銀のユリに誓う

告白2

「手伝おうか？」

　城の裏庭で、台車から花を下ろしている時のことだった。

　唐突に背後から朗らかな声がかけられ、びっくりして振り返った時にはもうシオン様は返事も待たずに台車の上から花が溢れんばかりに詰め込まれた木桶を持ち上げようとしていた。

「私の仕事ですから、シオン様に手伝ってもらうわけには……」

「……おっ……と、とと」

「あぁほら、危ない！」

　その重みにふらついた彼から奪い取るようにして木桶を引き取る。ほんの少し触れた指先にドキドキと心臓が脈打つのを、驚いたせいだと自分に言い聞かせる。

「それって思ったより重いんだな。いつもサラが持ってるからちょっと油断した」

「花屋って意外と力仕事なんですよ。坊ちゃんにお手伝いいただくわけにはいきません」

　心臓を宥めすかしながら木桶を下ろし、なんとか落ち着いてきたのを確認しながら振り返ると、彼は一つに束ねた金色の髪を背中に放りながら誤魔化すようにはにかんだ。

「君のその華奢な腕よりは力持ちだと思うけど」

　腕力の問題ではなくて立場の問題なのですけれど、と言うべきかを迷ったのは、一瞬。

「ねぇサラ、付き合わない？」

　あまりにも突飛な言葉にそんな思考などかき消されてしまった。

　彼はいつもの笑みに少しだけ照れ臭さを加えてはいたけれど、至極さらりとその言葉を口にしたのだ。

「……はい？」

　あまりにも脈絡なく、しかも「おはよう」と声をかけてもらうのと同じくらい気軽な様子に意味をはかりかねて返事に詰まった。

「ええと、交際を申し入れているのだけど」

　曖昧な返事に、彼はバツが悪そうに付け加えた。

　反射的に、胸がひとつだけ高く脈を打った――けれど。

（……軽い）

　けれど、直後にそれ以上の深い落胆が襲ってくる。

　その緊張感の欠如に茫然とし――がらんとした胸の中に木枯らしが吹いたような心地がした。

　正直に言って恋愛の経験が豊富とは言い難いし、交際を申し込まれるなんて初めてだけれども。けれども、普通はもうちょっと緊張とか気負いとか、重みとか、そういうものがあるものではないのだろうか？

（断れるはずがないという自信？　――貴族だから）

　そう考えた途端、ずしりとした嫌なものが胸にわだかまり、淡い憧れがぐしゃりと潰えたのを、他人事のように遠くで感じた。

　この仕事を拝命してから既に二度、城を訪れていた貴公子に猥褻な奉仕を要求されている。今のところは運良く大事には至っていないけれども、ひとりで仕事をしている時に貴公子とすれ違う度におぞましい懸念が背中に張り付くようになってきている。

（結局……貴族なんてみんなそんなものかしら……）

　胸の中を苦い気持ちが満たす。

　勝手に彼は違うと舞い上がった自分が無様だった。じわりと溢れそうになる涙を堪えて、深々と頭を下げる。

「申し訳ありませんが、勤務中ですのでお戯れにはお付き合いできません。どうかお許しください」

　喉の奥が痙攣するような痛みに耐えながら断りを絞り出す。

　深い落胆はしかし、次の瞬間には背筋にひやりと冷たいものが這い寄ってそれどころではなくなり、慌てて彼を見上げた。

「お断りすると、なにか処罰を受けますか？　仕事に障るようなことは――？」

　落胆の勢いと、それから雇用の際にヒース様からこういった誘いは勤務中を理由に断固拒否するよう言い含められていたから断ってしまったが、本来民が貴族に否の返事など認められない。彼は雇用主の息子だし、週に３日は顔を合わせる可能性があるというのに、拒否などして支障ないだろうか？　顔を合わせ難いという程度ならいくらでも我慢するけれど、仕事を切られたり減らされるのは困る。とても困る。仕事に障るのならば、断ることなど――。

「処罰……？」

　焦る私とは真逆に、シオン様はぽかんとしていた。

「命令に背いたと厳罰を受けた人の話を、よく耳にします……」

　用心深く神妙に頷いたが、彼は未だに理解できないという顔をしたまま顔を背けた。

「命令に背く？　こんな、私用で？　そんな横暴は父が許さないと思うけど」

「そうですか？」

　呟く間に無愛想だが実直な領主様の姿が脳裏に浮かんで、ふわりと心が軽くなった。

「……ヒース様なら……そうですね。ありがとうございます」

　冷えた心がじわりとあたたかくなって、人心地がした。同じ人物を脳裏に描いたはずのシオン様は気まずそうに領主の執務室があるあたりを眺めているけれど。

「では、仕事がありますので、これで失礼します」

「あー……サラ、待って」

　逃げるようにそそくさとお辞儀をして仕事に戻ろうとしたが、歯切れ悪く呼び止められた。居心地悪くも再び彼を見上げ――目を剥いた。

「ごめん」

　彼は、頭を下げていた。会釈程度の軽いものではあっても、貴族が平民に頭を下げるなんてあってはならないはずなのに。

　まして、領主の息子がたかが出入りの業者になど。

「そんなつもりではなかったんだ。サラに処罰されるとか仕事がなくなるとか、そんな心配をさせてしまうなんて、考えてなかったんだ……」

　すぐさま頭を上げてもらう必要があったが、頭も声も凍りつくほどの衝撃だったために、たださらりと肩から滑り落ちる金色の髪を見つめ続け、弁明を聞き続けてしまった。

（彼は本当に――本当に、身分なんてまったく気にとめない人なのね……）

　ゆっくりと溶け始めた頭がそう考えた時、思わずくすりと笑みがこぼれた。

「あなたは、本当にお優しい」

　彼のことをいつまでも子供のようだと苦笑で見守るエドガーさんが脳裏に浮かんで、

本当に坊ちゃん（・・・・）だ、と改めて思った。

　良くも悪くも子供のように純粋で優しい良家のお坊ちゃんだと。

　くすくすと笑われて、彼は不思議そうに顔を上げた。失礼だと咎められることも心配したが、彼は気まずそうに顔を逸らしただけだった。

――そう、彼は、尋ねてくれた。

　たとえ軽くはあっても、私の意向を。

　他の貴公子達がそうしたように、一方的に命じ、強要することもできるのに。しかも、断られて怒るわけでもなく、謝るなんて。

　見識の甘さにさえ気づけば、きっとヒース様のように民に慕われる領主になるのだろう。彼に愛される女性は、きっと誰もが羨むほど大事に慈しまれるのだろう。

「サラ、私は――」

　掛けられた声に視線を向けると、灼熱の太陽ほども熱い視線が注がれていてどきりと胸が高鳴る。

　今度こそ緊張と重みのある声音にひやりとして、身が引き締まった。彼は伸ばそうとした手を拳を握って下ろし、口元がわずかに揺れる。

「あなたはいつか、私ではない人を愛することに違いないのでしょう？」

　滲みそうになる涙を、震え出しそうな声を。

　必死に押し殺して笑みをつくる。

「仕事に障りますので、失礼いたいたします」

　彼は剣を喉元に突きつけられたような顔をして、ただ立ち尽くしていた。了解を待たずに御前を離れるのは失礼だと理解しつつも、さっとお辞儀をして踵を返した。

　彼に背中を向けた途端、堪えようとしたのに涙が一粒こぼれ落ちる。

（――だめ。だめ、泣いちゃだめ！）

　ただひたすらそれだけで頭を一杯にして、茫然としたままの彼を残し、城内にある侍女達の控え室に逃げ込んだ。

　人に見られる前に急いで顔を洗う。

　洗面の桶に映った自分の顔が、水面の揺れに合わせてぐにゃりぐにゃりと歪む。時間が経つにつれてそれがゆっくりと滑らかになっていくを見つめていたら、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

――サラ、私は――

　けれど不意に最後に熱っぽい声音で名前を呼ばれたのを思い出してしまい、かぁっと頬が熱くなるから、ぱしんと自分の頬を打って気を引き締める。

　あの続きを、聞いてはいけない。

　期待などしてはいけない。

　いつかは醒める夢のような幸福など。

　いつ夢から醒めなければならないのだろうかという恐怖と紙一重の幸福など。

　きっと、耐えられずに潰れてしまうから。