不測の事態

 ちからなくしゃがみこんだ結の指に、眞白が鼻先をちかづけた。

 指先につたわる生きもののたしかな気配が心細さをやわらげる。夏帆たちにはみえないのだからと、手をのばしてしろい毛並みをなでた。

 やわらかな感触に表情をゆるめていると、かすかな驚きをふくんだ夏帆の声がふってきた。

「オコジョ……?」

 はじかれたように顔をあげる。夏帆と琴音の目は眞白へとむけられていた。

「み、みえる……の?」

「その子のこと?」と夏帆が応じる。

「……う、うん」

 顔をみあわせたふたりは、うなずくと眞白のそばにかがんだ。

 夏帆はひくい位置からゆっくりと眞白に手を差しだしながら、

「しろいフェレットかな、よく人になれてるみたいだし。かんがえてみたらこんなところにオコジョがいるはずないね」

 つぶらな瞳をじっと夏帆の指先にむける眞白をみて琴音が微笑む。

「かわいい。ね、フェレットとオコジョってちがうの?」

「どっちもいたちの仲間だけど、フェレットはペット用に改良された品種で、オコジョは野生種。それに長野県の天然記念物で準絶滅危惧種だから、貴重だね、すごく」

「へええ」

 あと十数センチメートルをのこしたところで、眞白はぴくりと体をふるわせる。夏帆が手をとめると、すばやく身をひるがえし、結の腕をつたって肩にのぼった。

「もしかして、結がかってる子?」

「え? ……あ、う、うん」

「家でかってるんだよね? どこからきたんだろう」

「わ、わかんない……。きづいたらそこに、いたから。だ、だからわたし、つい、なでたくなって……」

 うそをつく後ろめたさに、結はつい目をそらす。視界のはしに感じる視線と向きあえないでいると、やわらかな声がきこえた。

「そっか。この子、名前はあるの?」

「……眞白、っていうの」

 いい名前だね、と眞白をみた夏帆は、

「こんにちは、ボクは夏帆。君にあえてとてもうれしい。これからなかよくしてくれるかな」

「あたしは琴音よ。よろしくね」

 ふたりの言葉をうけた眞白は、後ろあしで直立すると鳴きごえでこたえる。かしこいんだね、と夏帆が目をほそめた直後、不意に眞白は動きをとめ、彼方をじっとみつめると、結の肩から飛びおりて駆けだした。

「ま、眞白?」

 結が立ちあがると、つじのてまえで止まった眞白は、降りかえってみじかくないた。

「なんか、……よんでる、みたい」

「いこう」

 応じた夏帆が走りだす。綺麗きれいなフォームでとおざかる背中を、琴音とともにあわてて追いかけた。すばやく辻をわたった眞白は、つぎのかどに行きつくと、ふたたび三人を見た。

 すべる土のうえをはしる。ながいスカートがなびき、まとわりつく。懸命にかけた。まえをいく夏帆の軽やかさとはまるでちがう、もたもたとした走りかたで。

 すぐに息がくるしくなった。道をゆく人たちから、無遠慮に視線をむけられた。頬がほてるのがわかった。はしるのをやめてしまいたかった。けれども説明のつかない感情が、体を動かしつづける。

「こんなときに、不謹慎かもしれないけど」

 足をとめることなく、夏帆が振りむいた。すぐにふたたびまえをむくと、背中をむけたままつづける。

「なんだか、わくわくする、すごく」

「わかる。冒険、だよね、……これって」

 息をきらしながら琴音が応じる。結がとなりをみると、彼女は眼鏡のおくの瞳にあかるい光をたたえていた。

 ああ、そうか、と納得する。体を動かしつづける説明のつかない感情に、たのしい、と名前がついた途端、世界はきらびやかにいろづいた。さきほどまでの後ろめたさがかすむほどに。

 人の目も気にせず、しっているけれどしらない町並みを全力で駆けぬける。眞白は、ときおりとまってこちらをたしかめている。どこかへみちびかれているのだ、そうおもった途端、ふくらんだ気持ちは笑いごえになってこぼれた。顔をみあわせる。みんな笑顔だった。

 角をまがって速度をあげようとしたとき、突然夏帆が立ちどまった。止まりきれずにその背中にぶつかると、さらに琴音が追突してくる。三人ひとかたまりになって数歩よろめいたあとで結が顔をあげると、夏帆は、犬のこえでなく猫を目撃したような、これまでみせたことのない表情をたたえて振りむいた。

「結の名前をよんでるみたいだけど、……あれ、しってる?」

 しめされたさきをみて、あれた呼吸がつまる。そこには、やせた子どものような体躯たいくだが、ながい腕とあおじろい肌をした、人とは異なる容姿の存在がいた。

 あきらかに奇怪なそれが、昼ひなかに通りをうろつきながら自分の名をよばわっていることに、みちゆく人は誰もそれに気をむけないことに、対照的に夏帆と琴音はそれをみていることに、三重の驚きで結は言葉をうしなう。喜びはたちまちのうちに霧散し、困惑と恐れがみちる。

 おおきな目を三人の方へむけた忙太は、満面に喜色と安堵あんどのいろをうかべると、あいかわらずの敏捷びんしょうさでひといきに距離をつめ、結の手をとった。

「あああ、よかった結さん、ようやく会えました。さぞかしこころぼそかったでしょう。でもね、はずかしいことじゃありません。急にこんなとこにきちまったら、誰だってそうなろうってもんです。ま、あたしがきたからにはもう安心ですよ。大船にのったつもりでどぉんとかまえてください。なんの心配もいりゃしませんからね」

「えっと、……あ、あの」

 つかんだ手を興奮気味にふる忙太にゆさぶられながら、結は彼と夏帆たちを交互にみる。

「いやもう、本当に心配したんですよ。さびしくてないてるんじゃないかとか、おかしな連中にからまれてこまってるんじゃないかとか。たよりになる眞白さんがおそばについているのは重々承知しちゃおりますよ? それでも万が一ってことがないとは云いきれないのが世のつねってもんです。ですからもう、あたしゃ気が気じゃなくって。けどまあ、あたしの気持ちは兎も角、結さんが無事で本当によかった」

「わ、わたし……、その」

「どうしたんですか? 結さんの心の友、忙太ですよ。琥珀さんの言いつけで、結さんとお友だちをお助けすべく、こうしてせさんじました。あ、馬助や骨蔵も一応きちゃあいますよ? ですがあいつら、ほんとにものの役にたちゃしませんから、こうして別行動をしてるってそういうわけなんです」

「琥珀さんの……?」

「ええ。結さんたちが本のなかに迷いこんでしまったので、さがすのを手伝ってほしいといわれたんです。あの方があたしたちを頼ってくださったのって今度が初めてなんですよ。ですから、なんとしてもお役にたたなければと我らみな気炎にもえまして、高遠な街衢がいくを駆けぬけ、大路や路地を路地をさぐり、そしていま、ついに奇跡的な邂逅わくらばをはたしたと、こういうわけなんです。

 いやあ、それにしてもあんときのあたしの判断はただしかった。なにしろお供が度をこえたぐずに女好きでしょう? 一緒に行動してたんじゃ一向にらちがあきゃしませんからね、てわけしてさがすことにしたんですよ。そうでもしなけりゃこんなに早くみつけるなんて、できっこないです。実はですね――」

「――ちょっとまった」

 ちいさく手をあげた夏帆は、ひと呼吸分の間をおくと、忙太と結を順番にみた。透明な瞳からは、一切の感情を読みとることができない。ひやり、と結は腹のそこに冷気を感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る