第3話
あの後、風見さんと少し会話をし、僕が知る限りの難波さんについて説明し、アパートに帰った。といっても、自分は難波さんについては、――ほとんど知らないのだが。
三十代ぐらいに見える女性だったと思う。課の中でのたまの飲み会でも、あまり姿を見た記憶が無い。
印象が薄い顔立ち。
どんな顔かもはっきりと思い出せない。
仕事での印象もあまり無い。
何か悩んでいたりしてたのだろうか。
何かトラブルに巻き込まれていたのだろうか。
難波さんは橘音のお店には行ったのだろうか。
ともあれ――
――その人が、――死んでしまったらしい。
厳密には殺されてしまったのだ。
人生にリセットや電源などはないけれど、こうした終わり方は、なんだか虚しいものを感じてしまう。
夜、市の方から電話が来た。亡くなられたという内容。
事件か、事故に巻き込まれたかもしれないという内容。
戸締りなどキチンとして、役所関係者は今日はもう外出しないほうが良いということだった。
役所の人間を殺す恨みなどあるのだろうか。
そういう事件の可能性があるのだろうか。
――今の時勢ならあるかもしれない。
ただ、もっとこう市の役員とは関係の無いような部分を感じる。
そもそも、市の誰と仲が良いとか全く分からない人だ。
――そんなことを言っても、人の深いところなんて分かりはしないけれど。
橘音のような力でもなければ――。
夕方のニュースで出てくるのではないかと、野次馬な気分でいくつかのチャンネルを見ていたものの、報道はまだされなかった。
さし当たって、家から出るなと言われているので、冷蔵庫の中の岩ノリと卵でご飯を食べて、インターネットをして夜を過ごした。
翌日、例によって目が覚めてもそのまま布団の中で惰眠を楽しんでいると、昼近くに市の方から電話が入った。
難波さんの司法解剖などが夜半すぎまでに終え、明日から通夜、葬儀を執り行う旨の連絡だった。
同僚、まして同じ課ならば少し顔を出すのだろう。
お葬式用のネクタイやブラックスーツなどの準備をして、ニュースを見るもいまだに昨夜のニュースは行われていなかった。
午後三時過ぎ、電話が鳴った。
電話は橘音からだった。
例のパソコンの壁紙を直しに来いという内容だった。
かなり憤慨した様子が伝わってきたものの、気が向いたら行くとだけ答えて電話を切った。
どちらにせよ南方の家には夜にでも行こうと思っていた。
紅子さんがいれば、聞けるはずである。
事件現場。
死体の状況。
なぜ、報道されないのか。得られる情報が報道が無いならば、実際に見ているであろう人に聞けばいい。
神奈川の監察医は監察制度下であるにも関わらず、四名しかいない。
東京は約五十人だ。
他の監察医制度がある県でも三名ということはない。
神奈川の監察医に関する制度は色々と問題が多いらしく、昨今マスコミからその事件後の対応に批難が続いており、三名の体制から紅子さんを加え四名になった。
今後人を増員し、よりきちんとした体制を作るそうだ。
数名で検死を分散しているのかもしれないけど、五十名ではなく四名だ。実際に関わっている可能性は大きいと思う。
関わっていなくとも、情報は見聞きしているはずだと思う。
風見さんは一課なので同様に関わる可能性が高いのではないかと思う。
いずれにせよ、南方の家には一度行っておきたい。
食事や明日の準備を済ませ、一段落し、夜、家を出た。ここ数日続いていた雨はすでに止んでいた。
歩く道々は家々の合間を縫って歩くだけなので、コンビニも店もない。
ただの川崎の郊外。
先月潰れた会社の社員寮跡地を見れば、雑草が生え放題。じゃがいもか、ナスでもここにこっそり植えておけば、一夏食費が助かったかもしれないとか、また思った。
雑草と草木。紫の花弁。青の花弁。捨てられた空き缶。濡れた週刊誌。
無かったことにされた土地の無かったことにされた物。
僕もいっそ無かったことにしくれないだろうか。
時刻は夜八時過ぎ。
南方の店舗はすでに閉まっていた。
携帯電話で連絡を入れ、裏戸を開けてもらった。
「いくら土曜とはいえ、こんな時間に来るか。フツー」
橘音に愚痴られる。
「まぁでも、例の事件のこともあるし、お姉ちゃんいるよ。今」
居間に通されると、風見さん、紅子さんと薬剤師の|大塚さんが話し込んでいた。
大塚さんは、漢方を主に扱っている薬局で勤めている。紅子さんの知人と聞いたことがある。僕自身もこの家を通じて何度か会っている。
年齢が良く分からない方だ。
紅子や風見さんの同年代のようにも見えるし、四十代ぐらいにも見える。ヒゲが濃く、黒フレームのメガネをかけている。
みなさん、こんばんは。――挨拶をする。
「何しに来ているのよ?」
紅子さんはこっちを見るなり。こんなだ。
「あ、いえ、事件のこととかニュースで見ないですし、どうなのかなぁと」
「どうもこうも、警察関係者でもないあんたが何するのよ」
――そういえば、そうかもしれない。
「いや、でも助かりますよ」
風見さんがフォローしてくれる。
「割と、分からないんですよ。被害者の方。難波さんについてが。多少その辺の話もしたかったですし」
同じ役所の同じ部屋に居た自分にも分からない人だ、そういう状況になってしまうのも分かる気がする。
「はぁ」
奥から橘音がコーヒーを持ってきた。
「飲むでしょ」
「ありがとう。――でも、橘音がこういうの持ってくるの珍しいね。こういうのってサチエさんがよくやっているよね」
「サっちゃん、風邪で熱が出て寝てるのよ」
――そういえばサチコさんは昨日会ったときに、風邪を引いているとか言っていた気がする。
紅子さんが続ける。
「だから、大塚さんに薬持ってきたもらったの、それだけの用じゃないんだけど」
大塚さんと目が合い会釈をした。
「こんばんは。アハハ」
何が可笑しいのだろう。
照れ隠しなのかもしれないけど、とにかく会話の合間に笑うのが、僕は馴染めない部分だ。
「南方さんとは長い付き合いですし、割とこういうの多いんですよ。アハハハハ」
「サチエさんに、漢方のお薬を持ってこられたんですか?」
「そうそう。
橘音がそうそう、と言った。
「本当はお医者さんで診て貰ったほうが良いと思うんだけど、サっちゃん、医者嫌いでしょ?」
――知らない。
「だから、うちのとこの薬をよく利用してもらっているのんです」
紅子さんがシュガースティックを持ってきた。
「大塚さん、役に立たないこいつに何かつける薬もお願いします」
ひどい。
「アハハハハ。堀田君は、このままで良いんだと思いますよ。ねぇ。アハハ」
このまま。
なんだろう。この空気は。
聞くだけ聞いて帰りたい。
「紅子さん、難波さんの遺体って見たんですか」
「見たよ」
「どんな感じだったんでしょう?」
――何を聞いているんだろう。聞いてどうするんだろう。
野次馬な気持ちのままやって来て
――何を聞いているのだろうか。
不意に自分が嫌になった。
風見さんがテーブルを見ながら口を開いた。
「僕も、現場の状況写真などで見たのですが、良いものではないです。若干報道に対しては規制がかかっています」
「規制ですか?」
「はい。遺体の状況が――ちょっと」
紅子さんが言っちゃえばと、つぶやいた。
「――首の部分と胴の部分で切り離されて、埋められていたんです」
――ひどい。
「当然、変死扱いで私のとこに周ってきて。あれはひどいね。死因は首を絞められたこと。そこだけで考えると、犯人は男性。手で首を絞められるようなのは、大抵、弱者が相手なのよ」
「強者が相手だと違うんですか?」
「例えば、あんたが、風見さん殺すなら手で襲いかかって勝てるの?」
――勝てない気がする。
「だから、相手が自分よりも強者の場合は、銃やナイフとか必要になってくるし、ナイフの場合なんかだと、一突きしても起き上がってくる可能性を感じてメッタ刺しとかになるわけよ」
「そう――かもしれないですね。でも、胴を切ったとか、を考えると弱者相手にやりすぎですよね」
「へぇ。バカだと思っていたけど。そう、その辺が異常。あとは、体内から麻酔薬」
「は?」
「バカみたいな返事してんじゃないわよ。麻酔。チオペンタールというのが検出されたの。女性相手に麻酔薬使っての犯行でしょ。とすると子供――中学生ぐらいでもやれるかもしれない」
どんな事件だ。それ。
大塚さんがヒゲをさすりながら、口を開いた。
「いや、子供はないでしょう。子供が手に入るような薬じゃないです」
風見さんが、そう思いますと言った。
「捜査本部はとにかく、交友関係の洗い出しに重点を上げているんです。堀田さん何か少しでも知ることって無いですかね」
「そうよ、あんた同僚みたいなもんでしょ」
紅子さんになじられる。
――ミイラ取りがミイラになっている気がする。
「そうですね――本当に目立たない人で、交友関係もあまり無さそうでしたし、お休みに何をしているのかもよく分からない人でした――」
風見さんは口をヘの字にしながら、うーんと唸った。
「そのお話ですと、市役所の方の怨恨などは無さそうですね」
「無いです無いです。あり得そうなことは無いと思います。難波さんを男性が取り合うとか聞いたこともないですし。他の女性からも恨まれることも無いですよ」
本当だろうか。自分で言っておいて、自分で疑問を感じた。
僕は難波さんの何を知っている。
何も知らないじゃないか。
僕は僕の持っている印象、考えを信用し過ぎているのではないだろうか。
難波さんだって一人の女性としての日々があって、
姿が見えなかった橘音が奥の部屋から出てきた。紅子さんがそちらを見た。
「サチエの様子どう?」
「熱がまだあるわ」
大塚さんがそういうものですと言った。
「漢方の薬は、悪いものを殺すものじゃないんです。悪いものを退治しようとする体の力を引き出すものなんです。熱が今上がっているのもその悪いものを、退治しようとする力があるのです」
「分かるけど、カワイソウだわ」
橘音が続ける。
「熱を下げるような漢方は無いのですか?」
「葛根湯を今日は飲んで安静していますし、薬を置いていくのでもう少し様子を見ましょう。じきに熱は下がるでしょう」
――そうですか、と橘音とつぶやく。
風見さんが、葛根湯ですかと言った。
「僕も子供時代に飲まされましたよ」
ほう、と大塚さんが返事をする。
「現代――昨今の子供は生活環境による、ストレスなどの虚弱体質に陥っている要素もあるので、体本来の強さを目的とした漢方は有効なんですよ」
「ただ、子供ごころに、漢方はその材料が気になるんですよ」
「
そうそう思い出しましたよ。と風見さんが笑った。
「昔ですね、そのかぜ薬として、やはり母から漢方薬を飲まされたときの話なんですけど、その漢方薬の袋に書かれていた生薬を国語辞典などで引いていたのです。その中に
大塚さんが笑う。
「ミミズですね」
「そうなんです。しっかりとミミズの意と書かれていまして。それ以来漢方はミミズとかを飲まされるのような印象なんですよ」
紅子さんが薄い眉を潜める。
「サチエの薬にもミミズ入りなの?」
「いや、大丈夫です。葛根湯というのは
「風見さんが子供の頃に飲んだカゼ薬っていうのはなんでミミズが?」
「それは、おそらく、高熱の状態だったんじゃないかなぁ。
はー、リウマチとかもですが、と風見さんは言った。
「じゃあ、サチエさんの熱が下がらなかったら、ミミズですね」
「イヤよ。飲ませたくないし、後でそんなの分かったら、医者嫌いに加えて漢方嫌いになるわ。あの娘」
でも、確かに病気を治すと分かっていたとしてもミミズと分かっていてむのはイヤな気がする。
「その、例えば、民間療法の範囲で代用って無かったんですか? ミミズの」
自分で質問しておいて、よく分からない質問だった気がする。
「そうですねぇ。解熱という意味で、この梅雨の時期でどこでも手に入るようなもので考えますと
「紫陽花が解熱になるんですか?」
紫陽花。梅雨の時期ならばどこでもみかける。
「なります。私は用いたことがありませんが、アハハ。なると聞いたことがあります。あの花びらをですね、乾かして煎じて飲むんだそうです。漢方の生薬としては紫陽花はシヨウカと読むんです」
そのままの読みですねと橘音が言った。
「そうですそうです。シヨウカ。あじさいという名称については、『あじ・さ・あい』の短くなったものらしいんです。、あじとは集まるという意味で、さは接頭語、あいは藍つまり、青を意味するという説があります。ところが万葉集では『味が狭い藍』で
大塚さんは近くの紙を手にとってスラスラ字を書いた。
「
確かに、昔から読みが変な花だと思っていた。
面白いと紅子さんが言った。
大塚さんが上目遣いで虚空をみながら続けた。
「で、紫、陽、花、の組み合わせは、元は唐の詩人の白居易という方が別の紫の花を指していたものだったのですが、平安時代の学者、
紫陽花という三文字は元の花は別の花を指していたんですね、と風見さんが言った。
「そうです。それがアジサイという音に当てられてつけて広まった。ということですね」
必ず紫ってわけでもない花なのにねぇと紅子さんがつぶやいた。
「よく咲いているじゃない、この時期、で、紫陽花って色が違うでしょ。必ずしも紫じゃないでしょ」
「アハハ。そうです。七変化とかも言われている花で。あれ面白いんですよね。ペーハーで」
そうそうそうと紅子さんが食いついた。
「土の成分で、花の色が変わるって」
知らなかった。
「成分ですか?」
僕は思わず聞いた。
「そう。土の成分っていうか、土壌のペーハー値やアルミニウム量で色が変わるの。アルカリ性の土壌だと、そこに生えている紫陽花は赤系、ピンクの色に、酸性の土壌だとそこに生えている紫陽花は青系、紫とかそういう色になるのよ」
ピンクや赤系の紫陽花はほとんど見ないですよね、と風見さんが言った。
確かにあまり見ない。
大塚さんが答えた。
「日本の土壌の性質は、基本的に酸性なんです。ですので、日本で紫陽花を見る場合はほとんど紫や青系のはずです。植えられたもので、赤の色を出すように人の手で土壌の状態を調節されたもの以外はほとんどないと思いますねぇ。それ以外ですとコンクリートの成分が土壌をアルカリにしてしまってピンク系になるというのもあるかもしれないですねぇ」
確かにそういうものなのかもしれない。
「そういえば、見た記憶ってないですね。赤系の紫陽花って」
橘音がこちらを見た。
こちらを見ている。
「――あれ、ごめん。僕、変なこと言った?」
「ウソよ――」
見えたのだろうか。
色が。
言葉の真偽の色が。
「イイエで答えてもらえる? あなたは最近赤の紫陽花を見たことがある」
「イイエ」
――。
「ウソよ。どこかで見ているのよ」
――見ている?
「順ちゃんの深層では、『見たことがある』のよ。だから、ウソの色になる」
「何か僕が違うものを見て誤認識しているとか、そういう可能性は無いの?」
「――そんなはずは――。考えにくい」
そこで一度区切ってから、説明を続けた。
「ただ、最近どこかで見ているから、だから、ウソということになるのよ。それは意識していることだけでなくて、視界で認識されたことが残っている証拠よ」
僕は考え込んでしまった。どこで見たのだろう。赤の紫陽花を。
大塚さんが、この辺にあるのならば、それは見たいですねぇと笑った。
サチエは園芸が好きだから、ここに居たら良かったのにと橘音が言った。
そういえばあの娘、花詳しいよねと紅子さんが返した。
「そういえば、法医学系の都市伝説であるのが、紫陽花を死体を埋めた話。死体を埋めたら死体から出る血液で紫陽花の色が変わっちゃったっていう」
そんなことあるんですか? と風見さんが聞く。
「よくほら、健康特集とかテレビでやっていると、あなたの体酸性になっていませんか? とかやっているでしょう。血液なんて酸性にはならないのよ。基本的に弱アルカリ性で多少ペーハーが前後する程度。血液が弱アルカリ性だから、そういう風に考えた人が居て、都市伝説で広まったのかもしれないけれど、血液で紫陽花の色が変わるなんて」
あり得るのだろうか?
紅子さんが続ける。
「血液だけだったらどうか分からないけど、法医学的にいえばありえないかなぁ。死体のね腐乱の過程を見る施設があるのよ。死体を放置してその状態を確認するという施設が。風見くん知らない?」
「聞いた事があります。死体農場とか言われているところですよね。アメリカの」
「そうそう。そこ。放置された死体の場所って黒い土になって植物が育ちにくくなるんだって」
風見さんがカバンから何かを出している。
「多分都市伝説でしょう」
そういうと、風見さんは写真を出した。
そこには、真っ青な紫陽花が咲いていた。
その紫陽花の横に――白い腕がはえていた。
――おそらく、難波さんの現場だろうか。
紅子さんは言った。
「紫陽花の元に死体を埋めると花の色が変わる都市伝説は――やっぱり、ウソなのね――」
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