契約
雨のなかにたたずむ瑠璃琥珀堂は、普段よりおおきく、存在感をましているようにかんじた。歌声がみちる聖堂のように。
いつの間にか手をつないでいることに気づかないまま、結はかたい表情の黃羽と
いくつかのテーブル席や飾り棚のおくにあるカウンターには、いつものように二人の女性の姿がある。洋装の瑠璃がはなやかな微笑みをうかべた。
「いらっしゃい。そろそろくるころかなっておもってたわ」
「なんだ。また随分と
和装の琥珀の
「まあ、とりあえずだ。お前、ぬれたまま店内をうろつくな」
「あ、あたしはお前じゃないわ。黃羽よ」
黃羽がすばやく結のうしろにかくれ、琥珀は目をほそめる。
「なんだ。随分と警戒されたものだな」
「べ、別にこわくなんかないもん」
「……瑠璃、まかせていいか?」
もちろん、と応じた瑠璃は、カウンターからでてくるとかがんで黃羽と目をあわせた。
「ねえ黃羽ちゃん、いくら化生でもそのままだと風邪をひいてしまうわ。こっちへいらっしゃい」
結は、差しのべられた手と自分を見くらべる黃羽に頷きかける。
「大丈夫です。こわくありませんから、瑠璃さんも、琥珀さんも」
「……結が、そういうんなら」
瑠璃に手をひかれてカウンターのわきにむかった黃羽は、ドアのまえで振りかえった。結は笑顔で手をふる。不安なとき、自分がしてもらえたらとおもう表情を思いうかべて。
黃羽の姿がみえなくなると、琥珀がため息をついた。
「やれやれ、面倒な小娘だな」
「ご、ごめんなさい」
「結があやまることではないだろう」
「でも……。あの、黃羽さんはわるい子じゃないんです」
「そうか。では、わるいがすこし手伝ってくれるか? 子どもを相手にするなら、胃袋をつかむのが一番手っ取り早い」
琥珀はうすく笑みをうかべると、カウンターにボウルをおき、小麦粉や卵、牛乳を並べはじめた。
硬質でかすれたような、瑠璃琥珀堂には
音の出元を手にした瑠璃は、生みだされる熱風を、目のまえにすわったちいさな背中の髪にあてていた。地肌に指をとおして風をおくる。ほそくすなおな髪が水分をはなしていくのとおなじように、黃羽から強張りがぬけつつあるのがわかった。
鏡ごしに目があう。わずかに肩をふるわせたおさない少女に微笑みかけた。
「お風呂はどうだった?」
「……なんか、あったかかった」
「いいものでしょう? 人間とおなじことをしてみるのも」
「よく、わかんないよ……」
むくれた子どものように、黃羽は目をそらした。
和洋折衷で、
髪の根元がかわいたところで、部分ごとにわけてとめ、ドライヤーとブラシで流れをととのえる。
ねえ、と戸惑い気味の声がした。
「あんたも、つかわしめをつれてるの?」
「ええ。とてもいい子よ」
「そんなたかい
「こんなことって?」
「この店。まよったものをみちびく、だっけ。それも結までつかって。なんの得にもならないでしょ、あんたたちには。それに……あたしの髪をかわかしたり」
「あら、とても有益よ? かわいい子の相手をするのは」
「……あたしがいってるのは、そういうことじゃなくって」
「かなしくなるのよ、もつれたままの糸をみているとね。あたしも、琥珀も」
もつれたまま? と鏡のなかの黃羽は、おそわったばかりのおまじないを聞きかえすようにいった。
結は、真剣そのものであった。
瑠璃琥珀堂のエプロンをつけた彼女の視線のさきにはフライパンがあり、その中央でやや黄色味がかったしろい生地が、ふつ、ふつ、と泡をはじけさせている。
「そろそろ頃合いだ」
「は、はい……」
琥珀の声にうなずいた結は、生地のしたにフライ返しを差しいれ、引っくりかえす。くずれることなく焼けた面がうえになり、
「上出来だ」
「パンケーキってこうやってつくるんですね。施設にあったパンケーキをやくお話の絵本のままです」
彼女は琥珀の方をみると、すぐにフライパンへと向きなおる。砂場で力作をつくる子どものような真剣さで。
琥珀におそわりながら量をはかり、粉をふるい、混ぜあわせて生地から作りはじめたパンケーキは、おおきな山場をこえたところだ。あまく、やさしい香りが店内にひろがっていく。
カウンターのわきにあるドアがひらいた。さきに店に入ってきた瑠璃が振りかえって手招きする。
「どうしたの? こっちよ」
「……で、でも」
「大丈夫よ、いらっしゃい」
「うぅ……」
扉で体をかくしながら顔だけみせた黃羽は、結や琥珀と目があうと、にがいものをたべたような表情になって影からでてきた。
彼女の服は、さきほどまでと変わっていた。フリルとレースでいろどられたハイウエストのくろいジャンパースカートとフレアスリーブのブラウスという組みあわせで、首元のおおきなリボンのあざやかな黄色が目をひく。
「し、仕方ないじゃない。だってあたしの着物ぬれちゃって、ぬれたままは駄目だっていわれたけど、着替えなんてないし、そ、それで……瑠璃が貸してくれるっていうから……」
頬を上気させてぼそぼそとしゃべる黃羽をみて、結が笑顔になった。
「かわいいです、とっても」
「ほんと?」
「はい」
「と、当然でしょ。素材がいいんだから。……でも、ありがと。瑠璃も、結も」
あかるい表情になりかけた彼女が、思いだしたようにしぶい顔をなってつげた言葉で、またすこし店の空気がやわらかくなった。
瑠璃にうながされて黃羽がカウンターのスツールにすわると、結はそのとなりにいってトレイから皿をおいた。
「これ、なあに?」
「えっと、お店からのサービスです。琥珀さんがつくってくれました。わたしもやいたんです。……うえの一枚だけですけど」
「あ、ありがと」
黃羽が視線をおとした皿のうえには、ややこぶりなパンケーキが三枚かさなり、ふんわりと焼きあがったきつね色の肌から、やわらかな湯気をあげている。
「いい匂い……」
胸一杯に息を吸いこんだ彼女のそばに、琥珀がカウンターから手をのばした。皿のわきにおかれたちいさな容器をながめてから、まだ恐れをのこした目で琥珀をみあげる。
「これは、なに?」
「メープルシロップという。黃羽にとって、とても大切なものだ」
「みたことないけど、こんなの」
「まずはたべてみればいい。ちなみにパンケーキをたべるという行為のクライマックスは、これをかけるときにこそある。異論はみとめん。さあ、やってみろ」
「う、うん……」
ぽってりとしたちいさなミルクピッチャーを手にした黃羽は、パンケーキのうえでおそるおそるかたむける。粘度のある液体が、ひとすじの道となってつたった。彼女の目のまえにたつ人物のおなじ名前の色をしたシロップは、つややかで
銀のナイフとフォークを手にとって慎重にきりわけ、真面目な顔でひとくちたべた瞬間、彼女は笑顔をさかせた。
「あまぁい」
かるい食感の生地がほどけてメープルシロップのひかえめな甘みと混ざりあい、ゆたかな風味となってかおる。もうひときれ口に運んだ。
いつの間にか夢中になっていた。そして不意にきづく。メープルシロップの味をしっていることに。
「あれ? あたし、この味……、しってる気がする……」
その途端に、心のおくからあついものがあふれた。結があわてて差しだしたハンカチを、首をふってことわる。なきながらパンケーキをたべた。涙とシロップが混ざりあう。飲みこもうとする喉に、嗚咽がひっかかる。それでもフォークを伸ばしつづけた。やめたくなかった。どうしても全部たべたかった。懸命にあじわえば、この涙がどこからきているのか、わかるような気がした。
「ねえ……、本当にあたしがどこにいきたかったか、おしえてくれるの……?」
くぐもった声でたずねる黃羽のまえにおかれた皿は、からになっていた。
「おしえるわけではないが、みちびくことができる。黃羽がそうのぞむのであれば」
「あたし、しりたい……。あたしがどこにいきたかったか、なにをしたかったのか」
「よかろう。だが話をきくまえにいっておくことがある」
カウンターからくろいノートを取りだした琥珀に、瑠璃がならんだ。
「対価が必要なの。瑠璃琥珀堂はまよったあなたをみちびく。あなたはそれとおなじだけの価値があるものを、瑠璃琥珀堂にしはらう必要があるわ」
「おなじだけ?」
「そう。何事においても、あたえすぎも、もらいすぎもよくない。どちらかにかたよれば、その偏りは、魂にしるされることになるから」
「でもあたし、……なにも持ってない」
そうねえ、と唇に人差し指をあてた瑠璃はみっつほど呼吸する時間ののちに、
「黃羽ちゃんは
「うん」
「じゃあこういうのはどうかしら。黃羽ちゃんにはこれから一年、瑠璃琥珀堂に朝をつげてもらいます」
「朝を?」
「ええ。琥珀、それでどうかしら」
「いいんじゃないか? 鶺鴒が朝をつげるというのもなかなかにおもしろい。だがな……」
琥珀はほそめた目を黃羽にむけた。彼女はスツールのうえで首をすくめる。
「……な、なによ」
「結からもらいすぎているぞ、黃羽」
「え? そ、そうなの?」
「わるいことはいわん。きちんと清算しておくことだな」
結はあわてて両手をふった。
「わ、わたしはいいです、お返しなんて」
「結はよくとも黃羽はよくない。受けとってやれ、黃羽のために」
「……わ、わかりました」
うなずいた琥珀はくろいノートをひらき、万年筆をはしらせる。
「では黃羽、契約内容の確認だ。瑠璃琥珀堂は黃羽をあるべき場所へみちびく。その対価として黃羽は瑠璃琥珀堂に一年間、朝をつげる。お前の認識と相違ないか?」
「あってるわ」
「それからもう一件、結のこれまでの行いへの対価として、黃羽は結に一週間、朝をつげること」
契約成立だ、と瑠璃がノートをとじる。真剣な表情でうなずく黃羽に、カウンターのなかから二人の女性が微笑みかけた。
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