迷子

 瑠璃琥珀堂のアルバイトをおえた結は、バスに乗った。

 窓ガラスをななめにしずくがつたっていく。青空が顔をみせることがおおくなり、そろそろおわるかとおもわれた雨の季節は、週末になって不意に勢いを取りもどした。質量をかんじさせるほどしっとりとした空気がみちた車内で、あざやかな黄色の友禅の帯をしめたおさない少女のことをかんがえる。

 にこやかに結をおくってから数日後、ふらりとあらわれた黃羽はおだやかな笑顔をみせて、潤一郎に聞きたいことはもうないから、とこれまでの礼をいった。それ依頼、彼女は姿をみせていない。

 黃羽とあってからの日々をおもった。たのしみにしていた弁当を台無しにされたことや、傍若無人な行動に振りまわされたことを。気がつよく、自分勝手な言い分をまげない彼女は、間違いなく苦手な部類だった。これまでの結であれば、ようやく解放されたと安堵あんどしているはずであった。けれどもなぜか、なにをしたいのかさえわからないのに、バスにのり、黃羽のもとへとむかっている。

 ぎりぎりまでまったが誰もおりる気配がないので、周囲の目を気にしながら仕方なく降車ボタンをおした。運賃箱にいれた料金と整理券が、じゃらり、と音をたててながれていく。バスをおりて水色の傘をひろげると、ひんやりとした空気がまとわりついた。

 頭上ではじける雨粒の感触を手にかんじながらあるく。角をまがったところでチェロの音が聞こえはじめた。メロディーがはっきりするにつれておそくなった歩みは、めざす家の塀のまえにたたずむ人影をみた途端に速まった。

 駆け足の気配にきづいたずぶむれの黃羽を、傘のなかに囲いこむ。平静をよそおうとして失敗した彼女は、笑顔の残骸を貼りはりつけたまま、つぶやいた。

「ちがうってば、なんか今日はあつくって……、それで、雨が気持ちよさそうだった、……から」

「風邪、ひいちゃいます」

「平気だよ、このくらい。……だって、あついんだから」

 家のなかから漏れだしてくるチェロの調べは、『鳥の歌』にかわる。ぎくり、と身をこわばらせた黃羽がふるえだす。結は、いつかの瑠璃を思いだしながら、おそるおそる、彼女の背中に手をまわした。されるがままに抱きよせられたつめたい体は、次第に熱をおびていく。ほそい、ほそい泣き声がつむがれていく。

「あたし、山のなかの渓谷でうまれたんだ。きれいな川がながれてて、みずがせせらぐ音がして、緑がこくて、すごくいいところ」

 くぐもった声がそうつげるころには、雨は小降りになっていた。

「でも、ずっとね、どこかいかなきゃいけないところがあるような気がしてた。だからあたし、それをさがすためにこの町にきたんだ」

「そうだったんですか」

「うん。だけどなんとなくで出てきちゃったから、どこにいきたいかなんて分かんなくって。ちがう、ここじゃないって、なんにちもなんにちもさまよって……。まあ当然だよね、いまかんがえてもばかみたい。

 しんどいし、おなかはすくし。ああ、もうつかれたな。かえろうかなっておもったときに、きこえたんだ、潤一郎のチェロ。なんかいい音だなっておもってたら、居心地のよさそうな木もあるし、もしかしたらこういうところにきたかったのかもって、そうおもった。音楽のことなんてわかんないけど、でもあたし、あの音とあの木が、すごく、すごくすきなの」

 ふと結は気づく。なじみになった感覚が、胸のおくにきざしていた。

「でも、どこかとおくをみてる潤一郎のそばにいるのはつらい。だけど、あの家をはなれるのは、きっともっとつらいよ。……ねえ、あたし、どうすればいいのかな」

 言葉をつむぐ。みちびかれるように。

「黃羽さんは迷子なんですね」

「……あたし、自分がどこにいるかくらいわかってるけど」

「本当の迷子は、そういうんじゃないんです。どこにいきたいかも、なにがしたかったのかも、みんなわからなくなっちゃうんです」

「迷子の専門家ね、結は」

 くすり、とちいさな笑い声がした。

 おおきくふくらんだおもいを、言葉にのせる。しずんだ声に、やわらかな響きを取りもどすために。

「だってわたししってますから、あるべきものをあるべきところにとどけてくれるお店」

 解きはなたれた言葉は、世界へとひろがっていく。黃羽は歩きつかれた子どものような表情で、結をみあげた。

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