告白1


 竜の祝福を受けた英雄の国・グラド。

 その王都・トルリカの南西に隣接する森と、森のほぼ中央に位置する小さな街・リュイナール――それが、イグナス家の現当主ヒース様の管轄する領土のすべてだった。

 過去には武勇を誇る貴公子や騎士達が催す狩りの舞台としてこの森が重用されたらしいが、それはもはや遺物だ。平定されて永いこの国では――国境ではまだしも王都付近では特に――武勇を誇りとする貴族は数を減らす一方だと聞くし、現に狩りが催されることはほとんどない。そんなわけで特筆できるような産物のない鬱蒼とした森に囲まれたリュイナールは十数年前までは貧しい街だったらしい。

 それを現当主が《王都に最も近い街》という二つ名を冠し、街道を整備し、王都までゆっくりと馬車でも2時間ほど、早馬を飛ばせば1時間かからないという立地を生かし、王都へ向かう人々の宿場や交通の拠点として繁栄に導いた。おかげで今や街の市場はいつも活気と喧噪に溢れ、領民のほとんどが幸福に暮らしている。

 その政治手腕のみならず堅実で実直な人柄もリュイナールに暮らす人々の畏敬を集める領主ヒース様には、3人の息子がいた。

 今はそれぞれ妻が持つ領地を治めるためにリュイナールを空けているが、長男のアゼル様、次男のセオス様ともに父の才を受け継ぐ立派な指導者だと聞く。

 しかし亡き侯爵夫人の忘れ形見とでも言うべき3男・シオン様だけは、人懐っこい気性と優しさで周りに愛されて育つも、その言動は常に領主様の頭痛の種であるという噂だった。


――ので。


 厨房に唐突に現れたきらびやかな酔っぱらいに、とてつもなく緊張した。

 王都は広く、貴族の邸宅が並ぶ区画に商業者が暮らす区画、街外れには貧民街まで区切られていると聞くが、リュイナールは街の規模からその必要がない。時には領主自ら視察のためと市場を歩いたりするし、街の人々が請願しようとすればきちんと耳を傾けてくれる。だからほかの街の人々からするとずっと領主との距離は近く、畏敬と同時に親近感もある。

 だがそれでも貴族は法だと教え育てられてきた下賤の身なのだから、身が引き締まる思いがして当然のはずだ。


「ああもう、坊ちゃん……またこんなところでお休みになられて」


 食器を片づけて戻ってきたエドガーさんは、心地よさそうにすやすやと寝息を立てる雇用主の息子に対して幼い孫に向けるような愛情の籠もった溜息をついた。そして、そのままの苦笑いを私に向けた。


「ヒース様が手を焼く理由がよくわかるだろう?」

「……そうですね」


 戸惑いから同じように苦笑いを返すのが精一杯だった。

 大砲と称されたあの屈託のない笑顔――金色の髪は水面に反射して舞踊る光の粒のようにキラキラと輝いて、優しげな琥珀色の目を細めて笑った顔――あれを思い出すだけで頬が熱くなってしまい、両手で顔を覆う。

 「好き」と言われたのは花の香りのことだと頭ではわかっているのに、目が合った瞬間に全身が震え、前後の文脈だとか立場だとかを完全に吹き飛ばした。

 ……なるほど、大砲だ。

 相手の逆らう意志を吹き飛ばし、あの無邪気さゆえに仕方ないとほだされる。

 これは確かに、手を焼くかもしれない。


「坊ちゃんもそろそろ18だろう? 分別をつけて立場をわきまえないといけないのに、いつもこの調子でねぇ」


 料理長は笑みの混ざった困り顔で、天真爛漫なのに変なところで頑固な坊ちゃんの寝顔を眺めながら耳の後ろを掻いていた。


「ついこっちも坊ちゃんって呼んでしまうんだよなぁ」


 薄暗い厨房が、彼がいるだけで明るく、暖かくなった気がする。

 まるで無垢な太陽のような人――それが彼の第一印象だった。



     * * *



 領主様から拝命した仕事は客室と応接室、それらの部屋までの廊下に飾る花の配達と手入れ。あとは時々料理長から香草類の注文を受けている。

 週3回訪れるとはいえ、広い城内で領主の補佐をしている彼と顔を合わせる機会はあまりないはずだし、現に最初の一月は遠目に見かけるだけだった。けれど、一度厨房で顔を合わせた後から、彼は時々声をかけてくれるようになった。

 挨拶を交わし、ほんのひとふたこと天気の話など他愛のない話をするだけなのだけれど。

 一月ほど経った頃だっただろうか――ふと、たったそれだけのことに心躍らせてしまう自分に、気づいたのだ。

 城に行く時にはいつもより入念に髪の手入れをしてしまう。あの人の姿を一目見ることができるだろうかと、声をかけてくれるだろうかと、どんな話をしようかと、ほのかな期待を胸に秘めて……会えなかった日には肩を落としてしまう。

 そんな自分に気づいて、息をするのもままならなくなる。


(こんな――恋なんかして、どうするっていうのよ)


 胸を押さえて必死に呼吸をしながら、何度もそう自分に言い聞かせた。


 例え目にかけてくれたとしても、彼は雲の上の手が届くはずのない人。

 誰にでも分け隔てない彼の言動とは裏腹の、悲しくなるだけの身分の差。

 そのどうにもできない絶望的な高さの壁。

 決して実ることなどない不毛な想いなど、早々に捨ててしまったほうがいい。


 どれだけそう自分に言い聞かせてみても、彼に会うと心臓は勝手に暴れ出した。声を聞くと嬉しくて、なにを話したのか思い出せなくなるほど頭が真っ白になってしまう。

 そんな胸を苛む痛みに涙を堪えきれずに、ひっそりと枕を濡らす夜が、何度あったことだろう。


――それなのに。

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