黃羽の頼み

 家をでて二十分ほどたつが、黃羽が立ちどまる様子はなかった。

 まえをいくちいさなうしろ姿は、つないだ手をはなそうとしない。指先からつたわる温もりや、肩のあたりで一直線にそろえられた艶やかな黒髪が、かぎられた人間にしか認識できないということが、結にはまだしんじられなかった。

 日曜の午前である。すぐに来てほしいと主張する黃羽を、学校のある日はいけないからとどうにか説きふせた結は、その週末、彼女につれられて雨にけぶる住宅街をあるいていた。

 眞白は気圧がひくいほど調子がいいらしく、結の腕をつたったり傘の中棒にのぼったりと動きが活発だが、別にこわいわけじゃないけど、と前おきした黃羽の申し出によって、彼女の方にはいかないように言いつけられている。

「あ、あの……どこまでいくんですか?」

「もうすこしいったところよ」

「こわいとこじゃ、ないですよね……?」

「ちょっとは信用してくれない?」

「ご、ごめんなさい……」

「あんたをあぶない目になんてあわせないわよ。あんなおっかないお目付役がいるんだもの」

「眞白のことですか?」

 雷獣もそうだけど、と降りかえった黃羽が目をほそめる。視線のむけられたさきをみると、すこし離れた民家の切妻屋根の大棟に巨大なからすが悠然とたたずんでいた。

「あれ? 黒桂つづらさん、いつの間に……」

「あんたの家をでたときからずっとついてきてるわよ、あの八咫烏やたがらす

「八咫、烏……?」

「ほんとになんにもしらないのね。つかわしめの一種よ。つよい力をもつものにつかえる存在」

「それで琥珀さん、部下ってよんでるんですね」

「琥珀っていうの? あの八咫烏の主人」

「はい。わたしがアルバイトしてるお店の人です」

「ふうん。……あんた、とんでもないとこにいるのね」

「とんでもない?」

「あの八咫烏ね、その雷獣なんかより、ずっとおっかないわよ。だからその主人ともなるとね、……ちょっと、想像したくないわ」

「琥珀さんはこわくないですよ? 格好よくって、いつもやさしいです」

「そう。なんにしてもああやってあからさまに八咫烏につけさせてるのは、おかしな真似はするなっていう、あたしへのちょっとしたプレッシャーってわけ」

「で、ですから琥珀さんは――」

「――あんたがそういうならそうなんでしょうね」

 じっと結を見つめたあと、不意に黃羽は声をあかるくした。

「ま、あたしは毎日をたのしくすごしたいから、虎の尾をふむような真似はしないわ。いこ。もうちょっとよ」

 前をむいた黃羽は、ふたたび結の手をひいた。


 聞こえてきたかすかな音色は、町並みの見おぼえをたしかなものにかえた。二週間まえに届けものにきたかえりに夏帆とあるいた道だ。

 歩みをすすめるとチェロがかなでる調べの輪郭が明確になってきた。曲が終止形をむかえたあと、しばらくの静寂につづいてつぎの曲がはじまる。しっているのか黃羽がハミングで旋律をなぞりはじめた。

 ほそくおさない声とゆたかな響きをもつチェロの音とが溶けあって雨音のなかにたゆたう。はじめて聞くはずなのになぜかなつかしく、土の香りと哀愁をおびた調べが、ゆったりとひろがっていく。週なかばからやまぬ雨音のなかで聞いていると、化生たちの世界と現実との境界が次第にあやふやになっていくような気がした。

 ここよ、と黃羽が立ちどまる。峯岸という表札がかかげられた、まあたらしく洒落しゃれたたずまいは、やはり先日黃羽を見かけたかえでの木がある家であった。

「たのみたいのはね。この曲のことなの」

「音楽のことですか? ……ちょっと自信ないです」

「しりたいのよ、この曲の名前が」

「ご、ごめんなさい。わたし音楽は全然くわしくなくって……」

「それは気にしなくていいわ、最初から期待してないから」

 間髪いれぬ反応に結はやや鼻じろみながら、

「じゃ、じゃあ、なにをすればいいんですか?」

「きいてくれない? ひいてる奴に直接」

「わわ、わたしが……?」

「そう、あんたが」

「あ、あったこともない人に……?」

「心配ないよ、なよっちくってよわそうだったから。それになんかあったとしても、絶対あたしがまもってあげるし」

「む、無理無理無理無理っ! 絶っ対に無理です、そんなことっ!」

「大丈夫大丈夫。ぱっといって、ちょっときくだけだから。できるできる、結ならできるよ」

「こ、ここ、このお話はなかったことにしてください。さようならっ!」

 いきおいよくきびすをかえす。数歩あるいたところで声が追いすがってきた。

「おねがい、このとおりよ。たのめるのはあんたしかいないの。あたしの声、あいつにとどかないから」

 真摯な声音に足をとめる。黃羽はふかぶかと頭をさげていた。中身はかく、見た目はおさない少女の願いを無下にことわるか、それとも赤の他人の家を訪問するか。前門の虎、後門のおおかみである。結は、自分がかつてない窮地におちいったことに気づいた。

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