とどかない声

 空をかける。さわやかな日差しをうける灰色のいらかの波を見おろしながら。翼がとらえる風はあきらかに密度をましていて、すぐそばにせまった夏の息遣いを感じさせた。

 縄張りのあさの見回りをおえて巣にもどる黃羽は、かすかな空腹をおぼえた。朝をつげるなどという鶏にまかせておけばいい余計な仕事があるからだ、と若干いらだちながらも、得体のしれない店主たちがいる瑠璃琥珀堂はとにかく、終わりが近づく結への支払いについては名残おしさもあった。

 用意されているであろう食事のことに頭を切りかえて高度をおとす。数度の羽ばたきで勢いをころして見なれたかえでの枝にとまると、のこぎりの音にきづいた。

 楓のそばにたてられた餌台の、よっつの三角形でできた方形ほうぎょう屋根におりて、音の出もとをながめる。チェロとちがって音程やリズムが安定しないふなれな演奏だが、作業台にむかう表情はおなじ真剣さをたたえていて、どちらもわるくないとおもえた。

 切断された木片が地面におちて、からん、と鳴る。みじかく吐息をもらした潤一郎と目があった。わけもなく落ちつかなくなって視線をそらすと、おかえりなさい、とおだやかな声がきこえた。つい身がまえてしまう。一体どんな台詞が飛びだすのかと。

「今日は君の家をつくってみようとおもいます」と彼は板をひろって、

「これは正面の壁で、この穴が玄関です。屋根は餌台とおなじにして、おそろいのデザインにしようとおもっているのですがいかがでしょうか」

 普通の言葉がでてきたことに安堵あんどすると同時に、潤一郎が話しかけてくるようになって以来、完全に主導権をにぎられていたことに気づいた。いたずら心にあわい期待をこさじ一杯ほどくわえて返事をしてみる。

「ねえ潤一郎。あたしすきだよ、このデザイン」

 彼がわずかに目を見ひらいた。返事をまつ。あわい期待のあまみをあじわいながら。

「おかしなものですね。なぜだか君が、僕の言葉にこたえてくれたようにおもえてしまいました」

「……その通り、なんだけどさ」

 人間に化生の言葉はとどかない。わかっていたけれど、期待した分だけ苦味もました気がした。

「そうだ、おなかはすいていませんか? 今日の朝食はとっておきなんです。いま用意しますね」

 家のなかに入った潤一郎は、食パンを半切れもって戻ってきた。近づいてきたので一応にげる。こまかくちぎってならべた彼がはなれるのをまって、ふたたび餌台におりた。

 ひとくちついばんでみる。目がつまった生地はもっちりしていて、耳からは小麦の風味がゆたかにかおる。昨日までの食事とはまったくの別物だった。

「どうですか? 君に話しかけてみるといいと教えてくれた生徒がいるのですが、その子の家が評判のパン屋さんなんです。お礼をかねて買ってきてみました」

「パン屋って、もしかして結の家? 結が潤一郎に入れ知恵したの?」

「おいしいですか? バケットが一番人気らしいので、今度はそっちにしてみましょうか。こまかくすればきっと君もたべられますよね」

「……ばか潤一郎。ほかの女の子に『僕のそばにきてください』なんていってたら、目玉をつっついてやるんだから」

 おどし文句も当然つたわらない。にこにこと微笑む顔に毒気を抜かれて食事を再開すると、彼が近づいてくる気配があった。

「また食べてくれるとうれしいのですが、どうでしょう」

 手のひらにパンをのせた潤一郎から、期待をこめた目でじっと見つめられる。はずかしいから嫌だという却下論と、わるい気分はしないという承認論が、真正面からぶつかりあって、はげしくせめぎあいはじめた。

 両陣営が一歩もゆずらぬ拮抗きっこう状態におちいったため、依頼人の様子をうかがう。悪意などかけらもない笑みがあった。彼の意思を尊重して、あくまでもしぶしぶながら了承するということで決着をつける。潤一郎の手からたべるパンは、すこしだけおいしい気がした。

 ふと気づく。潤一郎の手がすぐそばにせまっていた。警戒をこめた目で見あげる。

「なにもしませんよ、君にふれてみたいだけです。君がとても、綺麗ですから」

 文字通りの不意打ちにせかけた。思考が停止したまま、近づいてくる左手をながめる。耳のおくでひびく心臓の鼓動がはやく、おおきくなっていく。背中に、彼がふれた。ピアニストのような繊細な見た目とは裏腹に、チェロの弦を押さえつづけてかたくなった指先につづいて、やわらかな感触がつたわってくる。やさしく背中をなでるそれは、とても心地よく、なつかしい感覚だった。力をぬいて身をまかせる。とじたまぶたのおくが、じんわりとあつい。

「ありがとう。こんな風にすこしずつ君と仲よくなれるとうれしいです」

 あたたかな風のなかをただような気分で、潤一郎の声をきいた。

「はやく君にパートナーができるといいですね」

 不意に、こごえるほどつめたい北風が吹きぬける。瞳をひらくと彼はさきほどとおなじ表情をしていた。けれども、その笑顔がひどくとおく感じる。

「……あたし、そんなのほしくない。潤一郎といられたら、それでいい」

「パートナーができたら、大切にしてあげてください。僕のようになってしまわないように」

「ちがうよ。ちがうってば、潤一郎。あたしはここにいるよ」

 どれほど言葉をつくしてみても、潤一郎はおだやかな笑顔をうかべたまま、黃羽を突きぬけて、はるか彼方をみつめている。

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