稀覯本

「じゃあ、気をつけてね」

「はい。いってきます」

 瑠璃からトートバッグを受けとった結は、いつにもまして真剣な表情でうなずいた。胸のおくにきざした不穏な思いに目をむけまいとするように。

「眞白、いこ」

 少女にしてはすこしだけひくく、あまくかすれた声で呼びかける。カウンターのうえにいたちいさな生きものは、差しのべられた手に飛びうつり、またたく間に肩まで辿たどりつくと、結の頬に顔を擦りつけた。

 純白の毛なみと細ながい体躯たいく、そして黒目がちでつぶらな瞳とまるくおおきな耳が目をひく。雷獣といういかめしい名にそぐわない容姿の持ちぬしは、亡き両親がのこした、つねに結に寄りそい守護する存在の眞白だ。

 無条件に心をゆるせる相手をまぢかに感じて表情をゆるめた結は、反対の肩にかけたトートバッグのひもに手をそえ、店の玄関口に向きなおった

 はかったようなタイミングでドアチャイムが、まるく、ころりとした音をたてる。逆光気味の戸口から姿をみせた人物は、店内の様子をうかがう途中でつぶやいた。よく耳にする言葉が英語の教科書にでてきたときのように。

「あれ? ……綾里、さん?」

「こ、こんにちは……」

 応じた結の声に、眼鏡の少女の表情がほころぶ。

「アルバイトしてるお店ってここだったの?」

「うん」

「すごい偶然。このお店、まえからずっと気になってたんだけど――あ、こんにちは」

 カウンターの瑠璃に気づいた琴音は、行儀よく会釈をした。わずかにおくれて、みつあみがあとにしたがう。

「いらっしゃい。結ちゃんのお友だち?」

「はい。泉琴音と、申しま……す」

 顔をあげた彼女の声が勢いをうしなう。瑠璃は首をかしげた。

「どうしたの?」

「あ。ご、ごめんなさい。美人さんだなぁって、……つい」

「ありがとう。あなたみたいに素敵なお嬢さんからそんな風に云っていただけるなんて光栄ね。瑠璃よ、よろしくね」

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。綾里さんとは、高校でおなじクラスなんです」

「そうなの。なにか探しものかしら」

 やや上ずっていた琴音の声が、普段の落ちつきを取りもどす。

「このお店では、ふるい本をあつかっていますか?」

「なくはないけれど、ほんのすこしよ。そのあたりにあるので全部」

「みてもいいですか?」

「ええ、もちろん。どうぞごゆっくり」

 琴音の歩みにあわせて、木の床があたたかな音をたてる。壁際におかれた飴色あめいろのキャビネットの一角を、真剣な表情でながめた彼女は、しばらくの時間ののちに振りかえった。

「ないみたいです。どうもありがとうございました」

「残念ね。ふるい本ならうちみたいな店より、古書店の方が品ぞろえがいいわよ?」

「あまり有名な本はないので置いてなかったんです」

「図書館は?」

「ありませんでした。それに、手元にほしくって」

「なるほど。なにをさがしているのかしら」

「『玉響たまゆらの花』という本をさがしているんです、ずっと」

「……逢阪おうさか皓月こうげつの?」

「はい。あの……よく、ご存知ですね」

「名だたる文豪というわけではないかもしれないけれど、この町出身の作家だもの。それに、あの筆致はなかなかのものよ」

「そ、そうですよねっ!」

 突然、琴音が前のめりになる。結にとっては、今日二度目の目をまるくした瑠璃であった。

「だいすきな作家なんです。たまたま祖父の本棚で『雪萼霜葩せつがくそうは』を見かけたのが出会いなんですけど、はじめてよんだときのことは、いまでもわすれられません。

 綺麗きれいなタイトルだけどむつかしそうって思いながらひらいてみたら、文章もすごくうつくしくって。ちょっとだけのつもりで読みはじめたのに、いつの間にかページをめくる指がとまらなくなって、読みおえるころには夕方になっていました。何時間も本棚のまえにいたので、祖父にはあきれられちゃいましたけど」

「いい読書体験をしたのね」

「はい。うつくしい言葉でおられた錦につつまれる感じっていうか、見わたすかぎりの百花ひゃっか繚乱りょうらんにうもれる感じっていうか、本をとじたあともしばらくうっとりしていました。はなやかな香りのするお酒って、きっとこんな感じなんでしょうね」

「流麗な文が重なりあって言葉の奔流を織りなすあの感じは、泉鏡花に似たところがあるわね。直接の繋がりはなかったけれど、皓月は鏡花に私淑していたみたいよ。彼がのこした手記や蔵書によると」

「泉鏡花さん。わかる気がします」

「でも、皓月は皓月ね。彼の文章は淡白で繊細。あの文体で『雪萼霜葩』みたいなあわい恋物語をえがかれたら、ね」

「そうなんです。あたしすごく感動して。祖父の本棚には『池わたる月』や『八幡やわたやぶにて』もあったので、夢中でよみました。ほかにはないのかなと思ってしらべてたら、『玉響の花』という作品があることがわかったんです」

「皓月の遺作ね、自伝的な要素のある」

「遺作なんですね……」

「ええ。皓月が死の直前まで執筆していた作品よ」

「お話をきいて、ますます読んでみたくなりました。きっとすごく素敵なんでしょうね」

 夢みるようにつぶやいた琴音は、ふと気づいたように、

「あの、すごく詳しいですね。日本語もすごくお上手ですし。日本の文学がおすきなんですか?」

「日本にかぎらず文学はすきだけれど、言葉や文字がすきなの。古来から言葉や文字には、特別な力がやどっているとしんじられてきたでしょう?」

「きいたことがあります」

「北欧神話の最高神オーディンが苦行のすえに会得したルーン文字なんかも有名だけれど、この国ならやっぱり言霊ことだまかしら。

 言葉には霊力がやどっているという上代の考えは、いま話されている日本語のなかにも息づいているわ。たとえば寿ことぶき。この言葉は、言葉にだしていわうという意味の言祝ことほきがもとになっているの。その反対の働きをさけるためにおこなわれたのが、不吉な言葉をさけるという言忌こといみね。

 言葉にだしていうことを言揚ことあげというけれど、重要なことでないかぎりはつつしむべきものとされたくらいに、その力はつよいものなの」

 うたうようにつむがれる声が、店内の空気を塗りかえていく。いつの間にか結も琴音も、まばたきすらわすれて、流麗な音信おとないに心をかたむけていた。

「まあ、それはかく」とつげるおどけた声で、ふたりはようやく我にかえる。

「そんなに読んでみたい?」

「も、もちろんです」

 そう、と応じた瑠璃は結に視線をむけて、

「たまたまクラスメートだった泉琴音ちゃんは、逢坂皓月の『玉響の花』をずっとさがしていた。優秀ね、今回も」

「へ? な、なんですか……?」

「気にしなくていいわよ」

 手をのばして結の頭をなでた彼女は、ふたたび琴音に向きなおった。

「図書館や古書店にもないような稀覯本きこうぼんを、個人の蔵書家が所有していることがあるの」

「雲をつかむような話ですよね。それって……」

「普通ならね。ただし今回は特別。『玉響の花』を蔵書ぞうしょしている人をしっているの、実は」

「ほ、本当ですかっ!?」

 ふたたび身を乗りだした琴音に、瑠璃が真剣な表情で応じる。

「ええ。あたしが『玉響の花』をよんだのも、その方が貸してくださったからなの。しかもあなたたちに所縁ゆかりがある、……といえばある人ね」

「誰……なんですか?」

「――小久保こくぼ辰雄たつおさん」

 茶目っ気にみちた笑みに、困惑した表情が応じた。

「どなた……、でしょうか」

「あなたたちの学校で国語の教鞭きょうべんをとっていらした方よ、五年くらいまえまで」

「なんだか、すごく……、いえ、とても遠いです」

 瑠璃は、肩をおとした琴音に微笑みかける。

「小久保先生も相当な本の虫だったから、好事家同士、気があうかもしれないっておもったの。よかったら取りついであげましょうか。」

「でも、全然しらない人に……」

「多分きびしいわよ? この機会をのがしたら」

 わなわなと震えだした琴音は、昂然こうぜんと顔をあげた。

「あたし……がんばってみます!」

「その意気よ。がんばってみて、……まあ、ほんのちょっぴりむつかしい人だけど」

 小声でひとこと付けくわえた瑠璃の視線が、ふたたび結をとらえた。

「で、結ちゃん」

「はい?」

「泉さんが小久保先生のご自宅にうかがうとき、一緒にいってもらえるかしら」

「わ、わたしも、ですか……?」

「ええ、あたしの代わりに、瑠璃琥珀堂の代表として」

「だ、だだ、代表っ!?」

「大丈夫大丈夫、手土産なんかは手配しておくから。それにほら、ひとりじゃ心ぼそいでしょう? 琴音ちゃんも」

 琴音から、すがるような表情がむけられていた。かたや久しぶりにみるくろい笑みである。突如あらわれた包囲網をまえに、結は、なにごとかに巻きこまれつつあることに、ようやく気づいた。

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