蔵書家

 みながプリンを食べおえ、美代子が座卓のうえをかたづけて席をはずしたあと、辰雄は、結たちひとりひとりに視線をおいてから口をひらいた。授業で重要な箇所に差しかかったときのように。

「君たちひとりひとりにききたい。もし君たちのひとりがふかくきずつき、自室に閉じこもってしまったとしたら、一体どうするだろうか」

 唐突な質問だった。意図を図りかねて結と琴音が顔をみあわせていると、夏帆が透明な声音で応じる。

「その問題にはあいまいな部分があるので、こたえられません」

「どの点においてあいまいだ?」

「誰がかなしんでいるか、です。それが結と泉さんのどちらかで、ボクがとる行動はかわります」

 返事をかえすまでに、辰雄はひと呼吸分の時間をおいた。夏帆は表情をかえることもなく、その時間をまった。

「なるほど、君はとても誠実だな。私にも綾里君にも、そして泉君に対しても。だが、その誠実さの伝えかたには配慮を要する。いまのままでは、意図せず人をきずつけることがある」

「ボクはいま、誰かをきずつけましたか?」

「人は社会的な生きものだ。自身の価値がひくいといわれれば、きずつきもするし不快な気分にもなる。それがたとえ、うそいつわりのない心からでたものだとしても。なにをいわれているかわかるか?」

「はい、理解できました。ありがとうございます」

 辰雄にお辞儀をした夏帆は琴音をみて、

「ごめん。ボクの言葉でいやな思いをさせたんだね」

「あ、ううん。いいの。水上さんは正直な人なんだね。あのね、あたし、水上さんや綾里さんと、いまよりなかよくなりたいっておもってるの。水上さんはあたしと、なかよくなれそう?」

「うん、きっとね」

「よかった」

「ボク、泉さんの表情がくるくるかわるところ、きらいじゃないよ」

「え?」

「結もよく表情がかわるんだ。とてもいいとおもう、ふたりとも」

「あたし……、そんなにいろんな顔してる?」

「うん。すこしまぶしい、女の子らしくて」

 目をしばたたかせた琴音は、視線をそらした。やや頬があかい。

「そ、そうなんだ。……あたしも水上さんのこと、なんでもできるうえに綺麗きれいなのに、いばったところとか全然なくって、すごいなっておもってた」

「ありがとう。でもボクはそんな特別な人間じゃないよ」

 ふたりが笑みをかわすのをたしかめてから、辰雄がいう。

「では、今回はその人が綾里君だと仮定しよう」

 うすくたたえた笑みをしまって、夏帆はまっすぐに元教員をみた。

「それが結なら、ボクはできるだけながい時間を、彼女のそばですごします。部屋にいれてくれるならとなりに、いれてくれないなら扉のちかくにすわって。そして結の感情の存在を肯定します」

「感情の存在とは?」

「彼女がかなしいと感じたり、世界を拒絶したりする感情の存在です。その感情は結だけのもので、ボクには決して感じられないものです。だから、肯定することも否定することもできません。たったひとつだけわかるのは、結がそういう気持ちになったということです。

 だからボクは、ゆるされた一番ちかいところから、彼女がいだいた感情の存在を、そうした感情をいだく彼女の存在を肯定します」

「なるほど、水上君という人が、すこし理解できたようだ。では、君はどうかな? 泉君」

 辰雄から視線をむけられた琴音は、さみしげな笑みをうかべた。

「きずついた人をみるといつも、その人のお気にいりの本になれたらいいのに、っておもうんです」

「お気にいりの本に?」

「はい。本はいつもそこにいて、手にとられるまでまっていてくれます。本は自分からかたらずに、よまれた分だけこたえてくれます。本は、決して人を見すてません。どんなに時間がたっても、表紙をめくったら、かならずむかえてくれます。

 そんな風にあたしも、かなしんでいる人にそっと寄りそって、もとめられた分にだけこたえられるといいなっておもいます。……あたしはお節介でおしゃべりですから、きっとしゃべりすぎてしまうんでしょうけど」

「いい答えだ。さて綾里君、君ならどうする?」

 緊張と、これからいおうとする言葉のきはずかしさにうつむきながらも、結は懸命に言葉をつむごうとしだ。

「わたしは……、な、仲がいいっていえる友だちが、……つい最近、できたんです」

 視界のはしにうつった夏帆を意識してしまい、頬が熱をもつ。

「わたし、いままでずっと、自分のことをしられるのがこわくて、……あんまり人と、かかわらないようにしてきました。でも、素敵な出会いが沢山あって、人とかかわってもいいって、そうおもえるようになって、それから、そんな風におもえるようになったのがうれしくって……。その友だちも、わたしにそうおもわせてくれた人のひとりなんです。

 ですから、もし、その友だちがかなしい目にあって、むかしのわたしみたいに閉じこもってしまったら、わたしは……、わたしにできる一番のことをします。その友だちの悲しみをやわらげる何かをみつけて、かならずその友だちにとどけます」

「よくわかった」といったきり辰雄は口をつぐんだ。

 美代子のあとについて客間を出ていった小毬が縁側にあらわれ、ひなたでのびをする。辰雄が三人に視線をむけたのは、そのまま丸くなった小毬がまぶたをとじ、しばらくの時間がすぎたあとだった。

「瑠璃さんがはなしていたとおりだな。たしかにどうにかできるのかもしれん、君たちであれば」

 すこし待っていたまえ、とつげた辰雄は部屋をあとにすると、三人が顔をみあわせているうちにもどってきた。

 座卓につくとたずさえたそれをよく確かめ、向きをただしてから琴音に差しだす。結の位置からは、あさい長方形のふるびた紙箱のようにみえるそれを受けとった彼女は、おどろきの色をうかべた。

「……これは」

「確かめてみなさい」

 うながされた琴音ははこの側面から、おさめられたものを慎重に引きぬく。あらわれた表紙をながめた彼女は、ほぅ、とため息をもらした。そこにえがかれていたのは、多少いろあせているが、やわらかな色彩をたたえた、抽象化された無数の鳥と花だ。

「綺麗……」

「それがずっとさがしてた本?」

 夏帆の問いかけに琴音がうなずく。

「うん。逢坂皓月の『玉響の花』」

「ひとつ確認しておきたい」

 辰雄の声で琴音は顔をあげた。

「なんでしょう」

「君はその本を、ただ読むだけでなく、手元におきたいとのぞんでいたそうだが、まちがいないか?」

「はい、そのつもりでずっと、さがしていました」

「そうか。では、いまからいう言いつけをまもって読みおえ、そののちに私が、ふさわしいとみとめることができたなら、その本は泉君にやろう」

「ほ、本当ですか……?」

「ああ。本はふさわしい人間に所有されるべきだ」

「……あたしは、何をすれば、いいんですか?」

「その本を三人で一緒によみなさい」

「綾里さんや水上さんとですか?」

「そうだ」

「あたしはいいですけど、水上さんや綾里さんに迷惑がかかるのは……」

「ボクはいいよ。何かを一緒にしないとね、なかよくなるなら」

 微笑んだ夏帆につづいて結も口をひらく。

「わ、わたしもよむ」

「ありがとう。ふたりとも」

 ふたたび辰雄の方をみた琴音は、緊張した声でたずねた。

「ほかに、何をしますか?」

「それだけだ」

「え? ただ一緒によむだけ、ですか……?」

「そうだ。読みおえるころにはおのずと結論がでる」

「わ、わかりました」

 真剣な表情で応じたあと、琴音はふたたび本に視線をおとして表紙をなでた。結は、そのまなざしが、夏帆が縁側の小毬にむけるものとよく似ていることにきづいた。

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