読書の時間
結たちが振りむいたとき、玄関にはまだ、彼女たちをみおくる辰雄と美代子の姿があった。
会釈をして歩きだす。ほそい川ぞいにうえられた桜並木の緑が、あかるい陽射しをうけてかがやいている。無事に目的を達成できた晴れやかさから、おしゃべりも自然と弾んだ。
川ぞいの道をはずれてアーケードのある商店街にむかう途中、不意に琴音が立ちどまった。数歩おくれて結と夏帆も足をとめる。ふたりが降りむくと、彼女は高価そうな本の値段をたしかめるような表情で切りだした。
「あ、あの……、水上さんと綾里さんは、……ことあと、なにか予定はあるの?」
「ボクは特にないかな」と夏帆が応じる。
「綾里さんは?」
「わたしも、別に……」
「そっか。……あのね、本当によかったらなんだけど……、本、すこしだけ読んでみない? 三人一緒のときしか読んじゃいけないってことは、このままおわかれしたら、すくなくとも明日まではよめないってことでしょ? あたし、そんなに我慢できる自信がないっていうか……」
突然、琴音はいきおいよく両手をあわせ、頭をさげた。
「おねがいっ。ちょっとだけでいいから読ませてくださいっ! じゃないとあたし、……絶対に小久保先生との約束をやぶって、ひとりでよんじゃうっ!」
たがいに顔をみあわせた結と夏帆は、どちらからともなく微笑む。ふたりからの返答をきいた琴音は、飛びあがってよろこんだ。
すぐそばにある細ながくて小さな公園には、子どもたちのあかるい声がみちていた。
遊具から離れた場所にある、あおあおと葉をしげらせた
共有した秘密を確かめあうように視線をかわす。琴音が慎重に函からだした本をひらく。結たちは頭を寄せあうようにして、最初のページを
胸をおどらせながら読みはじめた結だが、期待は早々にうらぎられることになった。
書かれているのは口語文のようだが、文章をつづっているのは、古文の時間に散々なやまされている歴史的仮名づかいだ。そればかりか、中国語のような見なれぬ漢字があちらこちらにまざっている。数行たどってみたが、よめないところがおおすぎて、ピースのかけたパズルを組みたてているような気分になった。
そうこうしているうちに琴音が顔をあげる。満足そうな表情に、ついたずねてしまう。
「も、もう読みおわったの……?」
「うん。おもったとおり
「う、うん……」
あせる以前にまるでよめていないが、とりあえずひらかれたページに目をおとすと、夏帆がその中心あたりをゆびさした。
「泉さん。これ、なんていう字?」
「これはね、果実の実っていう字」
「こっちは?」
「帰宅するの帰」
「旧字体、とかいうあれ?」
「うん。そう」
「なんとなくおもかげはあるけど、かたちが全然ちがうんだね」
「……もしかして、よみにくかったりする?」
「そうだね。よめなくはないけど」
「綾里さんは?」
「えっと……、なんか、むつかしい、……すごく。ごめんね」
「そっか。でも、そうだよね。よむ機会がないものね、こういうふるい本」
じゃあさ、と夏帆が顔をあげた。
「泉さんに読んでもらおう。国語の授業のときみたいな感じで」
「ええ?」
「実はボク、結構すきなんだ。泉さんの音読」
やや霧がかった声とともに、端正な笑みをすぐそばから向けられた琴音が、うっとりと瞳をゆるめかけ、あわてて首をふる。
「どうしたの?」
「ううん。な、なんでもないの……。じゃあ、ちょっと読んでみるね」
「うん。おねがい」
何度か
人の往来でにぎわう通りになされた打ちみずと、そこから立ちのぼる陽炎の描写からはじまる物語にえがかれていたのは、結たちがすむ町の九十年ちかくまえの姿と、そこにくらす人々の生活であった。
★☆★☆★
ふと、結は違和感をおぼえる。打ちみずがなされた土の道に立ちのぼる陽炎の描写をきいたせいか、視界が一瞬ゆらいだような気がしたのだ。
何度かまばたきをしてみる。琴音の制服のひざのうえには玉響の花があり、彼女をはさんで夏帆の姿もあった。子どもたちが園内を駆けまわる声がひびく。おかしなことは何もない、そうおもおうとした。
すんだ声は、ふるい本につづられた文章をよどみなく読むあげている。ずっときいているはずなのに、なぜかどこかで一度とぎれていたようにおもえてならなかった。けれどもそれがいつなのか思いだせない、目がさめた瞬間や、ねむりにおちた瞬間があいまいなように。
それに気づいた途端、どうにも落ちつかなくなってきた。本を読んでくれている琴音に申しわけないとおもいながらも、そっと顔をあげてあたりの様子をうかがう。
そして、息をのんだまま、結はみうごきひとつできなくなった。やっとのことで声を絞りだせたのは、琴音がページをめくったあとだった。
「か、夏帆ちゃん、泉さん……」
「どうしたの? 結」と、夏帆のこえ。
「……あれ、み、みて」
首をかしげた夏帆が、琴音とともに視線をあげて、声をうしなった。
彼女たちのすむ町は、合併でどうにか人口を維持しているちいさな地方都市で、高層建築物などかぞえるほどしかない。けれどもいま目のまえにひろがっているのは、市街地をかこんだ山々をすぐちかくに感じさせるほどに背のひくい、それも木造建築ばかりの町並みだ。
建物と公園をへだてて、舗装されていない剥きだしの土の道がのびていた。ふるい映画でみたような角ばった車が、つちぼこりをあげて走りさっていく。中年の男性がのった自転車は、時代がかったフォルムをがたがたとゆらしながら、着物姿の女性たちはおしゃべりをしながら、通りすぎていく。そばにあった木造の駄菓子屋から飛びだしてきた子どもたちが、なにごとか
結と琴音の叫びが、響きわたった。
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