遠足

 浮言のうわさどおりに早朝からひろがったぬけるような青空のしたで、学校指定のジャージにリュックという服装で校庭にあつまった結たち一年生は、学級ごとにまとまって数キロメートルさきにある山のうえの公園をめざした。

 校門をでた結たちのクラスは、町の中央にある城山の麓にそって市街をぬける片側二車線の国道の歩道をすすむ。延期がつづいていた遠足の実施は、ひさしぶりの晴天や校外の開放感も手つだって、生徒たちの雰囲気を普段よりあかるく、親密なものにした。出席番号順の列であるため夏帆と離れた結も、となりにならんだ女子生徒のおしゃべりに、ぎこちなくも懸命におうじている。

「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、十八世紀後半のドイツでおこった革新的な文学運動、疾風怒濤シュトゥルム・ウント・ドラングの担い手よ。調和を規範とする古典主義や、理性をおもんじる啓蒙けいもう主義といったそれまでの文学に反対して、個性や個人の感受性を尊重したの。

 ……と、そんな風に説明されると、『若きウェルテルの悩み』だとか『ファウスト』だとか、ただでさえ堅くるしくってくらーいイメージのゲーテがさらに小むずかしそうにかんじちゃうけど、『ヘルマンとドロテーア』はね、全然ちがうの」

「そ、そうなんだ……」

 いずみ琴音ことねは、眼鏡のおくの瞳をかがやかせて、お気にいりの叙事詩の魅力をかたる。眼鏡とお下げ髪の印象どおり、おとなしく本をよんでいるイメージしかなかった彼女の突然の豹変ひょうへんに翻弄されながらも、結はどうにか相槌あいづちをうった。

「働きもので純朴な男の子ヘルマンと、フランス革命で国をおわれた女の子ドロテーアが恋におちるのよ。つまりね、二百年まえのボーイミーツガールなの。そうかんがえてみるととっても素敵だとおもわない? ゲーテ自身もこの作品がとてもすきだったみたいでね――」

 きっかけは小説だった。それまではまわりの雰囲気におされるように天気のことなどをぽつぽつと話していた程度だったのが、話題にこまってすきな本についてたずねたところ突然、琴音が能弁になったのだ。

 言葉の奔流に圧倒されながらも、ジャンルはまったくちがうが、瑠璃から本をすすめられたことを思いだす。貸してもらったまんがは、ひとりでよんでいても恥ずかしくて身もだえしたが、最後のページをめくりおえたときには、胸のおくにあたたかなものがほんのりとのこった。刀剣についてかたる琥珀も猫の話をする夏帆も、琴音とおなじように表情をあかるくする。

 自分にもいつか、そんな風に夢中になれるものが見つかるだろうか、やわらかな気持ちで琴音の文学談義にうなずいたとき、視界のすみにおかしなものがうつった。おそるおそる確認する。列の最後尾にふたつの異形がいた。学校に住みついているふたりの化生、あおじろい肌をした小男の忙太と、馬顔で大男の馬助だ。遠足の雰囲気につられてきたらしい二人は、結に気づくとうれしそうに手をふった。

 表情をこわばらせた結がみている方をたしかめた琴音が首をかしげる。

「どうしたの? 綾里さん。なにかあった?」

「あっ。う、ううん。なんでもないの」

 はげしく首をふる結を電線から一羽の小鳥が見おろしていた。


     ★☆★☆★


 市街地からやや外れた標高百メートルほどのこだかい山は、八十八箇所の札所のひとつや、牛同士をたたかわせる闘牛場、各種グラウンドをはじめとしたいくつかの市営の施設があり、また山中の町への玄関口もかねているため、観光と交通の要所である。

 車道をはしる車に何度か追いこされながら、頂へとつづく舗装された歩道をのぼる途中、展望がひらけたところで担任の池永先生が振りかえった。十分間の休憩とつげる声がひびく。

「結婚をきめたふたりが指輪を交換したあとにヘルマンがいう言葉は、フランス革命という激動の時代にあっても、自分たちの理想をまっすぐに目ざそうという力づよさにみちていて、本当に感動的なの」

 先生の言葉に気づかなかったらしく、琴音の長広舌はとまらなかった。あいまをぬってつたえる。

「あ、あのね、ごめん。休憩だって」

「――え? 休憩?」

「うん。……泉さんって、すきなんだね」

「へ? な、なにが?」

「本」

 結の言葉をきいてぴたりと動きをとめた琴音の頰が、みる間にあかくそまっていく。

「もしかして私、またやっちゃった……?」

「やっちゃったって?」

「ずっと……しゃべっちゃってたでしょ? ひとりで……」

「そんなの別に――」

「――ごっ、ごめんなさい」

 いきおいよく頭をさげると、琴音は脱兎だっとのごとく駆けていった。遠ざかる背中をぽつねんと見おくった結は、自分をよぶ声に気づく。夏帆が水族館でおよぐ麒麟きりんをみたような顔をしていた。

「いまの、泉さん?」

「う、うん……」

「どうしたの? すごい勢いだったけど」

「はずかしくなっちゃったみたい、……急に」

「あとでちゃんとフォローした方がよさそうだね」

「……が、がんばってみる」

 生真面目にうなずく結に微笑みかけた夏帆は、おおきく伸びをする。

「ここにくるの、小学校以来かも。結は?」

「わ、わたしも」

「やっぱり遠足?」

「うん」

「まあ、ほかにくる理由がないよね。スポーツでもやってないかぎり」

 そういえばさ、と夏帆が真顔になった。

「すこし、きいてもいいかな。ボクの個人的な興味なんだけど」

「え? な、なに?」

「結のお弁当って、おじさんがつくったの?」

「……お、お母さんも一緒に」

「やっぱりパン?」

「うん。サンドイッチ」

「つまりシェ・カのサンドイッチ、ってこと?」

「ちょ、ちょっとちがう、かも。おうち用だから……」

 さらにスペシャルなのか、と夏帆がとおい目になる。

「……た、食べてみる? よかったら」

「いいの?」

「うん。お母さん……がね、ちょっぴり余分にもたせてくれたの。夏帆ちゃんの分だって」

「そっか。ありがとう。おいしいだろうね、おじさんとおばさんのお弁当」

「うん……」

 微笑んだ夏帆はガードレールのむこうに目をむけた。木々がとぎれてひらけた視界のむこうでは、こんもりとした城山を中心にして、みどりの山々の麓に水たまりのように町並みがひろがっている。

「猫神社はどこだろう」と夏帆が目をほそめる。

「……多分あれ、城山のむこうにちょっとだけみえてるの」

「本当だ。リンはちゃんとおとなしくしてるかな」

 城山の手前には商店街のしろいアーケードがあった。それを目印にして結はあかいテントのある店をさがす。どんなに目をこらしても見つからなかったけれど、見当をつけた付近は特別な場所におもえた。視線を右にうごかして、かつてくらしていた場所をさがす。児童養護施設は、のぼってきた尾根にかくれてみえなかった。

 眞白が肩にのぼってきた。夏帆の様子をたしかめてから、そっと手をのばして頬をあわせる。不意にまうしろから声がした。

「ねえ。みえてるでしょ、あたしたちのこと」

 ぎくり、と振りかえる。白地に黒の縞模様しまもようの着物に、あざやかな黄色の帯をしめたおさない少女が、不敵な笑みをうかべていた。

「やっぱりね。ちょうどよかった。ちょっと一緒にきてもらうわよ」

 しろく華奢きゃしゃな手は、おもいもよらぬ力づよさで結の腕をつかんだ。

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