真の対等
父が去ると、室内は一気に静寂が満ちた。
しかしそれはほんの一瞬で、サラがゆるゆると緊張が解ける吐息を漏らしたかと思うと、挨拶もなく扉を閉めもせず飛び出していった。
ひとりきりになった室内に、深い嘆息が落ちる。
気を紛らわそうとソファに座ってみたけれど、じわじわと痛みが染みていくだけだった。
情けない。
泣きたくなるほど情けない。
守りたいと思ったのに、逆にあんな嘘で庇われた――。
頭を抱え込み、うずくまって痛みを堪えていると、サラが水を張り数枚のハンカチを浮かべた木桶を持って戻ってきた。
「お医者様がじきに来るのでしばらく冷やして待っておくように、だそうです」
「――処罰は、困るんじゃなかったのか?」
床に膝をついてハンカチを絞っているサラを直視できず、明後日の方を向いて問いかける。
「ヒース様は弱者を虐げることを厭う優しいお方です。あのお怒りも私の身を慮(おもんぱか)ってのことのようでしたから、私に処罰などなかろうと考えました」
サラは父への信頼に満ちた微笑を浮かべてハンカチを差し出したが、とてもそれを取る気にはなれなかった。
確かに父は被害者であるサラを罰しようなどとは考えていなかっただろう。
けれどそれを見越していたとしても、領主でもあり雇い主でもあり、なおかつあれほど怒っている父に毅然と立ち向かうとは、呆れるほど肝が据わっている。
「それでも――なんであんなこと言うかな」
その強さに、苛立ちが混じる。
我ながら勘当されても仕方ないと思うほどの愚行の犠牲者だろうに。なぜ父を止めるために、さらに自分を貶めるようなことを言い出すのか。
あんなふうに庇われるくらいなら、勘当されたほうがまだしも……。
「私に庇われたことが不服ですか?」
ずばりと言い当てる口調は父の言葉より辛辣に聞こえ、答えることも顔を見ることもできなかった。
「女のくせに、下働きのくせに、侯爵家の坊ちゃんを助けようなどと思い上がりだと?」
「…………違う」
叱られて拗ねた子供のように顔を背けたまま小声で答える。サラは拗ねた子供を叱る母のように強引に両頬を包みこんで顔を突き合わせられる。子供っぽいと自覚しながらも、目を合わせるのが躊躇われて一時、目を瞑った。
サラの右手にはしっかりハンカチを広げてられていて、ひんやりとした感触が腫れた頬に染みる。目を逸らすなという父の言葉が蘇って苦い気持ちが溢れる。
「女の助けを借りるなど、矜持が許さないと?」
答えることができなくて代わりにゆっくりと目を開けると、額が触れそうな距離でまっすぐな視線に射抜かれる。
「ならば、私と対等でありたいと言ったのは嘘ですか? それとも一方的に守るのが対等だとお考えですか?」
たたみかけられ、心臓を殴られたような気がした。
声が出ず、無言のまま自分でハンカチを押さえ、サラの手を逃れるように俯いた。嘆息が落ち、怒りが緩む気配がする。
「――あなたは私を、私の家族を救ってくださいました」
鉛のように重い吐息をもう一度押し出すようにして、彼女は言った。
家族を、の意味がわからなくて顔を上げると、サラの怒りはその溜息に溶け落ちたかのようにいつの間にか消えていた。
「殿下は従わないなら父を亡き者にすると仰られました。……それが、どれほどの恐怖であったか。どれほどの絶望であったか。あの時あなたが庇ってくださったことが、どれほどの救いであったか――……どれ…ほど、私が………っ」
サラは滲む涙に言葉を詰まらせ、王弟に逆らえなかった理由をはじめて吐露した。
「卑劣な……!」
「――ですから」
王弟への嫌悪感に怒声をあげようとしたのは、深呼吸をして気持ちを改めたサラが遮った。
「ですから私も同じようにあなたを救いたいと願いました。それはやはり不遜だと咎められることでしょうか?」
じわり、と胸の奥からあたたかいものが湧き出てくるのを感じて、胸を押さえる。
守りたいと思ったが、守られることなど考えていなかった。
それで対等と言う愚かしさに、笑いがこみ上げる。
「――いや……。いやごめん。ありがとう」
素直な謝罪と感謝を口にすると、サラはふわりと笑ってくれた。
桶にもう一枚用意してあったハンカチを差し出され、今度こそ素直に受け取るとぬくもってしまったほうを手渡す。
熱を持った頬に当てるとひんやりした温度が心地良くて痛みが引いていく。
それにしても、と冷えてきた頭で思って失笑が漏れた。
芯が強そうだという印象は元々あったにしても、彼女は可憐な花のような見目に反してどうにも肝の太さが竜並らしい。
「……なんというか、ちょっととんでもない娘に手を出してしまったかな」
彼女と話す度に醜態を晒すばかりで、いつも情けなくて後悔ばかりしている。
なのに、不思議だ。
もっと話がしたいし、傍にいてほしい。
そんな願いがどうしようもなく溢れて止まらなくなる。
酒か麻薬にでも溺れたらこんな感じだろうかと、苦笑が漏れる。
「後悔なさるのなら、いつでも一時の遊びだったと言ってくださって構いませんよ」
くすくすと笑いながら桶を抱えて立ち上がったサラがこともなげに口にした言葉に、再度心臓がハンマーで殴られたみたいに飛び跳ねた。
暴れる心臓をなんとか宥めすかして見上げる。
「それはこれから先があるように聞こえるけど」
「はい。先ほどヒース様のご公認をいただきましたし。ヒース様は放蕩を嫌っていらっしゃると聞きます。ご子息がとなると体面も悪いでしょうから、シオン様が嫌でなければしばらくお付き合いいただいたほうがまだしも面目が立つのではないでしょうか?」
「あぁそう。父のためね」
むくれると、サラは子供を見守る母のような笑みを深めた。
「体裁が悪いというなら誑かしたとか誑かされたとか、あれも私が君を見初めたのだと訂正してほしいものだな」
「ふふ、そうですよね。咄嗟のこととはいえ、申し訳ありませんでした。……ありがとうございます」
サラは手桶を床に置くと、深々と頭を下げた。
「でも、お邪魔になればいつでも目が覚めたと……」
「ないな。それは絶対にない」
遠慮がちに辞退しようとするサラに強く宣言した。顔を上げたサラの手を取ると先程までの剛胆さは煙のように消えて、頬を薔薇色に染めた困り顔で狼狽えた。
「それと。あんな男と一括りにされるのは我慢ならないから、この場で宣言する」
冗談まじりに姫に忠誠を誓う騎士のように彼女の前で膝を突き、手の甲に軽く口づけを落とす。
改めて見たその手は、アカギレとマメで傷だらけだった。植物の灰汁で深緑に染まった指先も、土の入り込んだ爪の先も――傷のない自分の手が恥ずかしくなるほどに、懸命に働いてきた者の手だった。
彼女を守ろうと思うなら、このままでは駄目だと深く心に刻み込む。
「君が心から私を認め、望んでくれるまでは決して君に不埒な振る舞いはしない。君を守るためのかりそめの恋人でかまわない」
その細くて傷だらけの手を、愛おしいと思った。
理不尽な不遇から救いたいと願った。
けれど私はまだ、その知恵も力も持っていないから。
いつか、自分の力で彼女を守れるようになるまでは。
「但し、それまで絶対に君を手離すつもりはないから覚悟しておいて」
最後の宣言にサラの手がびくりと震えた。膝を突いたまま上目遣いで見上げると、彼女は両手を胸の前に引き寄せ、外を見つめて押し黙った。
その横顔を眺めながら、こぼれてしまいそうになる笑いをかみ殺す。
――君は、家族のために領主の世間体を最優先すべきと言った。領主に逆らって仕事を減らされては困ると言った。
けれども、私のためにその領主に逆らってくれた。
それは私を家族のように大事だと言ってくれたのと同義だと、自惚れてもいいだろうか?
その問いは喉元までせり上がったけれど、助けてもらった恩義のためだと言われるのが怖くて、胸の内にこっそりとしまいこんだ。
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