チェロの奏者

 水音をひびかせて、乗用車が通りすぎていった。結がドアフォンと向きあってからすでに三台目である。ぴくりともうごかない背中に、黃羽が呼びかけた。

「もしもーし? まだですかー?」

「い、いまおしますから……」

「……根性なしね、想像以上に」

 結は渾身こんしんの力をこめて人さし指をのばすが、磁石のおなじ極を近づけたときのように、呼びだしボタンまであと数センチメートルのところで斥力がはたらく。ため息をついた黃羽がとなりにならんだ。すかさず呼び鈴をおす。呑気のんきな電子音がひびいた。

「ちょちょちょっとっ、ななな、なにしてるんですかっ!」

「だってこうでもしないと、またつぎの曲がはじまっちゃうじゃない。そしたらまた、……こ、これがおわるまでまちましょう、演奏のお邪魔になっちゃいますから、とかいうんでしょ?」

「むぐ……」

「観念なさい、時間の無駄よ」

「でで、でもっ」

 黃羽が唇にあてた人さし指をドアフォンにむける。はい、と落ちつきのある男性の声がした。

「あ、あのっ」

 緊張のあまり声が裏がえる。せきばらいをしてやり直した。

「すす、すすすっ、すみません」

「……あれ? すこしまってくださいね、いま行きますから」

「は、はい……」

 ほどなく玄関のひらく音がした。結はあわてて頭をさげる。

「あ、あのっ、……急にすみません。ちょっと……お伺いしたいことが、あって……」

「なにか質問ですか? 綾里さん」

「へ?」

「綾里結さんですよね? 一年六組の」

 おそるおそる顔をあげる。そこには三十代なかばほどの、線のほそい男性の姿があった。結のかよう高校の音楽教員、峯岸みねぎし潤一郎じゅんいちろうである。


 よく片づいたリビングルームだ。

 しろいフローリングにはほこりひとつなく、パステルブルーの布ばりのソファも木目がうつくしいチェロも、庭に面した掃きだし窓も、あるべきものがあるべき場所におさまっている。それなのになぜか、なにかがたりていないような印象があった。部屋があわい色でそろえられているからではなく。

 やわらかな湯気をたてるティーカップのおかれたローテーブルをはさんで、結は潤一郎と向きあっている。おだやかな物腰と清潔感のある服装で女子たちにそこそこの人気がある音楽教員は、紅茶をひとくち飲んでから、神妙な調子で切りだした。

「それで……、今日はどうしましたか? お話を聞かせてください。僕でよければ力になります」

「えっと、その……」

 うつむいた結は、ちらりと窓のそとをたしかめる。楓の木の枝で黃羽がおおきく口をあけて、はやく、と声をださずにうったえていた。

「じ、実は……知りあいのちいさな女の子がこの近所にすんでるんですけど、ときどき聴こえてくる曲の名前が、しりたいって……、いって、るんです……」

 すべてがうそではないのだが、本当のことをいえない後ろめたさで、結の声はデクレッシェンドしていった。対照的に、超絶技巧曲にむかうようだった潤一郎の表情は、おだやかなものへかわっていく。

「なるほど、そうでしたか。安心しました」

「え?」

「いえ。池永先生にもいえないようなことなのかとおもっていたんです。綾里さんが担任でもない僕の自宅をたずねてきたので」

「あ、ご、ごめんなさい……」

「いいんですよ、綾里さんがここにきたのは偶然だったんですから。それで、その子がしりたい曲は、どんなメロディーがわかりますか?」

「あ、あの、ついさっきまできこえてた曲です」

 じゃあこれかな、と潤一郎が旋律を口ずさむ。音楽の教員だから当然かもしれないが、躊躇ちゅうちょなくつむがれる歌に結は不意をつかれた。しばらく勇気をだせなかった自分と比較して落ちこみかけ、そんなことをしている場合ではないと耳をすます。さきほどチェロと少女の声のアンサンブルできいた曲に間違いなかった。

「そ、それです」

「これはスペインのカタルーニャの民謡をアレンジしたもので、『鳥の歌』という曲です。パブロ・カザルスというチェリストをご存知ですか?」

「い、いいえ。……ごめんなさい」

「あやまることではありませんよ。二十世紀最大のチェリストとして有名な人物なのですが、彼の編曲でもあり、同時に一番のレパートリーでもあった曲です。これでいかがですか? なんとも教科書的な解説ですが」

「あの……、その子がいてほしいっていってたことがあるんですけど、いいですか?」

「もちろん」

「じゃあ、……先生は、この曲がすきですか?」

「え?」とわずかに虚をつかれた表情をみせた潤一郎はおだやかに微笑み、

「そうですね。すきですよ、とても。ほかにもありますか?」

「いいえ、もうないです。ありがとうございました。その子きっと、よろこぶとおもいます」

 窓のそとをみると黃羽と目があった。結の視線をおった潤一郎がいう。

「いますか? もしかして」

「え……?」

 立ちあがった潤一郎は掃きだし窓のそばにいって楓の木をながめた。

「ああ、やっぱり今日もいました。綾里さん、よく気づきましたね」

「気づいた、って……え?」

「めずらしいですよね、僕は初めてみました」

「せ、先生……、みえるん、ですか……?」

「みえるというか、……まあ、そうですね。先々週くらいに気づきました。もしかしたらもっと以前からあの木にいたのかもしれませんが」

「先生も、……化生のものが――」

「――めずらしい鳥ですから」

「鳥……?」

黄鶺鴒きせきれいというそうです。つい図鑑でしらべてしまいました、はとすずめ以外の鳥も身近にいるんですね」

 結があわてて木の枝をみると、黃羽がいた場所には一羽の鳥がとまっていた。背中は青みがかったグレーで、腹側はあざやかな黄色をしている。

 それにしても、と潤一郎は表情をやわらげて結に振りかえった。

「よっぽど恥ずかしがりなんですね、綾里さんに頼みごとをした女の子は」

「え? あ、はい。……まあ」

 むしろ積極的で当の本人はすぐそこにいるが、化生のものだからともいえず返事はあやふやだ。

「それに、綾里さんはその子を大事にしてるんですね」

「ど、どうしてそうおもうんですか?」

「ひかえめな綾里さんが、こんなに行動的になるくらいですから」

「すごく、一生懸命だったんです。……その子」

「なるほど。そうだ、綾里さん」

「は、はい」

「その女の子につたえてくれますか? もしほかにしりたいことがあれば直接きいてくださってかまわないです、と」

 潤一郎は笑みをうかべた。この部屋とおなじく、申し分ないはずなのに、なにかが欠けているような。

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