夢みる本の章

すきなもの

「起立、礼」

 よそゆきの響きをおびた日直の声で、生徒たちはお辞儀をした。応じた教員が教卓をはなれる。その距離がひろがるにつれて、話しごえは数と音量をましていった。直前までおそわっていた二次関数のグラフのように。

 昼やすみのくつろいだ空気にそまっていく教室で、最前列の右から二番目の席にすわっていた少女は、机のうえを片づけおえて振りかえった。

 おおきな目とボブの髪は、小柄な体躯たいくとあいまって小動物に似た印象がある。視線に逆行したために数人と目があい、その印象のとおり、なかば条件反射でうつむきかけながらも、どうにか窓際の最後尾まで視線をむけたゆいに、ひとりの女子生徒が唇の両端を持ちあげて応じた。

 彼女が背にした窓からそそぐ陽ざしが、端整な顔だちをいろどる瞳や眉、ながい髪と、しろい肌のコントラストをつよめる。結が目をうばわれていると、自身の容姿にまるで無自覚な夏帆かほは不思議そうに首をかしげ、スクールバッグから取りだしたランチボックスを顔のまえに掲げてみせた。

 笑みでこたえて彼女のもとにむかう。半袖の制服からのびた腕にふれる空気は、湿度と温度をたっぷりとたくわえつつあった。はじめて袖をとおしてから一ヶ月ちかくがすぎた夏服は、すっかり日常になじんでいる。

 結は、夏帆のとなりの席で立ちどまった。

 そこにすわっている女子生徒から、夏帆とはちがう理由でながい睫毛まつげでふちどられた瞳がむけられる。クラスでも目だつ部類で芸能界のニュースや流行に敏感な、まるでタイプのことなる彼女に、おそるおそる声をかけた。

「き、今日も……いい?」

「うん。あたしもその方がいいし」

「ありがと」

「こっちこそ」

 立ちあがった女子生徒と席をかわる。彼女はしたしい友だちにちかい結の席へ、そして結は夏帆のとなりへ。あかるい色の髪は、数歩あるいて振りかえった。

「あのさ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。やなときはやだっていうし」

「う、うん。ありがと……」

 うすく微笑むと彼女はふたたび歩きだした。

 先週の席がえのあと、今度は結がくる番だよ、といわれて昼食は夏帆のところでたべることになった。ちかくの生徒に席を替わってほしいとたのむのはなかなかにあつい壁だったが、勇気を振りしぼったおかげで、こうして結は彼女との昼食をつづけられている。夏帆に背中をおされたとはいえ、あまり接点のない相手に自分から頼みごとをできたことが、今でもすこし信じられなかった。


 机をくっつけて向かいあわせになる。ふたりがランチボックスの包みに手を伸ばしかけたとき、視界のはしでセーラー服のタイがゆれた。

「綾里さん、水上さん」

 声のした方をみると、しとやかに微笑む少女の姿があった。

 お下げ髪と眼鏡という古風な出でたちのいずみ琴音ことねは、楚々そそとした印象のとおり、おとなしく本をよんでいることがおおいが、先日ふとしたことで能弁になり、あまり交流のなかった結を圧倒している。

「お昼ご飯、あたしもご一緒していい?」

「わ、わたしはいいけど……夏帆ちゃんは?」と結は夏帆をみた。

「ボクもいいよ。でもいいの? いつも田中さんたちとたべてるでしょ?」

「うん。今日は希ちゃんたちには断ってきたの。綾里さんたちとお話したくって」

「そっか。じゃ、一緒にたべよっか。泉さん、机はどうする?」

「ちょっぴり借りてもいい? この辺」

「もちろん」

 三人は弁当をひろげる。ふたつあわせた机のうえに、色とりどりの花がひらいた。

 いただきます、と手をあわせて食べはじめる。口下手な結と、興味の対象がせまい夏帆とではしずかになりがちな時間は、琴音がくわわることでちがう色あいをおびた。よく本をよんでいるからか、はなす内容が理路整然としていてわかりやすく、それとなくふられる言葉にこたえているうちに、会話は自然と弾んでいく。

 半分ほど食べすすんだところで、琴音が切りだした。

「綾里さん、このまえはごめんね」

「え? ……こ、このまえって、なに?」

「遠足のとき。あたしずっとひとりでしゃべっちゃってたから」

「あ。う、ううん。泉さんは本がすきなんだなって……、わかったから」

「うん。大好き。本はね、真剣に向きあったら向きあった分だけきちんとかえしてくれて、つぎにひらくまで、文句もいわないでじっとまっててくれる。それに、丁寧にあまれた文章は、はなすときの言葉とちがって通りすぎていかずに、心のおくのあたりにのこるの。物語や詩、エッセイや批評。おなじ作家でもなにをかくかで文章の顔がちがっててね。ああ、こんな文章にであえたっておもえたときは、なんだか幸せになっちゃう。――ご、ごめんね。またやっちゃった」

「ううん。大丈夫。夏帆ちゃんは?」

「ボクもきらいじゃないよ、そういう話きくの」

「ありがとう。……二人は、どんなものがすき?」

「猫と結の家のパン」

 夏帆が、ほこらしげに即答した。

「猫、すきなんだ」

「すきっていうか、猫になりたい」

「な、なるの?」

「うん。できるなら野良がいいな。きちんと縄ばりをもっていて、おなかがすいたら食べものを、雨がふったらぬれないところを、さむくなったらあたたかいところをさがす。それから、ときどき集会にでるんだ」

「すごく水上さんらしいかも。綾里さんの家のパンって?」

「結の家はシェ・カっていうパン屋さんでね、とてもおいしい。もし地球最後の日がきたなら、ボクはシェ・カのパンをたべながら猫たちとすごすな」

「そんなにおいしいの?」

「この町すべての猫たちにちかってもいい」

「猫に?」

「もっとも冒すべからざる存在だからね、ボクにとって。いるかいないかわからない神さまにちかうより、現実的で重みがある」

「……ほんとにすきなんだね、猫」

「うん。シェ・カのパンもすごくいい、猫とは違う意味で。機会があったら食べてみて」

「そうしてみる。綾里さんは?」

「わ、わたし?」

「うん。すきなものってある?」

「……すきな、もの」

 ふと気づく。いままでみたことなかった角度から、自分をながめていることに。半透明の器のその部分には、なにもないようにおもえた。

 思いきって手をいれてみる。夏帆にとっての猫や、琴音にとっての文学のようなものをさがして。空をきったような気がしたが、そうではなかった。さらに手をのばす。なにか、ふわふわとしていて、つかみどころがないものが指さきにふれた。顔をあげる。ふたりはせかすこともなく、当然のようにまっている。

「うまく、いえないんだけど、いい……?」

 琴音がうなずいた。

「えっとね、わたし、いまアルバイトをしてるんだけど」

「へえぇ意外。なんのアルバイト?」

「……お届けもの、かなぁ。アンティークショップみたいな、カフェみたいなお店」

「素敵ね」

「うん。素敵なお店なの。そこでお届けものをするとね、ありがとうっていわれたり、ありがとうございますっていったりするの。そういうのがね、なんだかすごくうれしくて、……すき」

「いいね。そういうのって」

 ふたつの笑顔をむけられて急にはずかしくなる。ごまかすように手をのばしたおにぎりはとてもやわらかく、口に運ぶと、ほろり、と解けた。


     ★☆★☆★


 夏帆と琴音に話した言葉は、五時間目の授業がはじまっても、ほんのりとした温もりをたもっていた。

 結は、教科書に目をおとす。温もりが四散するのがわかった。

「龜山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民におほせて、水車をつくらせられけり」

 そんな出だしではじまる、七百年ほどまえにかかれた随筆の一段だ。

 どうしてむかしの人は、「はひふへほ」を「あいうえお」とよむことにしようとおもったのだろう。もっと素直に書いてくれればよかったのに。「む」が「ん」だとか、「けふ」が「きょう」だとか、「てふてふ」にいたっては「ちょうちょう」だとか、読みづらいことこのうえない。なりなりけりけり言うよりまえに、やるべきことがあったとおもう。そんな結の不満をよそに、授業は淡々とすすんでいく。

 やわらかな風が通りすぎた。心地よさに数度まばたきして、まぶたがおもいことに気づく。

 昼食は、胸のおくをあたためていた好きなものについての言葉以上の、やわらかな温もりへと作りかえられて、身体中に行きわたっていた。教科書の字がぼやけだす。先生の声がとおざかる。ふ、と意識がうすれかけた。

「――綾里、綾里」

 絶妙な頃あいでうたれたくいが、意識を現実につなぎとめる。顔をあげると国語の教師がたのしげにこちらをみていた。

「よんで。三十二ページ、最初から」

「……は、はい」

 無数の視線を背中に感じながら立ちあがる。ごご、と椅子が音をたてた。

「か、亀山殿の御池に……、大井川の水を、まかせられん、とて、大井の、土民におおせて、……み、水車を、つくらせら、れけり」

「もうすこし力をぬいて読んでくれると、兼好法師もよろこぶな。じゃあ続きは、――泉」

 はい、と澄んだ音色が応じた。

「おおくのあしをたまいて、数日すじつにいとなみいだして掛けたりけるに、大方めぐらざりければ、とかく直しけれども、ついにまわらで、いたずらにたてりけり」

 言葉は、ながれるように紡ぎだされる。ながくのびていく糸には、彼女が文学について話すときとおなじ色がにじんでいた。

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