隠しごと
「いいかい。小久保先生を相手にするなら、なにより大切なのは、はきはきときびきび、だよ。にこにこは多分逆効果だ。わかったね?」
生物教室の机のかげで、人体骨格の模型に横だきにされているという、まったくもって理解しがたい状況のうえに、すぐ目のまえにある頭蓋骨の顔からは、なんの表情も読みとれなかったが、どうやら真剣な忠告らしいということは、声の調子でわかった。
うなずいてこたえた結を、骨蔵は宝ものをあつかうようにそっとおろす。
「じゃあこれでお別れだ。僕はいつだって君をおもっているよ、ベイビー」
ながれるような動作でおこなわれた手の甲への口づけをうけた結に、なんか硬い、という至極まっとうな感想がうかんだ。
忙太と馬助に手をふってから立ちあがる。教室の入り口にたたずむ人かげに呼びかけた。
「か、夏帆ちゃん……?」
いた、と清潔な笑みをうかべた
「泉さんがさがしてたよ」
「……泉さんが?」
「うん。放課後のことで
「わざわざ、つたえにきてくれたの?」
「最初はね、渡り廊下の日かげでぼんやりするつもりだったんだ」
夏帆は結にむかって歩きはじめる。あまり音のしないしなやかな歩みは、彼女が愛してやまない生きものをおもわせた。
「あそこは眺めがよくてすずしいし、しずかだからね。結もいないから、丁度いいかなとおもって。教室をでるところで泉さんに呼びとめられて、結のことを訊かれたときも、気もちはかわらなかった。でもね、廊下を歩きはじめてすぐに、なんか変だなっておもったんだ」
「変って?」
「うまくバランスがとれない感じ。ほんのちょっぴり、ひだりの方がかるくて」
「だ、大丈夫なの?」
「うん。病気とかじゃないよ。クルトンの入ってないコーンポタージュみたいな感じかな」
「……わたし、クルトン好き。はいってなかったら、残念かも」
「ボクも」
「おんなじだね」
うん、おんなじだ、と応じた夏帆は、結のまえまできて足をとめる。
「それでね、結にあおうとおもったんだ」
「どうしてそれで、わたしにあおう、なの?」
「んー、ちょっとまってね」
夏帆は瞳をとじた。ゆっくりとみっつ呼吸するほどの時間がすぎたのちに、かたちのよい
「うん。やっぱりそうだった」
「え? な、なに……?」
「理由がわかったんだ。どうして左がかるい気がしたのか」
「……なんだったの?」
「結」
「わ、わたし?」
「うん。さっきは結がいなかったから、そう感じたんだとおもう。いつも結は、ボクの左側をあるくからね。いまだってそうだよ。結のいる方は、なんだか特別な感じがする」
「……特別な、感じって?」
「なんていえばいいのかな。ちがうんだ、さくらんぼがのってるプリンとそうじゃないプリンくらい」
やや
「どうしたの?」
「なんか……、落ちつかない感じ、むずむずして」
「いやな感じ?」
「ううん。いやじゃない」
「それならよかった」
ふたたび夏帆に笑みがうかぶ。そこに姿かたちのうつくしさとはすこしちがう
「放課後、なにか用事があるの?」
「うん。ちょ、ちょっと……」
「そっか」
意図せず差しこまれたとはいえ、琴音とともに小久保を訪問するという予定におぼえた後ろめたさは、結に言葉をにごさせた。
けれども、そのままごまかしてしまう駆けひきの技術も、それをきいた夏帆がどんな気分になるかと推しはかる経験も、結は持ちあわせていない。ひとつだけはっきりしていたのは、曖昧にしてしまえば、彼女の綺麗な笑みに向きあえないということだった。息をすって、一度とめる。
「あ、あのね、……ちょっと、ながいんだけど、はなしてもいい?」
「もちろん」
「昨日ね、泉さんがたまたま、わたしのアルバイトしてるお店にきたの」
「カフェみたいな、アンディークショップみたいなお店だっけ」
「うん。泉さん、ずっとさがしてる本があるんだって」
「ずっとさがしてる本か、なんだか彼女らしいね」
「図書館や古本屋さんにもおいてないようなふるい本で、もしかしたらとおもってお店にきたみたいなんだけど、やっぱりなくって。でもお店の人、瑠璃さんっていうんだけど、その瑠璃さんの知りあいがその本をもってるらしくってね。今日の放課後、泉さんと一緒にその人をたずねることになったの」
「どうして結が一緒にいくことになったの?」
「……なんかね、瑠璃さんの代わりに、お店の代表として、なんだって」
きちんと話すことができたうえに、夏帆が気をわるくすることもなかった。
「気がおもい? もしかして」
「え? ど、どうしてそうおもうの?」
「くらい顔してる」
「ほ、ほんとに?」
「かなり」
「……しらない人にあうの、こわいからかも。それからね」
「ほかにもあるの?」
「うん。今日あう人、小久保先生っていうんだけど、何年かまえまで、この学校の先生だったんだって」
「接点があるんだね、一応」
「なんだけど、なんかすごくこわい人らしくって……。それに瑠璃さんがね、小久保先生のことをちょっと面倒な人っていってたのがきこえちゃったから」
「それは不安になるね」
「うん……」
なるほど、夏帆がつぶやいた。
わかっていたつもりではあったが、言葉にしてみると、気鬱な事態になるのが、さけられそうもないような気がしてしまう。ついため息をもらしかけたとき、夏帆が口をひらいた。教室移動のときに誘うような調子で。
「ボクも一緒にいこうか? 迷惑じゃなければ」
「え?」
「なにができるかなんてわからないけど、三人いればどうにかなるんじゃない? 万が一その、こわくてちょっと面倒な人をおこらせちゃったとしても」
「でも……、やな思い、しちゃうかもしれないよ?」
「実は結構なれてるんだ、そういう面倒な状態。なにしろボクはこういう人間だからね」
「ありがと。……すごく心づよい、夏帆ちゃんが一緒だと」
「それならよかった」
夏帆は、みたび綺麗に微笑む。普段から落ちついていて、心をゆるせる数すくない存在でもある彼女からの申し出は、結の表情をあかるいものにかえるのに、十分な力をもっていた。
「なにかしてほしいこととかない? お礼、したい」
「別にいいよ、そんなの。――あ、ごめん。やっぱり、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな」
「なに?」
「実はボクも興味があったんだ、結がアルバイトしてるお店。今度いってもいい? 結がアルバイトしてるときに」
「もちろん。……うれしい、夏帆ちゃんが来てくれたら」
「ありがとう。そういってもらえると、ボクもうれしい」
笑みをかわす。夏帆とおなじようにわらえている気がした。
うれしい、たのしい、はずむような、あるいはふわふわした、さまざまな感覚が胸のおくで混ざりあい、見たことの色あいへとかわっていく。それは、おさないころに仲のよかったみどりといたときの気もちに似ているけれど、すこしちがうような気もした。
目をほそめたまま、夏帆がいう。
「うん。結がいってたとおりだった」
「な、なんのこと?」
「まえにいってたでしょ、ありがとうをいったり、いわれたりするとうれしい気もちになるって。ボクもそれに賛成。じゃ、いこっか。そろそろ授業、はじまっちゃうよ」
「うん」
ならんで歩きだした。夏帆がみぎに、結はひだりに。いつの間にかきまっていた並びかたで。
一度ふりかえって、結はちいさく手をふる。窓のそばには忙太と馬助の姿が、そして机のかげには、親指をたてた骨蔵の手がみえた。
教室をでると、昼やすみのざわめきが輪郭を明確にした。潮騒のような音のなかを、心地よい沈黙を感じながらあるく。
そういえば、とむけられた夏帆の視線をみちた気もちで受けとめた。
「忘れもの、あった?」
「え? わ、忘れもの……?」
「いってたでしょ。生物教室に忘れものしたからとりにいくって」
「あ、う、うん。……あったよ」
「そっか。よかったね」
かわらぬ笑みののちに、夏帆はまえへ向きなおった。けれども結は、おなじ笑みでこたえられてはいなかった。小久保のことを化生たちにたずねにいくとはいえなかったため、忘れものをとりにいくと嘘をついて教室をでてきたのだ。
まっすぐに正面をみたまま、夏帆は言葉をつづける。
「さっき生物教室に入るまえにね、結のほかに誰かいるのかとおもっちゃったよ」
「ど、どうして?」
「話しごえがきこえたような気がしたんだ、教室のなかから」
「あ、あのねっ。ひ、独りごと、……わたし、独りごと言っちゃってた、かも」
「そっか。きかれたのがボクでよかったね」
――いつか話せる人が見つかるといいですね。誰にもいえないことを抱えているのは、ちょっと、息ぐるしいです。
不意に、潤一郎からきかされた言葉がよみがえる。こうした気もちを云いあらわすには、息ぐるしい、という表現は、あまりに生ぬるいとおもえた。
ぬかるんだ思いが胸のおくにたまり、はく息にまでにじんでいる気がして、結はうつむく。教室までのの道のりがひどくながく感じた。
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