健気な花1



「客人をもてなすのも仕事のうちであろう?」


 廊下の角を曲がると、現場が見通せた。とは言っても、半分は手前の物置台とそこに乗せられた大きな花瓶に隠れていて、遠目から一見しただけでは男がひとりで壁に話しかけているような奇妙な光景に見えたが。

 ともかく、どうやら我が家の侍女がどこぞの貴公子に言い寄られているようだ。厳格な父は我が家の侍女にそんな接客は断じてさせない。

 ひとまず注意しなければと足を早めた。


「花の手入れがまだ終わっていませんので……ヒース様に叱られます……。どうかお許しください」


 許しを乞うその声を聞いた瞬間、ぞわりと全身の肌が粟立ち、一気に駆け出した。かすかに聞こえたその悲痛な願いを紡いだのは、サラの声だったから。


 走りながら目を凝らすと、男は壁に向かってさらに一歩詰め寄り、押し込まれるように壁と花瓶の隙間から蜂蜜色の髪がちらついた。花瓶に隠れて男が誰だかはわからないが、サラが男から顔を背け、青ざめた表情がほんの少し見え隠れした。


「ならば我が館で働かせてやる」


 サラは雨に濡れた子猫のように震えていた。きつく引き結んでいる口元を、男の指がねっとりとした動きで執拗に撫でまわす。


「この私に奉仕できるのだ。名誉ある仕事だろう?」


 くつくつと笑う暗澹とした男の声におぞけがする。

 サラはなにも答えない。それは否と答えることができないからに他ならない。


(それ以上、触るな!!)


 サラは花の手入れをしている業者であって侍女(メイド)ではないのだから客人をもてなすのは花を飾るだけで十分だ。そうして額に汗して働いているサラに娼婦の真似事を命じてなにが名誉か!と叫びたい気持ちを必死に堪えて床を蹴り続ける。


 大声で見咎めてやれればいいのだが、イグナス家の爵位はおおよそ中位といったところだ。先祖代々受け継がれた名誉ある位だと教えられ、これまで不満に思うこともなかったが――今だけは、それを恨んだ。

 どれほど不快でも相手がわからないうちは下手に手を打つわけにはいかない。

 男の外套は遠目でもかなり質のいいものであることがわかる。衣装ばかり見栄を張る者もいるが、事実イグナスよりも高位の貴族だったら、見咎めた言葉尻ひとつをいくらでもこちらが悪いように言い立てられる可能性がある。


 男はきつく目を閉じたままのサラのうなじに口を寄せ、なにかを囁いた。


 その瞬間、サラの全身がびくりと強張った。次いでゆるゆると力が抜けたように見え――おそらくは今までサラが抱えていたのだろう赤い薔薇の花がはらはらと床に落ちた。

 男は足下に散乱する薔薇を意に介さずに踏みにじり、花瓶の影に消えた。よほど体を強く押しつけなければ、そうはならないだろうに。


「ふふ、怯えることはないぞ。私の言うことさえ聞いていればな」


 強く床を蹴りながら、この足音に気づいて振り返りさえすれば、と思う。

 声を抑えた男の言葉が明瞭に聞き取れるのだから、私が駆ける足音も聞こえてもいいはずだ。男がどんな身分であってもある程度の良識さえ持ち合わせていればこの館の主の息子の前で堂々と狼藉を働こうとはしないはず。

 けれど男はサラを口説き落とすことに夢中になるあまり――そしてサラは恐怖で、だろう――周りが見えていないのかまったく気づく気配がない。


「……ぃ…やっ!」

「ん? なにか言ったか?」


 掠れたわずかな悲鳴をかき消すように男は強く迫り、サラは息をのんで沈黙する。


 この廊下をこれほど長いと思ったことはない。

 俊足にはそれなりの自信があるが、それでも足りない。

 まるで悪夢だった。

 走っても走ってもたどり着けない蜃気楼を追いかけているような悪夢。もし夢なら今すぐ醒めて欲しかった。


 あの花瓶の影でサラが今なにをされているのか見えない。

 指一本たりともサラに触れるなど許せないのに。

 それが、かきむしりたいほどはがゆい。けれどそんな時間はなく、歯を食いしばる。


 ゆっくりとサラが身動ぎして男に背を向けた。

 それが抵抗ではなく命じられた行動なのは、蜂蜜色の髪の代わりに見えるようになった虚ろな瞳で明らかだった。


(――やめろ!!)


 焦燥が最大限に達し、叫ばなければ発狂しそうになった、ちょうどその瞬間だった。

 男が、一歩だけ距離をとった。


「……そういえば、ここはヒースの領内だったか……」


 サラは首を捻り、淡い期待と許しを求めて男の顔色を伺う。

 ――だが。


「邪魔が入ると興がそがれる。部屋に入れ。別の趣向を愉しむとしよう」


 どろりとした粘液のようなおぞましい言葉にサラの目は再び虚ろになり、ゆっくりと男に向き直り、震える口元でなにかを――おそらくは了承を――口にしようとした。


「サラは私のものだ。手出しはご遠慮願いたい!」


 限界だった。

 ここまでの我慢が空しいものとなるが、構ってなどいられなかった。

 現場に到達するなり、相手の立場など構わずに乱暴に男の肩を掴んでひきはがし、サラを背にして間に割ってはいる。

 他家の使用人に手を出すのはマナー違反だとか、女性の扱いには特に厳しい父の意向でリュイナールの領民に貴族が地位を利用して言い寄ることを暗黙のうちに禁じているのを知らないのかとか、他にもいろいろ言いようはあったのだ。だが、とっさに口をついた言葉はそれだった。

 ほぼ単なる願望だが、説得力はそれなりにあったようでわずかに男が怯んだ気配がした。


(……よりにもよって、厄介な男の目に止まったものだな)



 肩で息をしながら男の顔を確認し、心の中で思わずひとりごちた。


「――これは、王弟殿下とは知らず大変な無礼をいたしました」


 礼儀として口にしたその言葉に、微塵たりとも謝罪の意を込めることはできなかった。

 三十代も後半、痩身のその男は、王弟ヴィオール・バジリオ。

 正妻の他に側妃を3人抱え――この国の婚姻に関する法は原則一夫一婦制だが、戦乱の時代の名残で今も王族のみ3人まで側妃を認められている――お気に入りの傍仕えの数は知れないという噂がある男だ。まして近年、王が政治に興味を示さず、代わってヴィオールが実権を執り始めたので、その手の早さは止まるところを知らないという悪名が日々奔走している。


 結果として、悪くない言い訳だった。

 やんわりとマナーがどうの、地方領主の意向がどうのなどと言っても無意味な相手だった。


「ですが、王弟殿下ともあろう方が、よもや人のものと知って手を出すほど酔狂ではないでしょう?」


 ヴィオールはあからさまな舌打ちをし、悪魔に憑かれたようなまがまがしさで私を睨んだ。


「……シ…オン様……?」


 背後でサラが何かを確認するようにおそるおそる私の名を呼んだ。それに応えてやるより先に、ヴィオールの視線がサラに移り、肩越しにヴィオールの視線を感じたサラがびくりと竦む気配がした。

 身じろぎして王弟の視線を遮り、代わりにそれを請け負う。


「…………ぅ……」


 途端、声にならないほどごくかすかな嗚咽が背中に伝わってきた。壁と背中に押しつぶされそうになりながら、サラは私の背中を躊躇いがちに――しかし命綱みたいにぎゅっと掴んだ。

 頼ってくれた――そのことに、安堵を覚えた。

 ヴィオールの視線などどうでもよくなるほどの安堵を。


 サラは、泣くまいと必死に堪えていた。それでもぽろぽろとこぼれ落ちる涙に、背中が濡れていくのを感じた。ほのかな体温と、震える細い指、あたたかい涙。それらを背中に感じ、胸が引き裂かれるようだった。


(――どれほどの恐怖だったのだろう……)


 確かに王弟の目に留まり声をかけられるのは本来なら栄誉だろう。しかし賜ったのが、拒否することが許されないと知った上で、まるで狩りでもするようにじわじわと追いつめ、いたぶることを楽しむような言動では、あまりに惨い。

 その恐怖を思うと一秒でも早くこの場から――というよりこの男から――離れさせ、安心させてやりたかった。


「非礼は後日正式に詫びますが、今日のところは失礼させていただきます」


 早口にまくし立て、ヴィオールの返事は待たずにサラに向き直る。


「サラ、この経緯は私の部屋で聞く。いいね?」


 冷えた手を両手で包み込むと、彼女は切なくなるほど涙が溜まった目でおそるおそる見上げてきた。怯えきった若草色の瞳と視線が合うと、できるだけ安心させられるようにほほえみかける。

 サラは壁に寄り添っていなければ今にも崩れ落ちてしまいそうだったけれど、迷いながら床を見つめるだけで返事はしなかった。だから強引に腰に腕を回して強く抱きしめ、耳元に囁く。


「頼むから頷いて。君を守りたいんだ」


 息をのむ音や喉が鳴る動きが伝わるほどの距離から、少しだけ腕を緩めて返事を待った。

 サラはひとつ深く息を吐いてから、泣きはらした目元と頬を緩ませ、そしてゆっくりと頷いた。


「――はい」


 その返事とともに最後の涙が一筋、頬を伝って落ちた。



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