黄鶺鴒のいる風景

 殷々いんいんとひびくパイプオルガンが紡ぎだす調べは、どこかとらえどころがなく、際限なく伸びつづけて世界を陰鬱な響きでおおっていくような気がした。

 四百年まえにつくられた曲と作者の紹介をながめていた結は、気配を感じて顔をあげる。オレンジ色の線で五線譜がえがかれた黒板を背にした潤一郎と目があった。あきらかに普段より視線が交差する回数がおおい。おだやかに微笑んだ教師の表情のおくから、鑑賞中の楽曲にときおりふくまれる不協和音に似た響きを感じて、心にさざ波がたった。

 感想をしるしたノートの回収がおわったころにチャイムがなり、潤一郎が授業の終わりをつげた。挨拶をおえて生徒たちが音楽室をでていく。夏帆とともに扉にむかいかけていた結は、教卓からかけられた声を、なかば予感をもって受けいれていた。

「綾里さん、すこしお時間をいただいてもいいでしょうか?」

「……は、はい。なんですか?」

「音楽準備室でもかまいませんか?」

 といった潤一郎は夏帆をみて、

「すみません水上さん。綾里さんをすこしお借りします」

「わかりました。結、またあとでね」

 微笑んだ夏帆はちいさく手をふって音楽室をあとにした。

 結は潤一郎につづいて音楽準備室に入る。

 窓のむこうでは、鈍色の空のしたで背のひくい町並みが雨にけぶっていた。人がいないせいか、音楽室よりやや肌ざむく、空気がかたく感じられる。

 すすめられた椅子にこしかけると、潤一郎も向かいあわせにすわった。膝のうえに腕をおいた彼は、やや前かがみの姿勢で手をくむと、余命宣告をする医師のような表情をうかべる。結も自然と手に力がこもった。

「急に呼びとめてしまってごめんなさい。こういうことをお話しすべきか悩んだのですが……、やはりお伝えしておきたいとおもいました」

「あ、あの……、もしかして先生のおうちの、……鳥のお話、ですか?」

「ええ。あの黄鶺鴒のことです」

 あたってほしくなかった予感との符合に、ひたり、とつめたいものを突きつけられた気分になった。実は、と思いつめた表情で身をのりだした潤一郎が、慎重に言葉をえらぶ。結は固唾をのんでそのときをまった。

「――今朝、僕の手から餌をたべたんです」

「へ?」

 途端に潤一郎が破顔した。はじめてみせる表情と予想外の発言に呆気あっけにとられる。

「急に成功したんです。いままで何度ためしても、すぐに逃げられていたのに」

「あ、……そ、そう、なんですね」

「今日も駄目かなとおもったんですけど、餌台にきているところに、手のひらにパンの耳をのせて近づいてみたら、全然にげないんです。それでこんな風に手をのばしてみたら、僕をじっとみたあとに、ちょん、と」

 実演つきの説明である。気がぬけてしまい、おもわずこぼれた安堵の吐息に、潤一郎が決まりのわるそうな顔になる。

「す、すみません、はしゃいでしまって。ずっと誰かに聞いてほしくて仕方なかったものですから、つい……」

「いいえ。……よかったです。わるいお話じゃなくって」

「余計な心配までおかけしてしまいましたね、ごめんなさい。不思議なものです。あの鳥がいるだけで、家のなかまであかるい気がします」

 あの、と言葉がでていた。かんがえるより早く。

「なんでしょう」

「話しかけると、いいそうです。……ほ、本で、よんだんですけど」

「鳥にですか?」

「は、はい。もっと仲良く、なれるって……」

「なるほど。それは有益な情報ですね、ありがとうございます」

 真剣にうなずく表情をみながら、結は潤一郎と黃羽がかたらう場面を想像してみる。それはとてもきよらかで、うつくしい景色だとおもえた。


     ★☆★☆★


 ちぃちぃちぃちぃと四度、ときおり三度。彼方へと呼びかけるような声だ。

 彼女の願いを映しとったような調べをききながら、結はうすあかりのなかでまぶたをひらいた。あわい水色のカーテンに、すずめよりひとまわりおおきい鳥の影がうつっている。桟を丁寧にノックするように、のびた尾羽をうごかす仕草に笑みがもれた。おおきく伸びをしておきだす。

「おはようございます」

 相手をおどろかさぬよう、声をかけてからカーテンをひらいた。窓の水切にとまっていた小鳥は、結を見つめてくちばしをうごかす。

「おはよ、結」

 そっと窓をひらくと、やわらかな風がおとずれた。背のひくい町並みをかこむ緑の稜線りょうせんのむこうから、東雲色に始まって瑠璃紺へむかうあざやかなグラデーションがひろがっている。

 視線をもどすと、窓枠に腰かけるおさない少女の姿があった。ならんで移ろいゆく色彩をながめる。

「雨、あがりましたね」

「うん。二、三日はいい天気になるとおもう。そろそろ雨にも止んでもらわないとね、今日から菖蒲華あやめはなさくだし」

「菖蒲華、ってなんですか?」

七十二候しちじゅうにこうのひとつなんだけど。……えっとね、夏至ってわかる?」

「一年で一番昼がながい日でしたっけ」

「正解。夏至とか冬至、春分や秋分って一年を二十四にわけて季節をあらわす二十四節気にじゅうしせっきのひとつなの。で、その節気をさらにみっつにわけたのが七十二候ってわけ。今は夏至の二番目、次候の菖蒲華ね」

「くわしいんですね……」

「あたしたち鳥は渡りの時期なんかがあるから、季節は気にしておかないと」

「黃羽さんもわたるんですか?」

「んー、仲間たちは夏になったら山にもどるけど、あたしはいっかな。あたしのうち、あそこだし」

 むけられた笑顔と朝の光のまぶしさに結は目をほそめた。

「黃羽さんがおこしてくれると、すっきり目がさめる気がします」

「そうじゃないとこまるわね、朝をつげてるんだもの」

「やっぱりなにか特別なんですか?」

「もう夜はおしまい、いまから朝って境界をはっきりさせるのって大切なことよ。鶏の鳴き声で魔物がにげていくってよくきく話でしょ? あれって実はどっちも命拾いしてるの。影は陽の光に照らされたら、なくなっちゃうから。だから、ちゃんとした方がいいの、昼のもののためにも、夜のもののためにも」

 ふたりがはなしているあいだにも、着実に闇は払われ、光の領域がひろがっていく。

「なんかね、最近よく潤一郎が話しかけてくるの」

「……そ、そうなんですね」

「うん。君はとてもうつくしいですね、とか、もっと君の声をきかせてくれますか、とか、僕のそばにきてください、君の瞳をみていたいですから、とか」

「う、わあ……」

「潤一郎って、あんなキャラだっけ。っていうかどこであんな歯がうくような台詞おぼえたんだろ」

「……ど、どうしちゃったんでしょうね、峯岸先生」

「ま、いいんだけどさ。やな気分ってわけじゃないし」

 視線をそらした黃羽は頬をあかく染めてつぶやくと、みじかい吐息をもらした。

「あーあ、あたしの声も潤一郎にとどけばいいのにな」

 化生のものをみることや言葉をかわすこと。自分にとっては普通になりつつあるそれらは、決して大多数の普通ではないことを思いだした。言葉につまった結を見あげた黃羽は、笑みをうかべる。

「ま、こればっかりはどうしようもないものね」

 そういえばさ、と彼女はあかるくつづけた。

「潤一郎、昨日また木材をかってきたの。今度はなにをつくるのかしら」

「たのしみですね」

「うん。たのしみ」

 微笑みかわす。ふたたびふいた風は、あたらしい季節の気配をふくんでいた。

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