苦い薬



「この、大莫迦者がっ!!」


 扉が開いたのと同時だった。

 容赦のない怒号とともに平手打ちが見舞われ、次の瞬間には腹に蹴りが入り――軽く体が浮いた気がしたかと思うと派手な物音と激痛に包まれる。

 弁明する暇も与えない叱責の衝撃が肺に響き、呼吸のリズムが狂ってうまく息を吸うことができずに咳込んだ。反射的に閉じていた目をゆっくりと開けると、ひっくり返った応接セットの向こう側で、侍女が青い顔をして人を呼びに走っていくのが見えた。執事が父を止めようとしている声も聞こえたが、黙っていろと静かに一喝されて沈黙が降りる。

 こつ、と堅い足音が部屋に入ってくる音がやけに大きく響いた。


「おまえは自分の愚行をわかっているのだろうな?」


 視界に黒いブーツが入ってきて顔を上げると、父は手をさすりながらも小気味いい足音を鳴らして倒れている私に向かって歩いてくる。

 父に殴られるのも怒鳴られるのも慣れているが、それにしたって今日はこれまでにないほどの怒りに満ち満ちている。


(これはやっぱり王弟に働いた非礼ではなく、サラを連れ込んだことに対する叱責なんだろうなぁ……)


 ぐらぐらと揺れる頭でぼんやりとそんなことを考える。

 潔癖な父のことだから王弟の蛮行も許し難いだろうが、そこへ不肖の息子が闖入して私室に連れ込んだとあっては面子が持たないことだろう。


「おまえなど私の息子ではない。出て行け」


 驚きから、父を見上げた。

 叱責はいつものことだが、勘当を言い渡されたのは初めてだった。感情的に口走っているわけではない、凍りついてしまいそうなほど冷ややかな言葉と視線は本気だ。


「ヒース様、おやめください!!」


 悲鳴のような叫び声とともに駆け寄ってきたサラが、目眩で起きあがれなかった私の背中を支えて助け起こす。


「大丈夫ですか?」

「……一応は」


 空気が掠めるだけでも赤く腫れあがった頬はびりびりと痺れるように痛む。

 それを心配そうにのぞき込むサラの目に、じわりと涙が滲んだ――と、思った瞬間には、彼女は父に向き直った。


「シオン様は私を助けてくださったのです!」

「規律を正し、風紀を取り締まればいいことだ」

「それだけでは足りなかったから、サラはあんな――」

「だからと言って彼女の一生を捨てさせる必要などない」


 ぴしゃりと遮った父の言葉は容赦なく胸を抉った。殴られた時に口の中を切ったらしく、鉄臭い血の味がじわりと広がっていく。


(一生を……捨てさせる――)


 いくらサラの器量がよくても、一度でも貴族の手がついた娘を娶る男が市井(しせい)にいるはずがない。まして一度でも遊び相手を勤めた遊女などと噂が広がれば、王弟のような男どもがよけいに寄りついてくることも想像にたやすい。

 この部屋に連れ込まれた時点で――いや、王弟に豪語しておいて虚言だったと言えるはずがないから、王弟に公言した時点で彼女はもはやまっとうな女性の幸せを掴む道を絶たれたのだ。


「助けるだの守るだの、くだらない建前だ。私欲のために他者の人生を踏みにじるような愚息など要らん」


 守るというのは建前で――本当は噂の中だけでも私のものでいてほしいという醜い願望の片鱗を押しつけたのでは?


「建前だなんて……」


 サラは食い下がろうとして、しかし言葉を詰まらせた。


――あの時、彼女はそれを承知で、それでも笑みを浮かべてついてきてくれたのだろうか? 王弟よりはいくらかマシだと? それとも王弟に仕えることを覚悟したほどだから、最初からそんな普通の幸福など諦めていたのだろうか?


 そう思うと血の味以上の苦い思いがじわじわと満ちて、私のものだなんて口走って連れ込んでしまったことに後悔が押し寄せる。

 私にはそれ以上言い訳の余地がなく押し黙るしかなかったが、サラは父に対峙し続けた。


「シオン様は私を助けるために嘘をついただけで、なにもしていないんです。お願いですからヒース様考え直してください!」

「私が君の言を信じたとしても、世間は信じまい」


 着衣に乱れはないとはいえ、遅れてベッドから出てきては説得力など皆無だろう。まして父は一切の反論を許さないという気迫で立ちはだかっている。 


「事実が意味を成さないこともある」

「でも……!」


 冷ややかな父の態度が、サラには哀れみを覚えたのかわずかに緩んだ。

 けれど、それでもサラは諦めようとはしなかった。王弟にあれほど怯え、拒否できなかったのに、なぜ今こうも父に逆らうのかがわからない。

 ……父の機嫌を損ねて仕事がなくなれば、困るはずなのに。


「サラ、やめるんだ」


 サラの立場をこれ以上悪くさせるわけにはいかないと、父のほうばかりを見ている彼女の腕を引く。引き寄せられた彼女は私を――私の腫れた頬を心配そうに見つめた。それからを私の手を両手で包み、祈るように額をつける。

 永遠に続きそうに思えたが、おそらくは刹那のことだっただろう。

 彼女は唐突に立ち上がった。父に向き直ったせいで表情は見えなくなるが、最後に見えた瞬間はほのかに口元を綻ばせていたような気がする。


「私が――」


 ピシリと背筋を伸ばしたサラが、父の前に一歩進み出た。

 その声は、かすかに震えていた。


「私が、シオン様の優しさに付け入り誑かしたのです」


 続けられた言葉はその内容とは間逆に清々しいほどきっぱりとしていて、まだくらくらと揺れる頭が何かを聞き違えたのではないかと思った。


「私は自らの意志で服を脱ぎ、抱かれることを望みました。でも、結局シオン様は私に触れてくださらなかったのです」

「サラ、なにを――」


 凛とした後ろ姿は、その問いとも言えない問いには応じなかった。もはや聞き違えなどではないとはっきりしたが、なぜそんなことを言い出したのか理解が――。


「ですから咎を負うべきは私です。どうかシオン様をお許しください」


 淀みのない釈明に父もまた驚愕の表情を露わにし――この人が驚いた顔などはじめて見た――苛烈な怒りが薄らいだのが見て取れた。


「なにを莫迦なことを!!」


 めまいも痛みも吹き飛び、弾かれるように飛び起きてサラの肩を掴む。だが、サラはそっと手を添えて首を振った。


「事実でしょう?」


 見上げてきた彼女の目に宿っているのは決して揺るがない強い光だった。

 完全な嘘ではないが、決して真実ではない。

 真実をねじ曲げていることに違いないのに――その強い意志に気圧され、言葉に詰まってしまった。


 ぴりぴりと痺れるような緊迫した沈黙が流れた。

 たっぷり数十秒はあったその沈黙を破ったのは、父だった。


「君は……どれほどの謗りを受けるか、わかっているのか?」


 いかにも機嫌悪く眉をひそめた父に向かい、サラは自信を湛えて微笑んだ。


「私のような身の上では他人の言葉などよそ風と同じことです」


 父はしばし真意を測ろうとサラを凝視する。


「厚い御恩情にこのような形で報いたこと、申し開きのしようもありませんが――どのような罰でも受ける所存でおります」


 サラは深々と頭を垂れた。

 父は苦虫を噛み潰したような顔をしてそれを睨んだ。

 顔をあげなさいと命じられても私を許すよう願い出るばかりで、揺るぎない意志を表すように微動だにしない。

 ついには父が根負けし、顔を反らして大きな嘆息をついた。


「……それほどの覚悟と互いの合意があるならば、私が口を出すことではない。好きにしなさい」


 父は怒りが抜け落ちた代わりに心底呆れたという様子でサラに言い捨てると、その隣をすり抜けて私の元に歩み寄った。眉間に深い皺を刻んだ父は、乱暴に胸ぐらを掴んで引き寄せると耳元で囁く。


「シオン、一生心に刻みこんで決して忘れるなよ。苦い薬だからと逃げるほど性根が腐っているなら容赦なく叩き出す」


 静かな怒りに満ちた声でそれだけ言うと突き放すように手を離し、何事もなかったかのように颯爽と公務へと戻っていった。

 時間が止まったかのように唖然としていた執事が、慌てて医者を手配に走っていった。


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