大丈夫なのですか?」


 手早くハンカチを絞って差し出すと、彼は唐突な質問に幾分面食らった様子で一度目をぱちりと瞬かせた。


「私の仕事? 父がお前に任せられる仕事などないって、外交の一部と書類の整理くらいしかさせてくれないから基本的に暇を持て余しているけど」


 彼はハンカチを受け取りながらのんびりと答える。そういえばヒース様は常に忙しそうだけれども、言われてみれば貴族はのんびり優雅にしているのが普通だったと思い直す。


「私……仕事の途中だったのに、放棄してきてしまったんです……」


 父から預かっている大事な仕事なのにと悔いる気持ちから、じわりと目頭が熱くなった。堪えようと俯くと、大きな手が頭を撫でた。


「それは君の責任によるところではないだろう?」


 穏やかな言葉が降ってきて、かえって涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。


 彼はきっと甘えればいくらでも甘やかしてくれるのだろう。

 でも、頼ってはいけない。

 こんなことがずっと続くわけじゃない。

 いつか来る別れの日の後、再びひとりで両親を背負って生きていけるような心構えだけは忘れてはならない。


「客商売は信用第一なんです」


 気を強く持ち直して再び外を見、太陽の位置から時間を推し量る。


(――大丈夫。まだ間に合う)


 ひとつ呼吸して意を決し、彼を見上げる。


「申し訳ありませんが、お暇(いとま)いただいてもよろしいですか?」


 予想はしていたけれど明らかに残念そうに眉をしかめられ、慌てて付け加える。


「急げばまだ、ここの仕事を片づけてから明日の朝市の準備は間に合うと思うので……」


 彼は呆れ顔で深い溜息をひとつ吐いたかと思うと、苦笑いを浮かべた。


「別に帰るのは構わないけど、仮にも恋人なら帰り際に名残惜しむとか、次の逢瀬の約束くらいしてほしいものだな」


 一度失笑しそうになるが、恋人というのはそういうものだろうかと思い直して頭をひねる。


「……えぇと、そうですね……市場が休みの日なら、多少時間が作れると思いますけど」

「嫌だ。毎日会いたい」


 まっすぐに見つめられて臆面もなく言われると、せっかく落ち着いていた心臓が再び飛び跳ねて思わず目をそらす。


「毎日と言われましても……日の出前から朝市の準備をして、朝市の後に配達と畑の世話と翌日の商品の収穫して戻って来るのが日暮れ前で、家に帰ってからも細々とやることがあるので……」


 一言聞くごとに彼の表情は少しずつ曇って行き、最後には呆れ顔になった。


「……君、いつか過労で倒れるんじゃないかな……」

「街の人はみんなこのくらい働いていますよ」


 ぴしゃりと言い切ると彼は唸り、しばし考え込む。


「君に無理をさせるのは忍びないけど――」


 シオン様は言葉を探すのに手間取り、さらに迷う様子だった。それから最後に、遠慮がちに私の袖を摘んだ。


「…………寂しいんだ」


 気恥ずかしそうにぽつりとこぼす姿は迷子を保護したような気分がして、思わず苦笑いがこぼれた。


「では逢瀬になるかわかりませんけど、市場に遊びにいらしてはいかがですか? 店番中なら、お客さんがいない間にお話相手くらいならできますよ」


 あまりの子供っぽさをあしらう冗談のつもりだったのだけれど、意外にも彼は親と再会した子供のような笑顔を浮かべた。


「ああ、それは楽しそうだな。朝市はまだ見たことがないんだ」


 そして至極あっさりとそれを了承してしまったのだった。


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