迷子
瑠璃琥珀堂のアルバイトをおえた結は、バスに乗った。
窓ガラスをななめに
にこやかに結をおくってから数日後、ふらりとあらわれた黃羽はおだやかな笑顔をみせて、潤一郎に聞きたいことはもうないから、とこれまでの礼をいった。それ依頼、彼女は姿をみせていない。
黃羽とあってからの日々をおもった。たのしみにしていた弁当を台無しにされたことや、傍若無人な行動に振りまわされたことを。気がつよく、自分勝手な言い分をまげない彼女は、間違いなく苦手な部類だった。これまでの結であれば、ようやく解放されたと
ぎりぎりまでまったが誰もおりる気配がないので、周囲の目を気にしながら仕方なく降車ボタンをおした。運賃箱にいれた料金と整理券が、じゃらり、と音をたててながれていく。バスをおりて水色の傘をひろげると、ひんやりとした空気がまとわりついた。
頭上ではじける雨粒の感触を手にかんじながらあるく。角をまがったところでチェロの音が聞こえはじめた。メロディーがはっきりするにつれておそくなった歩みは、めざす家の塀のまえにたたずむ人影をみた途端に速まった。
駆け足の気配にきづいたずぶむれの黃羽を、傘のなかに囲いこむ。平静をよそおうとして失敗した彼女は、笑顔の残骸を貼りはりつけたまま、つぶやいた。
「ちがうってば、なんか今日はあつくって……、それで、雨が気持ちよさそうだった、……から」
「風邪、ひいちゃいます」
「平気だよ、このくらい。……だって、あついんだから」
家のなかから漏れだしてくるチェロの調べは、『鳥の歌』にかわる。ぎくり、と身をこわばらせた黃羽がふるえだす。結は、いつかの瑠璃を思いだしながら、おそるおそる、彼女の背中に手をまわした。されるがままに抱きよせられたつめたい体は、次第に熱をおびていく。ほそい、ほそい泣き声がつむがれていく。
「あたし、山のなかの渓谷でうまれたんだ。きれいな川がながれてて、みずがせせらぐ音がして、緑がこくて、すごくいいところ」
くぐもった声がそうつげるころには、雨は小降りになっていた。
「でも、ずっとね、どこかいかなきゃいけないところがあるような気がしてた。だからあたし、それをさがすためにこの町にきたんだ」
「そうだったんですか」
「うん。だけどなんとなくで出てきちゃったから、どこにいきたいかなんて分かんなくって。ちがう、ここじゃないって、なんにちもなんにちもさまよって……。まあ当然だよね、いまかんがえてもばかみたい。
しんどいし、おなかはすくし。ああ、もうつかれたな。かえろうかなっておもったときに、きこえたんだ、潤一郎のチェロ。なんかいい音だなっておもってたら、居心地のよさそうな木もあるし、もしかしたらこういうところにきたかったのかもって、そうおもった。音楽のことなんてわかんないけど、でもあたし、あの音とあの木が、すごく、すごくすきなの」
ふと結は気づく。なじみになった感覚が、胸のおくにきざしていた。
「でも、どこかとおくをみてる潤一郎のそばにいるのはつらい。だけど、あの家をはなれるのは、きっともっとつらいよ。……ねえ、あたし、どうすればいいのかな」
言葉をつむぐ。みちびかれるように。
「黃羽さんは迷子なんですね」
「……あたし、自分がどこにいるかくらいわかってるけど」
「本当の迷子は、そういうんじゃないんです。どこにいきたいかも、なにがしたかったのかも、みんなわからなくなっちゃうんです」
「迷子の専門家ね、結は」
くすり、とちいさな笑い声がした。
おおきくふくらんだおもいを、言葉にのせる。しずんだ声に、やわらかな響きを取りもどすために。
「だってわたししってますから、あるべきものをあるべきところにとどけてくれるお店」
解きはなたれた言葉は、世界へとひろがっていく。黃羽は歩きつかれた子どものような表情で、結をみあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます