教室にひそむもの

 引き戸の音は、ひとけのない教室に奇妙なほどおおきくひびいた。

 昼やすみのにぎやかさを拒絶するような静寂をたたえた生物教室には、ふたりがけの席がふたつ連なったくろい天板の机が、標本のようにならんでいる。結がめぐらせた視線は、教室のうしろのすみにいる奇妙なふたり組みのところでとまった。

 あおざめた肌の痩せぎすの小男と、赤らんだ肌のふとった大男だ。小男は小柄な結の三分の二ほどの身長で腕がながく、大男は対照的に倍ほどの高さがあって手足がともにみじかい。

 ぎょろりとした目をむけるなり、小男は結にむかって駆けだした。ほうけた顔の大男をのこし、意外な俊敏さと弾むような足どりでまたたく間に近づく。すぐそばまでくると間髪いれず勢いよく頭をさげた。

「これは結さん、どうもこんにちは。もしかしてあたしたちに会いに来てくだすったんですか?」

「はい、ちょっと、……おきしたいことが――」

「――お心づかいありがとうございます! やさしい方だとおもっていましたが、やっぱりあたしの目を狂いはなかった。きいたかい、馬助。ありがたいじゃあないか。結さんがわざわざ会いに来てくだすったんだよ」

「僕もぉぉ、うぅれぇしぃいぃぃ」

 まくしたてるようなかんだかい小男の言葉に、大男の間のびしたひくい声がつづく。

 小男の忙太と大男の馬助は、結のかよう高校に住みついている化生のものだ。瑠璃が小久保のことをむつかしいと小声で評していたことが気になっていた結は、もしかしたらなにかしっているかもしれないとかんがえて、昼やすみを利用してふたりをたずねたのであった。

「わ、わたしもです。それで、ですね――」

「――梅雨がおわった途端にあつくなりましたねぇ。これからの季節はただでさえ暑くるしい馬助の奴が、なーんにもしてなくても、こう、たらーりたらーりと、鏡にむかった蝦蟇がまみたいに汗をかきやがるもんですから、ますます暑くるしくなるってんで、あたしゃもう、いまから憂鬱で仕方がないってもんですよ」

「ゆぅうぅうぅつぅぅ」

「あの……」

「そうそう。蝦蟇といえば、浮世絵で有名な葛飾かつしか北斎ほくさいが挿絵を描いた北越ほくえつ奇談きだんっていう随筆に、とあるお侍が岩場とまちがえて大蝦蟇のうえで釣り糸をたれるって話があるんですがね? きっとその大蝦蟇も馬助みたいな、にぶちんだったんだろうなぁっておもうんですよ。だって自分の体のうえに人が乗って、釣りまではじめたっていうのに、なんにもしないでいるなんてねえ。いや、もしかしたら大蝦蟇っていうのは見まちがいで、本当は馬助だったのかもしれませんね。だったら合点もいこうってもんです」

「がってぇぇん」

「で、ですから……」

「結さんはいかがですか? お変わりありませんか? ちかごろはご学友もふえたようで、普段の表情もあかるくなって、すっかり見ちがえました。陰ながら応援しているあたしたちも、うれしいかぎりです」

「友達ぃぃ、うぅれぇしぃいぃぃ」

「――あのっ!」

 おもったよりおおきな声がでた。目をまるくしたふたりの視線を感じて頬があつくなる。

「ちょっと……お訊きしたいことが、あるんです」

「……な、なんでしょう?」

「実は、ですね――」

「――おっと、ごめんなさい。大切なことをわすれていました。馬助、さっさとあいつを」

「あいつぅ?」

「そうだよ。さっさとしてくんな。結さんをいつまでもお待たせするわけにゃいかないだろう?」

 教室のうしろにおかれた透明なケースをひらいた馬助は、なかから人体の骨格模型をだしてきて、机のうえにのせた。くろい天板に横たわる姿は、医学解剖の実習のようでもある。

「もしかして学校の七不思議のうごく骨格模型って、……忙太さんと馬助さんの仕業だったんですか?」

「ななふしぎ、ですか?」

 忙太が言いおえると同時に、模型の頭が結の方にかたむいた。不安定な頭骨がバランスをくずしたようにも、そうではないようにもみえた。

 結が首をかしげる。奇妙な沈黙がすぎる。不意に骨格模型がたかだかと跳躍し、一気に距離をつめてきた。

 突然のことに反応できずにいる結を見おろすと、つぎの瞬間、芝居がかった仕草でひざまずいて、両手でそっと手をとってささやいた。情熱的な響きをおびたあまい音で。

「ベイビー。君の瞳は、墓場にきらめく燐光りんこうよりうつくしい」

「……へ?」

「その美しさをたとえるなら……、そう地獄の業火。空虚な僕の胸を灼熱しゃくねつの憧憬でみたすばかりか、いまにも心までも焼きつくてしまいそうだ」

 立ちあがった骨格模型は、結のよこにならんで肩に手をまわす。

「突然すまない。君の瞳がうつくしすぎて、とても正面から受けとめられそうもないんだ。臆病な僕でも、ここからならどうにか君と言葉をかわすことができそうだ」

「はぁ……」

「ああそうとも、君の瞳は、肩にいるそのちいさくて白い生きものより、……ちいさくて白い生きもの?」

 まじまじと眞白をみた模型は、ぱっと手をはなして仰けぞった。

「――ら、らららら、雷獣っ!」

 飛びすさった骨格模型は、勢いで数回ころがってばらばらになった。右手だけを形づくると結の肩を指さす。

「べべ、ベイビー。……そ、その雷獣は?」

「眞白です。大切な友だちなんです」

「友だち……。そうだね、友だちは大切だ。大切な友だちならなおさら大切だよね、うん。どうやら僕たちの恋には、たかい壁がそびえているらしい」

 骨のやまから自分の体を組みたてた模型は、そそくさと馬助のうしろにかくれた。ため息をついた忙太が結をみる。

「お騒がせしてすみません。七不思議もなにも、こういうわけでして」

「……どういう、わけですか?」

「うごく骨格模型もなにも、こいつ、付喪神ですからねえ。うごいて当然っていいますか、むしろ毎日毎日よくうごいてるっていいますか」

「つく、もがみ……?」

「こいつみたいに年をくった道具には、命がやどって化生になることがあるんですよ」

「なんか、きいたことある気がします」

「まあ、かわいそうなことにこいつは、化生にはなったものの、あの箱は内側からはひらきませんから、自由に行動することもできやしません。かといって箱をこわしてそとにでたり、勝手にいなくなったりして騒ぎをおこしちゃ、立場がわるくなるってことはこいつもよぉくわかっています。そこでおなじ化生のよしみ、あたしたちがこうして機会をみてはそとへだしてやってるんですが……、一日の半分くらいをじぃっとしているせいか、段々おかしな具合になってきまして」

 おい、忙太、と馬助の後ろから頭蓋骨がのぞいた。

「おかしな具合とは聞きずてならないな。僕はあの箱のなかから世界をながめているうちに気づいたのさ。女の子は皆うつくしい。そして野郎は一様にどうでもいい。うつくしいものにすべきことは賛美。最大の賛美の表現こそが、その美がもたらしてくれた感動の伝達。すなわち愛の告白にほかならないじゃないか」

 次第に調子を取りもどしてきた骨格模型は、優雅な足どりで結のまえに歩みでる。

「君の大切な友人のことをしらなかったとはいえ、先ほどは失礼したね、ベイビー。あらためて自己紹介させてもらうよ。僕の名前は骨蔵こつぞう。みてのとおり人体骨格模型の付喪神さ。チャームポイントは肩甲骨の男性的なライン」

 かろやかに反転してポーズをとり、肩ごしに結をみた骨蔵はさらに姿勢をかえて向きなおり、

「それからこの力づよさと優美さの奇跡の融合ともいえる腕。見ておくれ、この橈骨とうこつ尺骨しゃっこつ、ふたつの曲線によって生みだされる至上の造形美を」

 いろいろと理解の限界をこえた時点で、結の心はかえって平坦であった。目的を達成しようときめる。

「あ、はい。そうですね」

「わかってくれるかい? ところで僕はまだ、しらないことがあるんだ。訊いてもいいかな。亡者たちがあげるうめきごえの、たえなる調べにもまさるであろう、君の名前を」

「綾里結です、こんにちは」

「ユイ・アヤサト! なんてことだ。うつくしい存在はその名前すらうつくしい!」

「ところでみなさん。そろそろ質問、いいですか?」

「なんでも訊いてくれよ、ベイビー」

 忙太と馬助の方にむけた結の目線を、つるりとした頭蓋骨がふさいだ。

「じゃあ、おききしますね」

「ああいいとも」

 おくをみようとよけたところに、骨蔵がついてくる。

「みなさん、この学校のことは、よく、ご存知、ですよね?」

「もちろんさ、なんだって、しっているよ、この骨蔵は、この学校のことを」

 どんなにうごいても、執拗しつように骨蔵は視界に収まりつづける。

「以前に、この学校に、務められていた、小久保先生について、お伺い、したいんですけど。……あれ?」

 ぴたり、と骨蔵がうごきをとめた。時が静止したような静寂がおとずれる。見まわしてみると忙太も馬助も、同様にかたまっていた。

 首をかしげた結は、どこからか小きざみな音がしていることに気づく。音の出どころをさがすと、こまかくふるえる骨蔵の膝だった。

 振動は次第におおきくなり、全身へとつたわる。そのうしろでは馬助がおおつぶの汗をしたたらせていた。時のながれの存在を証明するように、白目をむいた忙太の体がおおきく背後へとかしいでいく。

 ばったりとたおれると同時に、骨蔵がさけんだ。両手を頬にあてた姿は、有名な叫びの絵にそっくりだった。

「こっ、ここここここっ、小久保先生っ! 眼力だけで飛ぶはえをおとした、あの小久保先生っ!」

「……一喝しただけで花瓶を砕けちらせた、あの小久保先生」

 上体をおこしてそうつげたのちに、ふたたび倒れこんだ忙太のかたわらでは、馬助が顔中をぐしゃぐしゃにしてべそをかいていた。

「小久保ぉ先生ぇぇ、こぉわぁいぃぃー!」

 阿鼻叫喚あびきょうかんの光景に呆気あっけにとられる結の両手を、骨蔵がつかんだ。つたわる振動がかゆみをうながす。

「ベ、ベイビー。とうのむかしに、学校をさったあの御方の、名前を、ど、どうして君が、しっているんだい……?」

「えっと、ご自宅を訪問することに、なってるんです、けど」

 骨蔵は天井をあおいだ。

「なんてことだ、運命はこの可憐かれんな少女を、みずから魔窟におもむかせるというのか……」

「あの、……そ、そんなにこわい人、なんですか?」

「こわいなんていう言葉で形容できるような、生やさしいものじゃあない。あの御方は、ああ、あの御方は……」

 はげしさをます震えが頂点に達しかけたとき、不意に骨蔵が結を横だきにして屈みこむ。なすすべもなく浮遊感を感じた直後に、引き戸のひらく音がした。

「結、いる?」

 霧がかったようにかすれた声は夏帆のものだ。

「急な無礼を許してほしい。騒ぎはおこしたくないんだ。忙太や馬助とちがって、僕の姿は普通のひとにもみえるからね」

 至近距離からささやく骨蔵に、結はこくこくと首をふってこたえた。

「わかってくれてうれしいよ、ベイビー。では僕たちからの忠告だ。決してあの御方をおこらせてはいけない。かといってびをうるのはもっと駄目だ。それからもうひとつ。気をつけて。あの御方は、僕たちが視えるんだ」

「え……?」

 おもわず声がもれる。視線をめぐらせると、忙太と馬助がおおきくうなずいていた。

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