コードブルー

 やわらかな色あいをした木製のスライドドアのまえにたった小柄な少女は、ネームプレートを何度もたしかめたあとでおおきく深呼吸をすると、擦りきり一杯分の小麦粉をはかるようにノックをした。

 室内から応じた聞きなれた声が緊張をゆるめる。失礼します、と扉に手をかけたとき、音楽準備室をたずねるような気持ちになった。

 病室には、おおきな窓からさした午前の光がみちていた。ベッドに上体をおこして本をよんでいた潤一郎が、おだやかな笑みをうかべる。

「綾里さん、こんにちは」

「こ、こんにちは……」

「お見舞いに来てくださったんですよね、ありがとうございます」

「あの……、お加減は、いかがですか?」

「とてもいいですよ、おかげさまで。二、三日で退院できるそうです。ご心配をおかけしました」

「心配なんてそんな、……でも、よかったです」

 ベッドのそばまであるいた結は、手にした紙袋を差しだした。

「これ、よかったら、どうぞ……」

「ありがとうございます。フルーツジュースですか?」

「は、はい。お店で人気があるんです、すごく」

「ああ、とてもうれしいです。なにぶんこういう状況なもので」

 潤一郎につられて、結は部屋を見まわす。

 ベッドにわたされたオーバーテーブルにおかれた十数冊の本には、おなじ本が何冊かふくまれおり、窓に作りつけのカウンターデスクをはじめとして、さまざまなフラワーアレンジメントが、部屋のあちこちでパステルカラーの見本市のように咲きほこっていた。

「これってやっぱり……、お見舞い、ですか? 全部」

「ええ。しばらくよむ本にはこまらなそうですし、花にかこまれた生活になりそうです。心配してくれる人たちがいるのはとてもありがたいことですね」

 さながら文学少女の病室といった風景のなかで、潤一郎はこまったように微笑む。だがその表情は、以前に彼の家でみたときとは、別の音色をおびていた。

「なんか……、先生、あかるくなったような、感じがします」

「あかるく、ですか?」

「あの、えっと、……なんとなく、なんですけど」

 声をデクレッシェンドさせながらうつむく結の言葉をきいた潤一郎は、しずかにうなずいた。

「そうなんでしょうね、きっと。実は、とてもいいことがあったんです」

「いいこと、ですか?」

「また、あえたんです。ずっとあいたかった人に」

「それは、いいことですね」

「ええ。とても」

 ぼんやりとした共感を交換して、微笑みあう。

 そういえば、と潤一郎がつぶやいた。

「もしかして綾里さんに僕への質問をたのんでいたちいさなお友だちは、着物の似あう女の子ではありませんか? 黄色い帯の」

「……え? ど、どうしてそうおもうんですか?」

「なんとなくです。綾里さんがうちにたずねてくるようになってから、急にいろいろなことがおこったものですから」

「……えっと、その、ですね」

「言いづらいことでしたらいいんです。きっと、いろんな事情があるでしょうから」

 視線をさまよわせながら、云いかけては止めてを繰りかえした結は、何度目かでようやく言葉をつむぐことに成功した。

「あ、あの……、その子は、先生がいったとおりの子です。着物がすごく似あっていて、元気で、……ちょっとだけつんけんしてるんですけど、本当はとってもやさしくて」

「その子のことは、ふせておかなければいけないんですか?」

「どうしたらいいか……、わからないんです。普通のことじゃ、ないですから……。えっと、その子じゃなくって、わたしが」

「はなす相手をえらぶ、ということでしょうか」

「……そんな、感じです、大体」

「なるほど。そういうこと、ありますよね。僕もようやくあえた女性のことは、人には話せそうにありません」

 潤一郎は声の調子をかえた。リコーダーの演奏をほめるように。

「ところで僕は、綾里さんと話すときのふわふわした感じ、きらいではありませんよ?」

「へ……?」

「世のなかには何でもはっきりしていなければ気がすまない人もいますが、僕はそうおもいません。ようやくあえた女性のことなんて、はっきりさせようもないですし。けれども彼女が、たしかに僕のそばにいてくれるのがわかっていますから、それで十分です。無理してまではっきりさせる必要なんて、ないんです」

「それで、いいんでしょうか……」

「もちろん。ですが、いつか話せる人が見つかるといいですね。誰にもいえないことを抱えているのは、ちょっと、息ぐるしいです」

「……そう、ですね」

「つらくなったときは、僕でよければ話してください。ふわふわなままで」

「ありがとう、……ございます」

「――あたしもいるわよ」

 声のした方をみると、開けはなたれた窓に一羽の小鳥がとまっていた。背中側の青みがかったうすい灰色とは対照的に、腹側の黄色があざやかだ。

 ついつい、と挨拶するように尾羽を上下させる仕草をみる潤一郎の瞳が、やわらかな光をおびた。

「おかえりなさい、黃羽」

「ただいま、潤一郎」

「……君の鳴き声は本当に綺麗ですね。でも僕は欲がふかいようです。また君の本当の姿をみて、言葉をかわしたいと、そうねがわずにはいられません」

 結は顔をこわばらせる。自分の感覚からすれば、黃羽は、着物姿の少女にかわって、人の言葉で応じたのだ。よかれとおもってむすんだ縁は、山のうえの公園でいとをまっていた桜の少女のように、一方通行なものでしかない。

 なんて顔してんの、とやさしい声がきこえた。黃羽はみちた表情をたたえている。

「大丈夫よ。あたしたちは、大丈夫」

 彼女が視線をむけたさきでは、潤一郎もよくにた笑みをうかべていた。

「綾里さん、僕の大切な人は、かならずまたあえると約束してくれました。ですから僕は、まつことにきめたんです。彼女と一緒に、そのときがくるのを」

「人の一生なんて、化生の時間にくらべたらあっという間よ、潤一郎。いきていることを大切にしていれば、かならずこたえてくれる人がいるから」

 結もつられて微笑む。見つめあうふたりのあいだには、言葉をこえて、たしかにおなじ空気がながれていた。

 ところで、と潤一郎が深刻な顔でいう。

「天国はいまごろ大騒ぎでしょうね、きっと」

「……天国、ですか?」

「ええ。天使がひとり逃げだしてしまったんですから」

 いままでみたことのない表情になった黃羽の頬が、みる間にあかくそまった。


     ★☆★☆★


「失礼しました」

会釈をして視線をあげると、陽だまりにふたつの笑顔があった。読みおえた本をとじるように、そっと扉をしめる。

 結は、かるい足どりで歩きだした。休日の午前の病棟には、想像したよりずっとゆったりとした時間がながれている。大勢の人が生活をともにする空気の肌ざわりは、すこしだけ養護施設に似ているような気がした。

 急に思いついて、まわりをたしかめてから、かがんで手を差しのべた。腕をつたって肩にのぼってきた眞白と頬をあわせる。一部の人にしか感じられない存在でありながら、そのやわらかさは、たしかな感触として結の心をあたためた。

 立ちあがるとまぶたをとじて、あのウッドデッキでチェロを弾く潤一郎と、譜面台にとまってそれをきく黃羽の姿を想像してみる。うららかな陽ざしのしたで、風にそよぐかえでの葉ずれとチェロの音が混ざりあう光景は、とてもきよらかで、幸福そうにおもえた。黃羽が歌をうたうと、もっとよさそうだ。おおきく息をすって瞳をひらく。

 歩きだそうとしたとき、すずやかな音色をきいた気がした。耳になじんだ音の出もとを探しかけた結は、こんな場所にいるはずがないと苦笑して歩きはじめる。

「――麻奈美ちゃん? 麻奈美ちゃんっ!?」

 突然ひびいた声に、ぎくりと足をとめた。

「おねがいします! はやく、誰か!」

 必死な響きが、反射的に結を振りむかせる。

 すぐそばの病室で、母親らしい女性がベッドによこたわる少女へ懸命によびかけていた。あかるい陽ざしのなか、おさない横顔にたたえられた透きとおるような白さが目に焼きつく。

 空気を一変させた廊下に、擦過音のまざった足音がひびいた。駆けつけた看護師が病室に入っていく。てきぱきと容態を確認すると、ナースコールでなにかをつたえる。

「コードブルー、コードブルー。七東病棟、七〇二です」

 スピーカーを通じた声がきこえた。ひどく希薄な現実感のなかで、結は視線をさまよわせる。ざわめきが波紋のようにつたわり、病室から人を引きよせる。

「道を開けてください!」

 声のした方をみると、まっかなカートをおす看護師がすぐそばまできていた。あわててわきによけると、カートにつづいて医師が廊下をけぬけていく。

「下肢あげて。ルート確保、ボスミン用意」

「頭の柵、はずします」

「AED装着、心マそのまま」

「はなれて!」

「解析中です。はなれてください。電気ショックは不要です」

「ボスミンいきます。一投目」

 無数にとびかう指示や報告に、機械の音声がまざる。

 騒然とする空間に、かすかな鈴のがひびいた。音のした方をみた結は、人だかりのむこうに、着物をきた背のたかい女性のうしろ姿を見かけた気がした

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