急変

 夜明けまえの紺青をたたえた空のした、まどろむ背のひくい町並みのなかにあって、その建物はひときわの異彩をはなっていた。

 まうえからみると、四葉のクローバーに似た作りだ。それぞれの葉にあたる部分は六角形で、瓦ぶきの屋根が、整然とした幾何学模様をえがく。

 南側の一葉、瑠璃琥珀堂の店舗にあたる部分の軒先に、一羽の小鳥がいた。色彩を取りもどしつつある景色のなかで、歌声をひびかせ、朝の訪れをつげる。

 ひろくとられた軒のしたには、建物にそってベランダがめぐらされており、四季の植物がみちた庭へとみちびく。しげる緑のなかであそんでいたちいさな夜の住人たちが、彼女の歌をきいて、葉のうらや茎のかげから、彼らの世界へと帰りはじめた。蔓草つるくさ模様をなした鋳鉄の柵のむこうでは、通りを闊歩かっぽしていた異形たちが彼女に手をふり、つぎつぎと消えていく。

 昼の生きものたちへの受け渡しの支度がすすめられていく街角に、不意にすずやかな鈴のがひびいた。帰りおくれていた化生たちは、次第におおきくなる硬質な靴音を聞きつけ、にげるように姿をかくす。

 稜威いつ――みきよめられていること、あるいは勢いのはげしいことを意味するその言葉の顕現そのものの気配が、ふかい闇からあらわれつつあった。

 よくしった人物のものではあるが、普段とはまったくちがう圧倒的な存在感に、黃羽は歌をわすれる。縫いつけられたように視線を離すことができない。口のなかがかわいていく。

 やがて漆黒のなかから、ひとりの女性が姿をみせた。たかい位置でひとつにまとめられた髪とまっすぐに正面を見つめる瞳は、彼女があらわれた闇よりさらにふかい深遠をたたえており、飛び柄の小紋で百合がえがかれた黒地の着物にぼかしのはかまをあわせ、とうの籠をたずさえている。

 瑠璃琥珀堂、閑雅な筆致で店の名前がしるされた袖看板のところまできた瑠璃は、軒先にとまった黃羽をみると足をとめ、表情をゆるめた。厳然たる気配が四散する。門をくぐって店へとあるきだした。

「ご苦労。お前のおかげで今日も、きちんと朝がきたようだ」

 震えかけた声をかくそうとせきばらいをした黃羽は、人の姿になって軒からおりる。

「そっちこそいそがしいのね、こんな朝早くから」

「引き潮だ。小潮だが、ここをはなれてしまうものもいるからな」

 前庭をぬけた琥珀は黃羽のそばで足をとめた。

「そうだ。個人的な頼みがあるのだがかまわないか?」

「なによ」

「これからも結となかよくしてやってくれ。あの娘はずっと人づきあいをさけてきたせいで、ごく当たりまえの他者との関わりかたすら、よくわかっていないのだ」

「たのまれなくたって勝手にするわよ、そんなの」

「そうか。では、よろしくたのむ」

 鷹揚おうように微笑んだ彼女は、黃羽の瞳をのぞきこむ。

「どうした、目があかいな」

「な、なんでもないわよ」

 あわてて顔をそらした黃羽に、やわらかな声がかけられた。

「黃羽、八時をすぎたらまた店にこい」

「どうしてよ」

「パンケーキをやいてやろう。ちょっとしたボーナスだ。対価は必要ない」

「え? ほんとに?」

「私はうそはつかんぞ?」

「……ありがと」

 突然の提案の主を見あげる。あけゆく空のしたにたたずむ彼女は、おだやかな表情とともに、なにごとにもゆるがぬ強さをたたえていた。言葉がうまれる。みちびかれるように。

「ねえ」

「なんだ?」

「化生をみない人間が、あたしたちをみられるようになることって、ないの?」

「それはお前の想い人のことか?」

「お、想い人って……、潤一郎は、そ、そんなのじゃないからっ!」

「なんだ。ちがうのか」

「ちち、ちがわないけどっ、――ちがうちがうっ、そうじゃないっていうかっ!」

「面倒だな、まあいい。質問にこたえてやろう」

 肩をすくめた琥珀は、まっすぐに黃羽を見つめた。

「結論をさきにいうと、その可能性はないにひとしい。修行や儀式などの宗教体験などを通じて身につけるものもいるが、きわめてまれな事例だ」

「それは、どうしてなの?」

「容易なことではないからだ、人にとって。お前たち化生にしてみれば、できないことの方がよっぽど不思議におもえるだろうがな」

「うん、ずっと不思議だった。どうして人は、こんな当たりまえのことができないの? 宇宙のこととかさ、余計なことは沢山しってるのに」

「人の感覚からすると化生の世界は、彼らの世界と重なりあっているが別の場所にあるようなものだ。世界を紙のようなものだとかんがえればわかりやすいだろう。かさなっていてもそれぞれ別の紙だ。片方から別の一枚を感じることはできない。人にとって世界は、自分達がいる一枚でとじているということになる」

「でも、ほんとはあるわけでしょ? あたしたちがいったりきたりできるんだから」

「そうだな。本来ならば人も行き来できる。だが彼らは科学という概念を打ちたてて以来、自身たちの定規におさまりきらないものを切りすててきた。そんな環境でうまれたものたちにとって、別の世界をかんじるということは、声の存在をしらずにそだったものが、発声をこころみるようなものだ」

「ずいぶん不便なのね、人って」

 まあ、そう云ってやるな。彼らにも特別なところはある、と苦笑した琥珀は、

「だが、世界を識る、ということについては、本来だれしも有している別の世界を感じる能力を、霊視だ、見鬼だなどとよんで畏怖し、忌むべきものとしてしまうほどに未熟なのはまちがいない」

「……じゃあやっぱり、潤一郎と話ができるようには、ならないんだ」

 みじかくため息をついた黃羽は、ついさきほどまでとは質のちがう声をきいた。

「確実な方法がある、ひとつだけな」

「ど、どうすればいいの?」

「その人間が化生になればいい」

「化生、に……?」

「簡単なことだ。化生同士であれば当然、言葉をかわすことができる」

 いつの間にか琥珀は、闇のなかからあらわれたときとおなじ気配をぞかせている。つよい存在感と言葉に圧倒されながら、どうにか声を絞りだした。

「でも、それは……」

「それは、なんだ?」

 答えに、つまる。つげられた言葉が、その意味が、胸のおくで渦をまく。

 自身を見おろすオパールのような瞳から目をそらすこともできず、黃羽はただ、立ちつくすことしかできなかった。


     ★☆★☆★


 まよこから照りつける陽射しに、黃羽は目をほそめた。

 人間たちが作りあげた町はあかくそまり、ながくのびた影になかばしずんでいる。夜との境界の訪れがちかい。身体の内側にみちつつある力を感じながら、翼をはためかせた。

 過去を思いだしたところで、潤一郎にとっていまの自分は、庭に巣をつくった一羽の鳥でしかない。分かっていたはずの事実の重さに耐えかねて、いちにち家をはなれていたが、それでもやはり、日がくれてかえる場所はあの家しかないとおもえた。

――簡単なことだ。化生同士であれば当然、言葉をかわすことができる。

 ぎくり、と身体をこわばらせる。琥珀の言葉はふとした拍子に耳元によみがえって、存在を主張した。薬指にできたささくれのように。

 たのしいことをかんがえようとする。今日も彼の手からご飯をたべてやってもいい。それよりも自分から近づいて鳴いてみるというのはどうだろう。一体どんな顔をするかと想像すると頬がゆるんだ。

 巣箱が設置されたかえでの枝におりる。食事はまだ用意されてなかった。ならば最初のプランを実行しようと潤一郎をさがす。

 餌台の屋根にとまって、掃き出し窓ごしに家のなかをながめると、潤一郎はソファでよこになっていた。また居眠りをしているのかと苦笑する。

 掃き出し窓につづくウッドデッキに飛びうつる。人の姿になって、ひらいたままの窓からリビングルームに入った。

 ふわり、とレースのカーテンが風にゆれた。宵闇がせまる室内は、ひどくしずかだ。

 あおむけになった彼にちかづく。鳥の声にしかきこえないのだろうが、おこした方がいいだろう。声をかけようと吸いこんだ息は、中途半端な位置でとまった。

 うすくらがりのなかにあっても、潤一郎はあきらかに顔色がわるかった。成人男性にしてはうすい胸板が、いそがしく上下している。

「潤、一郎……?」

 かすれた声がこぼれた。眉をひそめた彼がうすくまぶたをひらく。はかなげな笑顔がうかんだ。

「よかった……。玲菜、やっと迎えに、きてくれたんですね……」

 表情がぬけおち、ふたたび目がとじられる。

 状況が理解できるまでに、時間がかかった。ふらふらと歩みよる。

「ねえ……、潤一郎ってば」

 返事はない。自分の表情が引きつるのがわかった。次の瞬間、弾かれるように駆けだした。

 誰か人を呼ばなくてはならない。結か、それとも瑠璃琥珀堂の店主のどちらか、つめたい風にはためくカーテンを払いのけようとした手は、途中で動きをとめた。

――その人間が化生になればいい。

 不意によみがえった声に、身体をふるわせる。おそるおそる振りかえる。このままにしておけば、潤一郎は化生になるのだろうか。そうすれば、ふたたび話ができるようになるのだろうか、化生のながい時間を、ともにすごすことができるのだろうか。

 口のなかがかわいていく。彼のもとにむかう。吸いよせられるように。陽射しのとどかなくなったリビングルームに、あさい呼吸音がしみていく。

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