とおい記憶
水たまりにうつるくすんだ風景が、無数の波紋にゆられている。
足元をみながらあるいていた結は、近づいてくる水をはじく音に気づいて顔をあげた。立ちどまって速度をおとした車が通りすぎるのをまつ。
高校の制服のうえから帆布のエプロンをつけた結の、肩にかけたトートバッグの
ふたたび歩きだしたほそい道路のむこうには、山の
やがて結は、一軒の家のまえで足をとめた。まあたらしい塀のうえにひろがる枝葉を見あげる。はばひろな葉の先端にあつまり、ふくらんでおちる透明な滴は、あの日、おさない少女がみせた涙をおもわせた。
トートバッグをかけた方とは反対の肩にのった眞白と頬をあわせた結は、おおきくうなずいてから息をすった。
「こ、こんにちは、瑠璃琥珀堂です。お届け物を、おもちしました」
声を合図に、トートバッグの紐につけられた鈴がすんだ音をたてる。雨のなかにあっても鮮明な輪郭をもってひびいたすずやかな音色は、雨音がつよまったような、空気の密度がましたような感覚とともに、日常からわずかにずれた場所へと彼女をみちびいた。
こっち、と不安そうな声が応じた。意識してあかるい表情をつくり、ひらいたままの門をくぐる。玄関わきからつづく庭に、黃羽の姿はあった。
降りしきる雨のなか、新緑をたたえた
煉瓦の敷石をふんで彼女のそばにいった結は、トートバッグのなかから、瑠璃琥珀堂の名がしるされたクラフト紙の小袋を取りだした。
「黃羽さん。お届けものです」
「うん。ありがと」
手のひらにのるほどちいさな袋を受けとった黃羽は、慎重にそれをひらき、そっと指を差しいれた。白銀の輝きが姿をみせる。
「……指輪?」
「はい。これで多分……、まちがいないと、おもうんですけど……」
「でもあたしこんなの――」
ふ、と黃羽の心に、ひとつの映像がうかんだ。毛足のながい布地がはられたトレイのうえに、まばゆく光るものが無数におかれている。
「――これ、しってる。もうひとつの指輪と組になってるの。でもたくさん種類があったから……どれも
そこは、透明なケースのなかに無数の輝きをたたえた、きらびやかな空間だ。落ちついた雰囲気なのだが、日常からかけ離れているせいか思考がまとまらない。それなのに指輪は、つぎからつぎへとならべられていく。困りはてて隣をみると、いつもとおなじ笑顔があった。おだやかな声がひびく。
――ゆっくりなやめばいいとおもいます。これからずっと身につけるものなんですから。
「うそ、この声って……でも、そんなはず……」
「きっと、そうなんだとおもいます」
かがんだ結は指輪の内側をさした。ちいさなあおい石の両脇に、文字が刻まれている。
「JとL。これ、結婚指輪です。たぶん峯岸潤一郎先生と玲菜さんの」
「……結婚、指輪?」
「結婚した人たちがするものなんですけど、この指輪、玲菜さんの、……いいえ、黃羽さんのものじゃないでしょうか」
「あたし、の……?」
今日とおなじような雨の日だ。風にまう黄色い傘とそれをおいかけた子供のちいさな背中、耳ざわりなクラクションがきこえた瞬間、かんがえるより早く体がうごいていた。気づくと世界が横だおしになっていた。全身をはげしい痛みにつらぬかれながら、かすむ視界のなかでかんがえた。腕のなかの子供は無事かどうかということと、いとしい人のことを。
「あたしあのとき、潤一郎に……、あやまんなきゃって、そう、おもって……」
ふらついたところを、結に抱きとめられる。とめどなく湧きだす記憶と思いに、なすすべもなく翻弄される。
偶然をよそおって初めて声をかけたときの、宇宙人にでも遭遇したような顔や、チェロを演奏するときのひたむきな表情が、練習をみにきた人のなかに彼を見つけたときの緊張や、自分のためにかなでられた楽曲のうるわしい調べが、すぎた日々がめまぐるしくすべての感覚を刺激しながら、走りすぎていく。あたたかな温もりに身をまかせてつよく
立ちくらみがおさまるときのように、世界がもどってくる。ゆっくりと目をひらいた。見なれた顔がそばにある。あまりに正直な心配そうな表情に、つい笑みがもれた。
「大丈夫だよ、結」
「この木ね、潤一郎がえらんだの。あたしがメープルシロップ、すきだったから」
「メープルシロップですか?」
「うん。メープルシロップってね、砂糖楓の樹液でつくるんだって。潤一郎、結構本気だったから」
「いいですね。メープルシロップのとれるおうち」
微笑みかわす。たわいない秘密を交換するちいさな子供のように。
「ほんとはね、玲菜っていう人のことをきいたとき、あたしすごくいやだった。でも……、なんか、ばかみたい。……あたし、自分にやきもち焼いてたんだね」
思いが、あふれた。あたたかに頬をつたう感触とともに。
「ありがと、結。この指輪をみつけてもらえて、ほんとによかった……。あたし、やっとかえってこられたよ。ここがあたしの……、ううん、潤一郎とあたしのうち」
しろい壁の家をみつめる。雨のなかにたたずむ姿はたのもしく、これからつづいていく暮らしをまもってくれる気がした。
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