月あかり

 少女が泣きじゃくっている。

 肩をふるわせながら。こぼれそうになる声を懸命にこらえて。

 彼はその光景から、目をはなすことができなかった。

 白とあわい茶色、やわらかな配色すら機能のひとつとして組みこまれた無機質な部屋のなかで、彼女は両手で涙をぬぐい、しゃくりあげ、嗚咽をもらす。有機的な音階と、不規則なリズムで、その身にみちた命を象徴するように。

 はっきりと理解した。おさないころから入退院を繰りかえし、おおくをあきらめるしかなかった灰色の世界で、彼女だけがあざやかな色彩をおびているのだと。

 うつくしい、そう感じた、ふるえるほどに。うしないたくない、そうおもった、心のそこから。死にたくない、そうねがった、うまれて初めて。

「僕は、大丈夫ですから。玲菜」

 言葉は自然にうまれていた。自分にむけられた瞳のぬれた光彩に、息をのむ。振りしぼるような声すら、いかなる名器の音色も到底およばないとおもえた。

「ほんと、に……?」

「ええ、本当です」

「しんじて、……いい、の?」

「もちろんですよ」

 何度もうなずきながら、少女はふたたび涙をこぼした。意を決してベッドからおりて、彼女に近づく。ピアニッシモの音符をかなでるように、そっと背中に手をまわした。

 そのまま包みこむ。やわらかく、あつい感触を通じて、命そのものにふれたようにおもえた。泣き声は次第にテンポをはやめ、クレッシェンドする。おずおずとまわってきた手に力がこもる。ああ、彼女はいきて、躍動している。腕のなかにおさまってしまうちいさな存在がやどしたものの大きさに、彼はただ感動していた。

「ねえ、潤一郎……。ひとつだけ約束して」

 腕のなかで彼女がそうつぶやくころには、面会時間の終わりがせまっていた。

「なんでしょう」

「あたしよりさきに死なないで。絶対に」

 身体をはなした少女から、まっすぐに見つめられる。息をのんだ。つよい瞳だった。

「そうします。君をなかせることが、こんなにつらいとはおもいませんでした」

 ようやくみせた笑顔には、あかるい色彩がもどりつつあった。

「ですが、ないている君は、とてもうつくしくもありました」

「あ、あたしが?」

「ええ」

「……そんなこといわれたの、はじめて」

「玲菜はいつも綺麗きれいです。なにをしても色あざやかで、僕の目をきつけてはなしません。さっきの泣き声でさえ、君の命が紡ぎだした旋律のようでした」

「ちょちょ、ちょっと。な、なにいってるのっ?」

「本当のことですよ? 玲菜はとてもとても、とてもうつくしいです。そうだ。そのままうごかないでいてください。ぬれた君の瞳を、もっとよくみておきたいです」

「ば、ばかばか……。ないたあとの顔は変だからみちゃだめ」

 押しころした悲鳴にちかい声がもれる。

 至近距離で視線をかわした。言葉にたよらず伝えた思いを受けとって、彼女はまぶたをとじる。心臓の鼓動とは正反対に、時は次第にテンポをゆるめ、やがて永遠ともおもえるフェルマータに差しかかる。

 ほう、と吐息をもらした彼女は、彼の胸に顔を押しつけた。

「そんなにあたしに夢中だったら……、もういきていけないね、あたしなしじゃ」

「本当にその通りです。いきていけそうにありません、君にもしものことがあったりしたら」

「じゃあさ、そのときは迎えに来てあげよっか」

「お願いします。君がいない世界には、なんの価値もないですから」

 笑いかわす。秘密の約束をする幼子の無邪気さで。機能の構造体でしかない見あきた病室すら、うつくしくみえた。


     ★☆★☆★


 うすあかりのなかに、しろい天井があった。

 鮮明な夢だった。天井を見あげるのが久しぶりなのかどうなのかさえわからないほどに。彼女がまだそこにいるような気がして、体をおこす。

 個室の病室には、あわい月光がみちていた。天井とおなじ色の壁紙とフローリング風の床、サイドレールとよばれる柵をそなえたベッドのわきには、テレビがすえられた床頭台しょうとうだいがおかれ、カウンターデスクが作りつけられたおおきな窓の反対側には、横びらきの扉がある。

 彼が高校生のころに建てなおされた公立の総合病院の内装は、十数年の星霜をへても、あの日とかわらぬ外観をたもっているようにみえた。ただひとつの、決定的な相違をのぞいて。やはり世界は、あのかがやかしい色彩をうしなったのだ。

 どうしようもない喪失感と、それがもたらす哀しみ、後悔や絶望がいまぜになって、心の一番やわらかな部分にふかぶかと突きささった。胸をおさえる。だが、いたむのはそこではない。もっとふかく、自分では手のとどかない、ふれることのできるたったひとりの人が、永遠にうしなわれてしまった場所だ。

 きつく瞼をとじて、骨がきしむほどに手を握りしめた。鮮烈な痛みは、どれほどの年月が経過しても、色あせることがない。こぼれたのは悲鳴の音色をおびたつぶやきだった。

「玲菜、君がいなくて僕は……、とてもさびしいです」

 不意に、さえやかな月の光が射しこんだ。一切の温度を感じさせない澄みきった光が、うすぐらい病室から窓辺の空間を切りとる。

 そこに、おさない少女がたたずんでいた。いつともなく空に輝きはじめる夕星ゆうつづのように。ピアニッシモからはじまる楽曲のたしかな存在感で。

 息をのむ。白と黒のしま模様の着物に、黄色い帯をあわせた彼女から、まっすぐにむけられたかんばせに、決して見間違いようのない面影を見いだした。言葉を発することもできず、その瞳を見つめかえすしかできない彼に、少女はあの勝気な笑みをうかべる。

「さえない顔」

 なにげなく発した言葉にさえ、いかなる名演にもまさる崇高な響きがあった。

「玲菜……」

 どうにか声を振りしぼる。つぎの瞬間、思いがあふれた。

 強烈な感情の奔流に巻きこまれる。なす術もなく翻弄される。それでも言葉をつむいだ。おぼれる人の懸命さで、あるいはチェロを手にしたばかりの子どものひたむきさで。

「玲菜。僕は……、僕は駄目です、君がいないと。……君のいない世界は、機械がかなでる楽曲のように灰色で、なにも心に響いてこない……。こんな世界にいることに、意味なんてなにもありません」

「そうみたいね」

「連れていってくれますか? ……約束どおり、君のところへ」

「約束って?」

「君がはじめて僕の見舞いにきてくれたとき、この病室で約束したでしょう? 君にもしものことがあったときは、迎えにきてくれると」

「……してたわね、そんな約束」

 そういうと少女は、ちいさな子どもにたずねるように首をかしげた。

「かなしいの?」

「ええ、とても。僕はさびしくて、そしてかなしい」

 彼にひとあし近づいて、彼女はたずねる。

「つらいの?」

「君がいなくなってからずっと、胸のおくから血がながれていて、とまりません」

 さらに一歩、彼女は、聖女のごとき慈愛と、天使のごとき清らかさをもって微笑みをたたえた。

「もう、たえられなくなった?」

「そうです。君がいない世界に居つづける、理由がありません」

「そっか。ごめんね、ずっとつらい思いさせちゃって」

 立ちどまると少女は顔をふせた。ゆっくりと、みっつ呼吸するほどの時間がすぎる。彼女はうつむいたまま、身うごきひとつしない。

「玲菜……?」

 応じたのは、それまでとはちがう、すがるような声だった。

「ねえ。その約束の続き、わすれてない?」

「続きですか?」

「あのときさ、もうひとつ約束したでしょ?」

「……もうひとつ?」

「そうだよ。あたしは約束したの。……絶対に潤一郎のところにかえってくるって」

 彼女が顔をあげる。そこには彼とおなじくらいに、必死な表情があった。

 つよく胸をうたれる。それは間違いなく再現だった。一瞬たりともかかさず記憶にとどめておこうとおもいながらも、絶望のなかで記憶の彼方へと押しながされたあの日の。

「潤一郎はさ、すました顔でいろんなことがどうでもいいような顔してるくせに、ほんとはどうしようもないくらいのさみしがり屋さんだから。……だからね、かならずもどってきてあげるよ。潤一郎のそばに」

 少女は、泣きながら微笑む。なにもかもがおなじだった。その言葉が彼の心をみたして、あついしずくとなってあふれるところまで。

 ふたたび世界は色づき、あざやかに呼吸する。あいした人の面影をたたえた少女が、やさしげにたたずんでいる。声を振りしぼった。許容量をこえるほどにおおきく、あたたかな思いのなかで。

「ありがとう、玲菜……」

「ばか潤一郎。あたしだって人のこといえないけど、大事なこと、わすれてるんだから。あたしずっと、つらかったんだよ?」

「君も……、つらかったのですか?」

「すごく、すごくつらかった。潤一郎をおいてっちゃったことも、かえってきたのに気づいてもらえないことも。……かなしんでる潤一郎をみてることも」

「……本当に、君が僕のそばに?」

「うん。潤一郎が小鳥の餌台をつくったことも、巣箱をつくったこともしってる。それから、……昨日ないてたことだって」

「そうだったんですか。君が帰ってきてくれたのに、僕は……」

「仕方ないよ。あたしがかえってきたこと、潤一郎はしらなかったんだから。でもね、潤一郎。これからはわらってて。しあわせでいて。あたしがいるんだから」

「これからも、君がそばにいてくれるなら」

「いるよ。ずっといる。この姿じゃないけど、あたしは、潤一郎のそばにいる」

 月あかりがかげった。少女の姿がうすくなる。自身に背後の景色がすけていることをたしかめた彼女は、それでも笑顔をつくった。

「迷子になりかけてたけど、あたし、もどってきたから。ちゃんと潤一郎のそばにいるから。だから顔をあげて、あたしを見つけて。あたしたちが言葉をかわせる日がきっとくるから。だからその日まで、命を手ばなさないで」

「まって、待ってください。もっと話をさせてください。君の声がききたいんです」

「ごめん。もう、時間みたい。そうだ。あたしのいまの名前ね、黃羽って――」

 おさない少女は、あらわれたときとおなじくらい唐突に消えうせた。はじかれたように立ちあがった彼の腕がとどくより早く。

 いくさきをうしなった腕をのろのろと下ろしかけた彼は、月光の残滓ざんしが宙をただよっていることに気づく。差しのべた手のひらに、ふわり、とそれが舞いおりる。

 しろから灰色へとやわらかなグラデーションをえがくちいさな羽だ。それを包みこんだ両手を額につよく押しつけ、彼はいとしい人のあたらしい名をよんだ。

 その響きは、これまで奏でた音のなかで、もっとも貴く、そしてうつくしいとおもえた。


 さえた夜空のしたで、異国の歌をおもわせる言葉がつむがれている。

 病院の屋上にもうけられた、リハビリ施設をかねた庭園だ。つらなる山並みと、湖のようにひろがる町あかりにむかった金色の髪の女性が、声をひびかせる様子をみていると、ステージのそでからソリストの公演をながめているような気持ちになった。

 彼女が手にした指揮棒ほどのながさのあるつえの先端が、あわい光をおびている。抑揚にあわせてふるわれ、光の帯によって複雑な文様がえがかれる。きよらな声が、朗々とながれていく。目のまえで繰りひろげられる幻想的な光景に、結は、言葉もなく見いった。

 月あかりの陰りにあわせて旋律は平坦へいたんになっていき、やがて雲がその姿をかくしたとき、言葉は途ぎれた。瞼をとじた瑠璃は、声が染みわたるのに十分な時間をおいてから、ゆっくりとあおい瞳をひらく。

「ここまでね。これ以上はあの子にも負担がおおきいわ」

「あ、あの……」

「なぁに?」

「素敵でした、すごく」

「ありがと。言葉にはね、特別な力があるの」

「連れてきてくださってありがとうございました。ずっと気になっていたんです、峯岸先生と黃羽さんのこと」

「結ちゃんには見とどける義務があるの。この縁をむすんだものとして」

 瑠璃の声に、さきほどとおなじ音色がにじんだ。

「むすんだ以上は、その縁に責任をもたなければならない。それがあなたの義務よ」

「わかりました」

 真剣な顔でうなずく結をみて、視線をゆるめた瑠璃はかるく伸びをした。

「それにしても、さすがは琥珀の見こんだ子ね、黃羽ちゃんも。あんな顔でたのまれたら、ことわるわけにはいかないわ」

「そういえば琥珀さんは?」

 お仕事よ、と瑠璃は雲のむこうにうかぶ下弦の月を見あげた。

「ちょうど満ち潮ね、本来なら命がうまれる時間。けれども人の営みは、こんな時間にも断事司たつことのつかさをよぶようになった」

「断事司……?」

 はじめてきいた言葉は、喉のおくにかたい余韻をのこした。

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