うまれたての家族

 着がえをすませた結がドアノブに伸ばしかけた手は、宙をさまよった。

 雑然とした部屋だ。パソコンやファックス、書類用キャビネットなどがおかれた事務机の反対側にはスチール製のロッカーもある。

 結はロッカーのとなりの姿見に向きなおった。のりのきいたしろいシャツには茶色のパイピングがはいっており、ハンチングと胸あてのないエプロンはパイピングとそろいの色になっている。笑顔をつくって鏡のなかの自分をたしかめた。自然なのかどうかはわからなかったが、おおきく息をすってうなずき、ドアをひらく。

 芳ばしい香りがひろがった。銀色の業務用機器がひしめく厨房ちゅうぼうには、つよい光がみちている。中央におかれた作業台で片付けをしていた女性と目があった。

「結さん、おかえりなさい」

「た、ただいま。坂元さん」

 研修生の坂元は、どこかさみしげな印象をあたえる顔立ちに微笑みをうかべる。年下の、さらにはこの家にきたばかりの自分に対しても礼儀ただしい態度に気おくれしながらこたえると、彼女は作業台のうしろにある流しに声をかけた。

「智宏さん、結さんですよ」

 洗いものをしていた男性が振りむく。ダブルのコックコートをきた無精髭ぶしょうひげの智宏に、人なつこい笑みがうかんだ。

「お、結。おかえり」

「ただいま。……お、お父さん」

 まだ云いなれない言葉を勢いで押しだしたせいか、おもったよりおおきな声がでた。気恥ずかしさでつい早口になる。

「レ、レジのお手つだいするね」

「いつもわるいな」

「ううん。お店、たのしいよ」

「そうか。そりゃよかった」

 靴に履きかえて厨房を通りぬけ、店舗にでる。しろい壁紙の店内には、ダウンライトのやわらかな光がそそいでいた。ショーケースとつづきになったレジカウンターには若干の列がある。対面販売の形式をとっているために客の流れは若干わるいが、結のくらす家がいとなむパン屋、シェ・カは、この地域で人気のある店である。

 レジで接客中のいとのとなりにならんで視線をかわした。トングをもって客が注文するパンをトレイにのせ、袋づめをはじめる。会計がおわったところで、いとが笑みとともに小声でいった。

「おかりなさい、結ちゃん」

「ただいま、お母さん」

 窓のそとには宵闇がみちており、ショーケースや棚にならんだパンものこりすくない。さらに数個がうれたところでキッチンからでてきた智宏が店番をかわり、いとと結は入れかわりで住居にもどった。店の制服から着がえて、どこも壁に面していないアイランドキッチンにならぶ。

「結ちゃんは、からいのすき?」

「……あ、あんまり。ごめんなさい」

「ちがうのよ。私も得意じゃないの。よかったわ、それなら普段どおりでつくるわね」

「うん。いつもとおなじがいい」

「じゃあ、はじめましょうか。玉ねぎを微塵みじんぎりにしてもらってもいい?」

 いとが冷蔵庫からだした玉ねぎを受けとった。根元を切りおとしたあとに茎側に包丁をいれ、一枚のこした皮を引っぱって剥がす。上手ね、という声のくすぐったさをこらえながら、半分にした玉ねぎを微塵ぎりにしていく。

 一緒に料理をしてみないかという誘いをうけて、結は先週から、いとと食事の支度をするようになった。口下手な結であっても、料理をしながらであれば自然に会話もできたため、施設にいたころ、退所後にむけてさせられていた料理の練習に、おもわぬところで助けられた格好である。

 いとがフライパンで大蒜にんにくを炒めはじめると、食欲をさそう香りがひろがった。パプリカを切りおえた結は、サラダの用意に取りかかる。水をはった鍋を火にかけるとレタスをちぎり、きゅうりの皮をむく。日をかさねるごとに結のぎこちなさはなくなり、ふたりの呼吸もあうようになっていた。

 料理ができあがるころに、店じまいをおえて智宏がキッチンにあらわれた。結が料理をよそい、いとがテーブルにならべていく。かるく叩いてこまかくした肉と野菜の炒めものと、あげた目玉焼きがそえられたご飯をみて、智宏が目をかがやかせた。

「おお、なんだこれ」

「ガパオライスよ。お店にどうかなとおもって」

「うまそうだ。店よりまずは自分でくいたくなるな、これは」

「こっちの小エビのサラダは結ちゃんがひとりでつくってくれたのよ」

「うおー。まじか、すごいな」

「ゆ、ゆでたエビときった野菜を、もっただけだから……」

「そんなことないぞ。切りかたが綺麗きれいだし、盛りかただってセンスがある。いともそうおもうだろ? な?」

「ええ。とってもいいとおもうわ。色あいが素敵よね」

 顔をあげていられなくなった結がうつむいても、智宏といとは小鉢をためつすがめつしながらサラダを褒めつづけた。

 贔屓目ひいきめすぎる品評会が一段落したところで、三人はダイニングテーブルをかこむ。いただきますと手をあわせたあと、結はスプーンですくったガパオライスを口に運んだ。磯の匂いを凝縮したようなナンプラーの風味が彩りをそえた肉や野菜の味を、ホーリーバジルがさわやかに包みこむなかに、唐辛子が存在を主張する。ついついご飯を食べすぎてしまう味だ。

 パン屋である以前に食べることがすきな倉方夫妻の食卓をいろどる料理は、バラエティーゆたかだ。エスニック料理などなじみのなかった結だが、毎回が冒険のような食生活は日々のたのしみになっていた。

 ナンプラーの匂いで好き嫌いがわかれそうだ、などと話しながら食べすすめる智宏が、ふと雨粒がながれる窓をみた。

「この調子だと明日も雨か」

「はれるよ。……た、多分だけど」

 つい反射的に浮言のうわさを口にしてしまい、結の目がおよぐ。

「そうか、じゃあ弁当の準備をしないとな」

「あ。う、うん、……ありがと」

「本当にサンドイッチでいいのか?」

「え?」

「いやほら、もっと別のもんだっていいんだぞ? たとえば三段重ねのお重とか、ぶあついステーキとか」

 さすがに仕入れが間にあわないか、と腕ぐみした智宏が、いやでもまてよ、と立ちあがりかけ、結はあわてて呼びとめる。

「ま、まって。あのね、まえにピクニックにいったでしょう? あのときのサンドイッチ、すごく、おいしかったから……」

 いとと顔を見あわせた智宏に、笑みがひろがっていく。

「よっしゃ、わかった。そんならとびきりうまいのをつくるからな」

 意気ごむ智宏の声はおおきかったが、施設にくらべれば随分とこじんまりした、しずかでちいさな暮らしだ。そのおだやかな時間のながれに、結は心地よさを覚えはじめていた。智宏が唐突に冗談をいい、いとがおっとりとこたえて、結はときおりふられる話題にぽつぽつと応じる。うまれたての家族は、それぞれがあるべき場所に落ちつきつつあった。

 食事をおえて洗いものをする。いとが洗って水きりかごにいれた食器を、布巾でふいて戸棚にしまう。あまり出番のないもの以外は、ほとんどの場所をおぼえた。食器を洗いおえて生ごみをまとめたいとが、ふと顔をあげる。

「やだ。どうしたの? 智宏さん」

 ぼんやりとふたりをながめていた智宏が頭をかいた。

「あ、すまん。つい見とれてた、なんだかいい眺めだなって」

「いい眺め?」

「なんつうかな……。親子ってこんな感じなんだろうな、きっと」

「……そんな風に、みえる?」

「ああ。しらない俺がいうのもおかしいが」

「智宏さんがそうおもうなら、智宏さんの理想にちかいってことじゃないかしら」

 いとがそうつげると、心地よい沈黙と洗いものの音がのこった。明日の仕込みをしてくる、と智宏が早口にいって席をたったあとも、焼きあがったばかりのパンのような空気は、ダイニングルームをただよっていた。

 発酵が必要なパン生地をあつかうため、パン屋の生活は規則ただしい。はかったように繰りかえされる日々は、今日のつぎには明日がくると約束されているようで、結を安心させた。

 頬をゆるめた結の心のすきまに、数週間まえの出来事が忍びいった。智宏といとはおぼえていないが、ふたりはある化生によってころされかけたのだ。

 ふたりの命の象徴がうばわれたとしったときの絶望が、自身の無力を突きつけられた悔しさが、大切なものをうしないかけた恐怖が込みあげて奥歯をみしめる。両親を危険にさらさないためにも、化生のものたちを家に近づけないようにしなければならない。結は決意をもってうなずいた。

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