樹上の少女

 木蓮と白達に別れをつげて山門をくぐった結が振りかえると、ふたりの姿はなかった。仏堂にたたえられていた闇は消えうせ、登高座とうこうざとよばれる導師の席に、木魚と払子がおかれている。彼女は、すっきりとおさまったふたつの仏具に一揖いちゆうした。

 頭をあげた結の肩に、山門の柱をつなぐぬきから、しろく、すんなりとした体躯たいくのちいさな動物が飛びのる。

眞白ましろ、おまたせ」

 自分を守護する雷獣の名をよんだ彼女は、頬をあわせたあと、歩みを再開した。海と山とにかこまれた背のひくい町並みのうえには、雨雲が居すわりつづけており、透明な水は急ぎ足で側溝を駆けぬけていく。

 最寄りのバス停にむかう結は、通りのむこうからあるいてくるあわいオレンジの傘をさした少女に目をとめた。おなじタイミングで気づいた彼女にちいさく手をふる。歩みをすすめたふたつの傘は、ふたたびおなじタイミングで立ちどまった。

 まっすぐな黒髪とぬけるように白い肌もつオレンジの傘の少女は、端正な顔立ちをいろどる唇に、にこりと笑みをうかべる。

「やあ結。めずらしいね、こんなところで」

「あ、あのね。アルバイトのお届けもの、してきたの。……夏帆ちゃんは?」

「猫神社にいってきたところ。リンの怪我は大分よくなってたよ」

「よかった……」

 自分をかばって負傷した猫の王の快方の知らせは、結を安堵あんどさせた。よわったところをみられたくないらしく、彼は数日のあいだ、夏帆にしか姿をみせてなかったのだ。

「結はまだアルバイト?」

「うん。これからもどるところ」

「どこだっけ、アルバイト先」

「サンマートのちかく」

「じゃあバスできたのかな。一緒にいってもいい? バス停まで」

「う、うん……」

 はにかんでこたえた結と、夏帆がならんで歩きだした。しっとりとした空気のなかで、紫陽花あじさいの紫がやわらかくにじんでいる。

「遠足、明日も無理かな。この調子だと」

「そしたら三回目? 延期になるの」

「うん。中止になっちゃうかもしれないね。こう延期つづきだと」

 結の肩で、ぴくり、と眞白が耳をうごかした。おくれて気づいた結もあたりを見まわす。夏帆は首をかしげた。

「どうしたの?」

「あ、あの、……えっとね。なにか、きこえる気がして……」

 やがて雨のなかをふく風にのって、かさがわりに木の葉をかぶった数センチほどの旅装束の一団が宙をただよってきた。うわさによってうまれ、その噂を流布させる浮言うきことという化生けしょうの一種だ。

――明日はひさかたぶりの晴天じゃ。

――雨降小僧にきいたのか?

――いかにも。雨師殿がおっしゃったそうだから間違いない。

――良きかな、良き哉。雨はすきじゃが、限度がある。

 声が通りすぎたあと、結は笑みをうかべた。

「明日、はれるかも」

「天気予報かなにか?」

「あっ、……う、うん。そう、天気予報」

 そっか、と応じた夏帆が、結の見ていた方向をながめた。結は、偶然みえてしまった彼女あての手紙の話をされたような落ちつかなさをおぼえる。

 化生のものたちは、ずれた軸のうえに存在しているため、特性を有した人間にしか認識できない。数ヶ月ほどまえに彼らをみるようになるまで、自分に寄りそう眞白のことすらしらずにいた結は、すこしずつ化生のものたちになれつつあったが、ほとんどの人間にみえない彼らのことは、仲のよい夏帆にも話せていなかった。

「……なんだか結は、ボクにはみえないものがみえてるのかなって、そんな風におもうことがある」

「え? そ、そう……かな?」

「うん。ときどき」

「そんなこと、ないよ……」

 むけられた瞳からのがれるようにうつむいた結に、夏帆は微笑みかける。

「なんだかいいね、そういうの」

「え……?」

「結のみている世界とボクのみている世界。みたものがおなじでも、どんな風にみえてるかは、その人だけのものなんだ。それはすごく素敵なことだとおもう」

「どんな風に、みえてるか?」

「たとえばそうだな。その紫陽花は何色?」

「えっと、……紫?」

「おなじ質問をされたら、ボクも紫ってこたえる。でもね、言葉はおなじでも、結の紫っていう『感じ』は、取りだしてボクのと比べることはできない。結の紫は、結だけのものなんだよ。ボクの紫がボクだけのものであるように」

「わたし、だけの……」

「だからね、結にはどんな風にこの景色がみえてるかって、想像してみるとおもしろいよ」

「……なんだかうれしい、夏帆ちゃんがそういってくれると」

 結の言葉を最後に、ふたりのあいだにはやわらかな沈黙がみちる。曲がり角をまがったところで、かすかな音がきこえた。歩みをすすめるにつれて、はっきりとした曲の形を取りはじめる。化生のものがたてる訪いおとないかもしれないと様子をうかがう結のとなりで、夏帆が口をひらいた。

「これはチェロの音だよ、多分なんだけど」

「チェロってなに?」

「バイオリンのお兄さんみたいな楽器。地面にまっすぐたてて、うしろから抱っこするみたいにかまえるんだけど、このあたりで時々きこえるんだ。そこの家の人がひいてるんだとおもう」

 つられて目をやったさきには、今風の戸建て住宅があった。庭にうえられたかえでがあおあおとした葉をしげらせている。木を見あげた結は、ふとい枝に着物姿のおさない少女が腰かけていることに気づいた。まぶたをとじて耳をそばだてる横顔があまりに真剣で、つい見いってしまう。

「結……?」

 夏帆の声で我にかえった。

「なにか、みえるの?」

「う、ううん。……きれいな木だなって」

「そうだね」

 微笑む夏帆には、あきらかに異質な着物の少女に気づいた素振りはない。不意に少女が瞳をひらき、結はあわてて目をそらした。湿気をおびた風が吹きぬける。つややかなチェロの調べにこたえるように。

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