老夫妻
かすかな刺激のある
いけばなと掛軸がかざられた床の間を背にした結たちは、部室の中央におかれた底びかりのする長方形の座卓をはさんで、こがらな老婦人と向かいあう。
老婦人と琴音の声がたのしげな旋律をかなでる。やわらかな響きは、夏帆に
「まあまあ、じゃあみなさんは、高校に入ってからのお友だちなのね」
「はい、そうなんです」
「あらあら。もっとまえからだとおもったわ、とても仲がよさそうだから」
「そんな風にみえますか?」
「ええ」
うなずいた彼女が夏帆や結にも微笑みかけ、結は不器用なりに笑みでこたえる。かえされた人なつこいまなざしが、気持ちをやわらかくした。
座卓におかれた人数分のまるいグラスには麦茶がつがれ、エッチングでえがかれた朝顔に露をたたえている。自分の分に手をのばした結は、ひとくちのんだ。ひえたお茶が体の中心におちて、すみずみまで染みわたっていくような感覚に吐息がもれる。
猫のいる座敷でお茶をのみながら談笑しているというあまりにのどかな状況に、この家をおとずれた用件をわすれそうになるが、目的はいまだ果たせない状況にあった。
「辰君、おそいわねえ」
老婦人は柱時計を見あげてつぶやく。
小久保の妻の美代子だと名のったこのかわいらしい女性がつかう、辰君、という愛称のさす人物が、名前だけで忙太たちを震えあがらせたあの小久保辰雄ことだとは、到底おもえなかった。
ことの起こりは十数分ほどまえにさかのぼる。
人垣を遣りすごした結たちは、商店街から数百メートルほどはなれた場所に、めざす家をみつけた。それは、市内をながれるほそい川にかけられた橋をわたってすぐの、生垣にかこまれた和風でおもむきのある住宅であった。
枝のひとつが門の上方へのびるようにうえられた門かぶりの松のした、年季のはいった表札をたしかめた琴音が、結と夏帆の方をむいた。期待に目をかがやかせておおきくうなずき、八分音符のえがかれた呼び鈴に手をのばす。だが不意に動きをとめると両手で顔をおおい、その場にしゃがみこんでしまった。
「ああっ、駄目! あたしいま完全に舞いあがってて、絶対へんなこと口ばしっちゃう!」
くるくるとよくかわる琴音の表情に、ふたりが目をまるくしていると、肩をおとした彼女が、申しわけなさそうに結をみる。
「綾里さん、……がんばるからなんて云っておいてごめんね。おねがいしてもいい?」
「……わ、わかった」
真剣な表情で応じた結が琴音と入れかわり、呼び鈴と差しむかう。ふかく深呼吸をしてから、ボタンのたかさまで手を持ちあげてつぶやいた。
「じ、じゃあ、おすね……」
いのるような琴音の視線を背中に感じながら、呼び鈴のボタンに指先をのばす。あと数センチメートルのところで突然、脳裏に骨蔵たちの
――眼力だけで飛ぶ
――一喝しただけで花瓶を砕けちらせた、あの小久保先生。
――小久保ぉ先生ぇぇ、こぉわぁいぃぃー!
その途端、みえない壁にはばまれたように、指がすすまなくなった。
「あれ? ……お、おかしいな」
首をかしげて右手に力をこめる。だが意志とはうらはらに、体は呼び鈴のボタンを押下することを断固として拒否する。奮戦のさなか、まうしろに人の気配を感じた。背後からのびてきたすんなりとした腕が、一切の
「はやくしないとおそくなっちゃうよ?」
ほどなくして姿をみせた美代子は夫の辰雄の不在をわび、間もなくもどるはずだから、と三人を客間へとみちびいたのであった。
談笑の途中、不意に美代子が彼方をみるような目色をした。静寂がみちるなか、笑みをうかべる。
「あらあら。ようやくかえってきたみたいよ。すこしお待ちになってね」
そうつげると立ちあがり、襖のむこうに姿をけした。
三人は顔をみあわせる。期待にみちた表情の琴音と、対照的に不安の色をうかべた結、そして夏帆はまったくの無表情である。
わずかな時間ののちに、襖がひらかれて待ちびとが姿をみせたとき、結は不安が的中したことにきづいた。赤茶色の
やせていて背筋がまっすぐにのびているからか、実際の身長よりもおおきく感じる。みじかく刈りそろえられた髪はしろく、
老人は手にさげた紙袋を美代子に差しだすと、ひくく、よくとおる声をひびかせる。
「美代ちゃん、これをたのむ」
目のまえの巌から、あまりに不似合いな言動がきかれた気がして結は耳をうたがった。それを気にかける様子もなく、老人は端座すると三人をみわたす。
つよい目だった、確固たる意志をやどらせた。反射的に結は、なにをいわれるのかと膝のうえでつよく手を握りしめる。老人が息をすい、そしてとめる。緊張が張りつめる。彼は突然、頭をさげた。
「君たちの来訪の時間に間にあわなかった非礼をわびる。申しわけなかった」
完全に虚をつかれて思考が停止する。いちはやく立ちなおった琴音がわたわたと手をふった。
「いえ、あの……お気に、なさらないでください。あたしたち、奥さまと、……たのしくおしゃべりしていましたから。ね、綾里さん」
「は、はい。たのしかったです」
何度もうなずく結のとなりでは、夏帆が透明な表情のまま、膝にのってくつろぐ三毛猫の背をなでている。ふたりをみた琴音は姿勢をただすと、あかるい声でいった。
「はじめまして、泉琴音です。南高の一年生で、本を読むのがすきです。今日は、ずっとさがしていた本のことでおうかがいしました」
「小久保辰雄だ。数年まえに君たちの学校を定年退職してからは、郷土史の研究をしている。君が泉君か。皓月の『玉響の花』のことは瑠璃琥珀堂さんからきいている。では君は?」
「わ、わたしは……、綾里結です。……泉さんとおなじクラスで、瑠璃琥珀堂でアルバイトを、……しています」
結は、辰雄の目が自分の肩にむけられていることにきづく。そこにいるのは、ごく一部の人にしかみることができない雷獣の眞白だ。
彼には化生がみえるという骨蔵の言葉を思いだし、ひやりとした感覚をあじわう。夏帆と琴音のまえでなにを云われてしまうのか、隠れさせておくべきだったのではないか、さまざまな思いが入りみだれる。辰雄が口をひらくまでわずかな時間が、随分とながく感じた。
「案じる必要はない」
「え……?」
「綾里君のこともきいている。なるほど、たしかにめずらしい。そうすると君が水上君ということになるな」
ここにきて、はじめて夏帆が表情をかえた。
「ボクのことも、ご存知ですか?」
「ああ。泉君と綾里君の友人が同道するはずだと瑠璃さんがはなしていた」
「そうでしたか」
「うちの
「小毬、というのはこの子のことですか?」
「そうだ」
「なるほど。君は小毬というのか。かわいらしい名前だね。よく似合っている」
夏帆の膝のうえの三毛猫は、彼女をみあげて鳴きごえをひびかせた。
「初対面の人間にそこまで小毬がなついたのをみるのは初めてだ。その猫は少々きむずかしい」
「礼儀をわきまえれば、大抵の子はなかよくしてくれます」
「そうか。君は猫がすきか?」
「はい、とても」
「なるほど。猫たちと水上君のあいだには特別な縁があるようだ。大切にしなさい」
「はい。そのつもりです」
表情をゆるめた夏帆は小毬の背中をさする。宝ものをあつかうように。
失礼します、と美代子の声がした
うすくひらいた襖の
ながれるような所作にみほれているうちに、座卓にはプリンが用意されていた。
「辰君はね、これを買いにいっていたの。わかい娘さんなら洋菓子の方がいいだろうって」
ほほえんだ美代子のとなりで辰雄はにがい顔になる。
「余計なことはいわなくていい、美代ちゃん」
「そうしたらね、おおきなトラックが小学生に警笛をならしたのがみえて、運転手さんを指導していたんですって」
「警笛は人にむけてつかうものではない。子どもたちの手本となるべき大人が、よりにもよって子供に対して、こうした行動をとるなど、……まったくもってなげかわしい」
「でも、それで約束の時間におくれて、かわいいお客さまがたをお待たせしていては本末転倒よね」
「……その件についてはきちんと謝罪した」
本人も反省しているようですし、と美代子は三人をみた。
「さあさあ、みなさん召しあがってくださいな。辰君の心づくしです」
むけられた笑顔にみちびかれるように、三人はスプーンに手をのばした。
あつめの硝子瓶で焼きあげられていたのは、ややオレンジがかった肌のプリンだ。やわらかく形をかえるなかにたしかな抵抗を感じながらすくって口にいれると、つるりとした舌触りにつづいて、卵と牛乳の風味が甘みをともなってひろがる。濃厚なそれらは、にがめのカラメルと混ざりあうことで、おたがいを引きたてあう。
おいしい、とくちぐちにつぶやく三人を
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