アプリコット

 ドアチャイムがメゾフォルテで鳴らされた。頭をかばいながら駆けこんできた結は、眞白とともに扉を振りかえる。わずかにゆがみのあるガラスを、またたく間におおつぶのしずくがおおっていった。

 ため息をついた結は、瑠璃琥珀堂の店内に普段とはちがう香りがたゆたっていることに気づく。かすかな酸味のあるあまい匂いのもとをさがすと、カウンターにいる琥珀と目があった。

「おかえり、結」

「た、ただいま……もどりました」

 わずかに逡巡しゅんじゅんする。黃羽が琥珀をおそろしいと評してから一週間がすぎたが、その言葉はまだ、ときおり存在を主張した。靴のなかに入った小石のように。

「ぬれなかったか?」と、タオルをもった琥珀がカウンターからでてくる。

「ちょっぴりだけです。ぎ、ぎりぎり間にあいました」

「それならよかった」

 差しだされたタオルを、礼をいって受けとる。やわらかな肌ざわりと気づかいが小石の異物感をうすれさせた。結はちいさくうなずく、琥珀はこんなにやさしい。

「すまなかったな。雨になるのであればあんな遠方までいってもらうこともなかった」

「仕方ないです。……天気予報も浮言たちも今日は曇りっていってましたし。それに紫亜しあさん、すごくよろこんでました」

彼奴あやつもながいあいだ苦労したからな。結の手助けもあって丁度よかったろう」

「わたしは、別になにも……」と口ごもった結は、帆布のトートバッグから巾着袋を取りだす。

「これ。あずかってきました。お届けもののお代だそうです」

 巾着をひらいた琥珀は、たしかに受けとった、とうなずいて、

「ご苦労だったな。すわってくれ、コーヒーでもいれよう」

「ありがとうございます」

 彼女はカウンターに入るとたすきをかけて支度をはじめる。肩にのぼってきた眞白と頬をあわせた結がスツールにすわり、その様子をながめていると、琥珀が手をとめずにいった。

「瑠璃がいれば天気くらいわかったのだがな、あいにく今は仕事中だ」

「……本業、の方ですか?」

「ああ。ここ二、三日は随分と根をつめている」

「じゃあ今日はお店には来ませんか?」

「無理だろうな。結にあいたかったようだが、まあ仕方あるまい」

「わたしもあいたかったです。……あの、あんまりがんばりすぎないでくださいねって、つたえてもらえますか?」

 結らしいな、と頬をゆるめた琥珀は

「つたえておこう。来週末までには一段落するはずだ。またそのときにあえばいい」

 ケトルをコンロにかけた琥珀は、となりにあった琺瑯ほうろう製の鍋の蓋をとる。立ちのぼった湯気とともに甘やかな香りがひろがった。ふつふつと泡をたてるあざやかなオレンジ色をへらでひとまぜする。

「すまない、結。コーヒーはすこし待ってもらってもいいか? おもったより煮つまるのがはやかった」

「もちろんいいです。……もしかしてジャムですか?」

「そうだ。八百屋の店先で杏子あんずを見かけてな。瑠璃の好物だから慰労もかねて買ってきたのだが、旬はまださきなせいか残念ながら味が少々うすい。それでジャムにすることにした」

 皿にのせてあったひらたいナッツのようなものをジャムにいれかけた琥珀が手をとめる。

「これがなにかしっているか?」

「いいえ、しらないです」

杏仁あんにん、要するに杏子の種のじんで、これを粉末状にした杏仁霜きょうにんそうをもちいた薬膳料理が杏仁豆腐だ」

「え? 杏仁豆腐ってデザートじゃないんですか?」

「今風の言い方をするなら薬膳スイーツといったところか。せき止めの効能があるとされている。まあ、ちょっとした豆知識だ」

 杏仁をまぜると琥珀は鍋の火をとめた。つややかなジャムはふせてあった瓶にうつされていく。ぽってりとした瓶にあざやかなだいだい色がみたされて整列する様子は、なんとも愛らしかった。

 琥珀がネルでいれたコーヒーには、小皿にのったクラッカーがついてきた。四角いクラッカーにはオレンジ色のジャムがぬられている。

「あ、……これって」

「折角だ、味見してくれ」

「ありがとうございます。うれしいです」

 皿に手をのばして口元に運ぶと、わずかに酸味のあるアプリコットの香りが鼻腔びこうをくすぐった。クラッカーのかるい食感と塩気に、甘さをおさえたジャムの風味が混ざりあう。

「おいしいです……」

「それはなによりだ」

 微笑んだ琥珀はうしろの棚にキャニスターをしまった。

「ところであの化生はどうしている? たしか……黃羽といったか」

「あー、えっとですね……」

「なんだ、複雑な顔だな。いやな思いをしているのか?」

 そういうわけじゃ、ないんですけど、と言葉をにごした結は、

「黃羽さんがすんでいる木はわたしがかよっている学校の音楽の先生の家にあるんです。それで……、その先生、峯岸先生っていうんですけど、峯岸先生に訊いてほしいことがたくさんあるらしくって、よくたのまれます」

「たとえば?」

「最初は先生がよくひいている曲の名前で、つぎは楽器のことでした」

「ほかにもあるのか?」

「……はれとくもりのどっちがすき、とか、青と黄色のどっちがすき、とか」

「実にどうでもいい質問だな。それで、よくたのまれるといったか、どの程度の頻度だ?」

「ま、毎日……です」

「たわいもないことを毎日ききにいかされている、そういうことか?」

「あの、えっと、……はい」

 言葉のテンポと視線をおとした結を、琥珀が見つめる。

「迷惑ならそういえばいいんだぞ?」

「さ、最初はそうおもったんですけど……、なんだかすごく一生懸命なんです、 黃羽さん」

「一生懸命な相手の頼みだから無下にことわれない、か。またなんとも結らしい」

「で、でも、それだけじゃないんです。最初は黃羽さんの印象、すごくわるかったんですけど、いまはわたし、お友だちだっておもってて、だから、できることはしてあげたいなって。……わたしにできることなんて、あんまりないでしょうけど。あの……ど、どうしたんですか?」

 カウンターのむこうからのびてきた手が、頭をなでていた。あたたかな手のひらだった。

「成長したな、随分と」

「え……?」

「すこしまえの結なら、自分から他者とかかわろうとはしなかったろう? 相手が化生ならなおさらだ」

「……そう、でしたっけ」

「それがお前の本質なのだろうな、結、という名がしめすとおり。おもうように花をさかせろ。生きとし生けるものは、みなそうあればいい」

 自分にむけられる瞳のやさしさに、頭をなでられる感触にまぶたをとじる。ひなたにいるような心地よさだった。

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