あちらとこちら

 しらじらとした光が、とざされた空間に無機質な光沢をそえていた。

 息をきらせて階段をのぼる。はしるわけにはいかないので、かぎりなく小ばしりにちかい早あるきで。いくたびも踊り場で折りかえす。

 壁にしるされた数字はふえていくが、景色は一向に代わりばえしない。どこまでもおなじ光景がつづいているような気がした。なにかから追いかけられる悪夢のなかのように。

 七階の表示で足をとめた。おもわず膝に手をつく。

 身体が悲鳴をあげていた。部活で散々身体をうごかしたあとに全速力で自転車をこいで、ここまで階段を駆けのぼったのだ。いくら普段から運動しているとはいえ、さすがに限界がちかい。だがいまの彼女に、ただじっとしているしかできないエレベーターをえらぶことなど、できるはずもなかった。

 息をととのえる時間すらおしくて、あれた呼吸を無理やりおさえつける。おおきく息をすってからナースステーションを目ざした。

 指示されたとおりに面会者の名簿に名前をかいて、おしえられた病室へむかう。

 夕飯の時間らしく、まっすぐな廊下には大勢の人の生活が混じりあった匂いにくわえて、食事の香りとなごやかな空気がみちていた。病棟という言葉の印象や、いまの自分の気持ちとのちがいにおどろきながら、他人の部屋に踏みこんでしまったような居心地の悪さと、入院患者たちからむけられる視線からにげるように足をすすめる。

 病室の扉がみえたとき、ただひとつのことだけで占められていた頭が、いきなり活動をはじめた。

 なかは一体どうなっているのだろうか、なんと声をかければいいのだろうか。それ以前に、なにかもってくるべきだったのではないだろうか。疑問は数かぎりなくうかんできた。病院へ見舞いにくるなど初めてのことなのだ。

 覚悟をきめる。助走開始位置にたつときのように。深呼吸をして表情を引きしめた。扉をノックする。彼の声が応じた。はなす元気があるのだ、と安堵あんどしながらも、平常心をたもってドアにひらいた。つよく踏みきる。部屋のなかに入った。

 清潔で、ゆったりとした部屋だ。おくに宵闇をたたえた窓があり、そのまえにはテレビのおかれたキャビネットと、しろいシーツのかけられたベッドがおかれている。

 ベッドには、身体をおこした彼の姿があった。きらびやかな七色の光をはなちながらジグザグ飛行をするなぞの物体をみたような表情が、次第にこまったような微笑みにかわっていく。

 なにかいわなければ、そうおもって息をすったはずなのに、でたのは涙だった。こんなところで泣いては彼に迷惑がかかる、わかっているのにあついしずくはとめどなくあふれつづける。つよく目をとじた。水門を閉ざすように。まぶた一枚分の暗闇に、彼の声が差しこまれる。

「ごめんなさい玲菜。心配させてしまいましたね。僕なら、大丈夫ですから」

 その途端に、はげしく心がふるえた。喜びと悲しみ、安堵と不安、さまざまな感情がいまぜになって、身体のなかで荒れくるう。

 口をひらいたら大声をあげて泣いてしまいそうで、必死にこらえた。奥歯をみしめる。こぼれる息があつい。


 瞳をひらくと、たまった涙で景色がぼやけていた。

 目のまえにひろがるのは、うっすらと闇がみたされた木の部屋だ。潤一郎の見舞いにきていたはずなのにと混乱する。

 ふんわりと敷きつめた枯れ草から、かわいた香りが立ちのぼった。足元を見まわした視線を持ちあげて、天井にちかい位置にある出入り口からそとの景色をながめるうちに、理解が追いついてくる。

 自分は黃羽という黄鶺鴒の化生で、ここは昨日、潤一郎が作ってくれた家のなかだ。時間をかけて事実を咀嚼そしゃくしたあとで、みじかくため息をもらした。

 結から指輪を受けとって以来、玲菜だったころのことをよく夢にみるようになった。とおい記憶の再現はあまりに鮮明で、目がさめたときに現在との境界が曖昧になる。

 もうすこし、やさしい記憶の余韻をあじわっていたいが、人より遥かに正確な身体のなかの時計が、夜明けがちかいことをしらせていた。支払いに向かわなければならない。つよく頭をふって、思い出の残滓ざんしと涙を追いはらった。

 巣箱の入り口にとまって、そとをながめる。世界にはまだ、ふかぶかと闇がたたえられていた。

 首をかしげる。リビングルームに明かりがともっていた。彼がおきだす時間はまださきのはずだ。部屋のなかをたしかめる。

 ソファに寝そべる人影があり、それが潤一郎だと気づいたとき、心臓がおおきく跳ねた。

 夢の内容が頭をよぎり、あわててデッキにおりた。人の姿になり、掃き出し窓に手をかける。祈るような気持ちで力をこめると、鍵はかかっておらず、音もなくひらいた。

 室内に入る。彼が寝返りをうった。息をひそめて様子をうかがう。おだやかな寝息がきこえてきて、その場にへたりこんだ。

 安堵の吐息をもらした直後、感情はそのまま怒りに反転した。呑気のんきな寝顔をにらみつけたとき、ローテーブルにおかれた写真立てに気づいた。

 足音をしのばせて近づき、そっと手にとる。いまよりすこしわかい潤一郎と、勝気な笑みをうかべたかつての自分がうつっていた。

 随分と自分は、とおいところにきてしまったのだ。息がつまった。懐かしさと切なさ、やるせなさや寂しさが混ざりあって。

 潤一郎の頬にのばした手は、彼女の姿をしらない彼の身体を突きぬけた。身体が震えだす。あつい雫がこぼれた。

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