古道

「せっかく結ちゃんがきてくれてるってのに、店ばっかじゃもったいないよな? やっぱり」

 智宏の言葉に、いとがうなずいた。

「そうね、どこかで一日お休みにしてお出かけしましょうか」

 倉方家の夕飯の食卓である。テーブルにはハッシュドビーフとサラダがならび、それをかこむ智宏といと、結の姿がある。世間はゴールデンウイークの最中であるが、パン屋の生活は当然のことながら普段とかわらない。

「あ、あの……、ごめんなさい」と、おずおずといった結は、

「わたし、いつもとおんなじがいいです。だって、……いちばん大事なのは普通の日でしょう?」

 顔を見あわせた夫妻が笑顔になった。

「なんだか私たちの方が子供みたいね。じゃあ、すこしならどうかしら」

「サンドイッチでももってピクニックにいくとかな。これならどうだ?」

「別に、でかけるのがいやってわけじゃ……ないんです」

「おし。ならきまりってことでいいかな?」

「はい」

「ごめんなさいね、はしゃいじゃって。でも、結ちゃんから遊びにきてくれるっていってもらえて、本当にうれしかったの。それも泊まりなんて」

「友だちに、いわれたんです。かわりばんこにあそぶんだよって。だから今度は、わたしからにしようっておもったんです。……このまえは、さそってもらったから……」

 はなしているうちに頰があつくなってきて、結は顔をふせた。

 スプーンで口に運んだハッシュドビーフは、最初にトマトの酸味がするけれど、やわらかくなるまで煮こまれた牛肉をみしめるほどに、玉ねぎの甘みが溶けだしたドミグラスソースと渾然こんぜんとなって、豊かな味がひろがる。


 結はまぶたをとじて、時間がすぎることだけをねがっている。

 暗闇のなか、何度目かの寝返りをうつ。ベッドに潜りこんだときは、店を手つだった疲れもあってすぐ眠りにおちたのに、その数時間後に目ざめてからは、どれだけ瞳をとじていてもねられそうになかった。

 真夜中をすぎた小さな町のひっそりとした空気が、部屋にしみてくる。みちた静寂は、はじめての部屋の落ちつかなさと混ざりあって、次第に心をくらい方へと押しながしはじめる。

 やがて辿たどりつく、自分は幸せになれない、という諦め。

 今日一日分のしあわせな時間もあらがえないほどにふかく刻みこまれたそれは、あきらめておけば傷つくことはないという負の備えでしかない。わかっていても繰りかえし裏切られた心は、らくな方をもとめる。

 すがるように結は、枕元に手をのばした。たしかな生きものの感触があった。かさこそと眞白のひげが手のなかでうごく。吐息をもらして眞白の方に体をむけた。

 睡眠が必要ないのか、眞白はねむらない。結がねるときには枕元でまるくなるが、ただじっとしているだけだ。

 くらい考えに取りつかれかけたとき、こわい夢をみたとき、いつもすぐそばにある眞白の存在は、結をささえた。

 ぴくり、と眞白が体をふるわせる。わずかにおくれて結もそれをかんじた。風邪のひきはじめのような、かすかな違和感があった。

 体をおこす。ぞわり、と鳥肌がたった。夜気のせいではない。違和感はいやな気配にかわり、膨れあがっていく。

 ブルーのストライプのパジャマをつたって、眞白が頭のうえにのぼった。みじかく鳴き声をあげて周囲を警戒する。

 どう対処すればいいかもわからないまま、ベッドをおりてスリッパをはき、カーディガンをはおった。耳鳴りに似たするどくたかい音が聞こえはじめる。結は理解した、あのときとおなじだと。

 いやな気配はより濃度をまし、黛とは比べものにならない、質量すらかんじるほどの悪意に変調する。音は、一点にむけてたかまっていく。

 巨大が硝子がぶつかり合い、砕けちるような音が響きわたった。結はたまらず耳をおさえてしゃがみこむ。頭のなかにのこった残響にふらつきながら立ちあがった直後、息をのんだ。

 六畳ほどの客間は消えうせ、眼前にひろがるのは鬱蒼うっそうとした森林である。はるかな高みへと一直線にのびた杉の巨木の樹間に、重なりあう枝葉をつらぬいて無数の月のやいばが突きたっている。

 こけむした石畳のしかれた足下の山道はしっとりとぬれており、パジャマごしに湿気をおびた冷気をかんじて、結はつよく体を抱きしめた。混乱しながらも本能は、このばかげた状況を現実だと認識し、危機の接近を警告しつづけていた。

 その姿は、道の途中にあった。数メートルさきにうずくまっていた彼が、結に気づいて顔をあげる。

 銀の髪と緑の瞳、ととのった顔だちには疲労の色がこく、しなやかな身体をつつんだ黒を基調にした服もうす汚れていた。だるそうに立ちあがると、ふらふらとちかづいてくる。

「リンさん……?」

 首をかしげた結から数歩のところまできた彼に、月の光がそそいだ。沈黙のまま、時間がすぎる。

 何事かをつたえかけたリンは、突如表情を一変させた。跳躍、結に肉薄し、右腕を振りあげる。なすすべもなく絡めとられた直後、結が立っていた石畳が、おもい衝撃音とともに砕けちった。

 リンに抱きかかえられたまま、いきおいで数度ころがった結は、もうひとりの人物の後ろ姿をみた。

 肩幅のひろい筋肉質な体躯たいくは人間のものだ。だが結のいた場所を粉砕した右腕は黒い獣毛におおわれ、ふとい指先には鉤爪かぎづめがあった。

「なんで、こんなとこに……いるんですか?」

「やあ、綾里さん」

 振りかえったその人は、さわやかに微笑む。中嶋智輝、おなじ高校にかよう結の先輩である。

「ごめんね、邪魔されちゃったみたいだ。くるしませずにころしてあげようとおもったのに」

「どうして先輩がこんなこと……」

「君をたべるためにきまってるじゃないか。ずっとまっていたんだ、瑠璃琥珀堂の監視がゆるむのをね。もっとも、猫が一匹入りこんだみたいだけど」

 白いシャツに光沢のあるパンツ、バックルのあるブーツという服装の智輝が、泰然と腕ぐみする。舌うちをしたリンが立ちあがった。

「てめえ、人間のふりしてんじゃねえ。虫唾がはしんだよ」

「この方がなにかと都合がいいからでね。君みたいなのに見つからずにすむ」

「そのためなら猫のプライドだってすてるわけか、煌牙こうが

「ばかだなリン。僕はもうとっくに猫じゃない。……中嶋智輝をった時からね」

「そうかよ。なら手加減なしだ。きっちり落とし前をつけてもらう、お前が喰った眷属けんぞくたちの分をな」

「おもしろいことをいうなあ。できるのかい? 柄にもなく無茶をして僕の結界に割りこんだせいで、疲弊してるいまの君に」

「ごちゃごちゃうるせえんだよっ!」

 リンがかけた、嘲笑を断ちきるがごとく。瞠目どうもくした煌牙がすんでとのころで身をかわす。やぶれた肩口から鮮血がしたたった。

「この町の猫の王をなめんなよ」

「ふざけた真似……してくれんじゃねえか」

「わかったか? スカしてる余裕なんざねえんだよ」

「余裕がねえのはてめえだろうがっ!」

 疾風のごとく、煌牙が襲いかかる。顔面をねらった鉤爪にあわせてリンが放ったカウンターの拳を、ギリギリまで引きつけてかわし、喉笛を食いやぶりにいく。虚をつかれながらもリンは上体をそらしてよけ、数度の後方転回で距離をとった。

「煌牙、なぜ仲間を喰った」

「我らが王はご立腹ってわけか。おやさしいこったな」

「……こたえろ」

「きまってんだろ、腹がへったからだよ。この人間のガキを喰ってからってもの、なに喰ってもゴミみてえな味しかしねえ。猫はまだマシだったぜ? ひでえ味にはかわんねえけどよ」

「てめえっ!」

 踏みこんで放った前回し蹴りをかわされたリンが、すかさず後ろ回し蹴りにつなぐ。さばききれず吹きとばされた煌牙を見おろしてリンがいった。

「みたされることのない飢えと渇き。けがれちまえばそうなることくらい、わかってただろう。……なのになぜだ。どこに人間を喰う必要があった」

「てめえならわかんだろ。町をおわれるみじめさが、食いものもろくにねえとこでこごえるつらさがよ。……なんとしてもてめえをぶっ倒して、奪いかえしてやる。俺はそれだけを支えに生きのびた。だからなんだってやるさ。崖からおちて死にかけてた人間のガキを喰うぐらいな!」

 跳ねおきた煌牙がリンにせまった。回し蹴りのコンビネーションをかいくぐって、腹に裏拳を打ちこむ。動きがとまったリンの頭部に、飛び後ろ回し蹴りが炸裂さくれつした。

「てめえさえいなきゃ、俺は王でいられた! ……なんでだ! なんでいまさらかえってきた!!」

「わりいな煌牙。……三年もかかっちまったけど、ようやくわかったんだよ。オレにもゆずれねえもんがあるってな」

「そうかよ。だがな、てめえ程度の覚悟じゃ、なにひとつ守れやしねえ」

 煌牙は石畳を構成する石のひとつを手にとった。子どもの頭ほどある石の重みをたしかめるように、何度か放りあげる。

「いまから俺がそいつをおしえてやるよ!」

 煌牙は突然、結にむかって投石した。身をかたくするしかできない結に接近する石片を、リンがたたきおとす。うまれた隙に乗じて背後をとった煌牙が、鉤爪を振りおろす。引きさかれる肉の悲鳴と苦悶くもんの声がつづいた。

「リンさん。……どうして?」と消えいりそうな結の声。

「……お前に、なんかあったら、……夏帆が泣くだろうが。オレはもう……、アイツが泣く顔を、みたくねえんだよ……」

 痛みに顔をゆがめて崩れおちたリンに、嗜虐しぎゃく的な表情をうかべた煌牙が蹴りを見まった。

「ほらな? てめえみてえな甘ちゃんはこうなるんだよ。わらわせるぜ。てめえがっ、しんじまっちゃっ、なにもっ、守れやしねえだろうがっ!」

 繰りかえし、繰りかえし振るわれる一方的な暴力。芋虫のように体をまるめたリンをなぶる声は、次第に狂気をおびる。

「うばってやるっ。その娘もっ、てめえがこがれる娘もっ、縄張りもっ、なにもかもっ。全部っ、全部っ、全部だっ! ……楽になりたいか? 命乞いをするなら、てめえだけ見のがしてやってもいいんだぜ?」

 胸倉を掴みあげた煌牙に、傷だらけになったリンが頬をゆがめてこたえた。

「……おととい来やがれってんだ」

「てめえっ!」

「――だめーっ!!」

 喉が切りさかれる直前、結が煌牙の腕にすがりついた。体をふるわせながら、必死にうったえる。

「り、リンさんにひどいこと、しないでください……」

「ああ、ごめんごめん綾里さん。見ぐるしいところをみせてしまったね。それにメインディッシュの君を放っておくなんて――」

 閃光せんこう轟音ごうおん、そして衝撃は同時におとずれた。そうとおくない距離で巨木が砕けちり、火の粉が舞い、破片が降りしきる。突然の落雷、それを引きおこした存在が、結の肩で白い毛を逆だて、青白く放電を繰りかえしていた。

 放心していた結が我にかえる。まじまじと眞白を見つめた。

「眞白……。あれ、あなたが、……やったの?」

 みじかい鳴き声とともに頬ずりでこたえる。状況を把握した結が立ちあがった。

「わたしたちを、かえしてください」

「そ、……そういうわけにはいかない」

 笑顔を懸命に貼りつけたまま、煌牙は二本の花を取りだした。綿花に似た花が、月あかりにひらめく。

「これ、みたことあるよね? 瑠璃琥珀堂に出入りしてるなら。僕くらい力がつよければ、この花を取りだすことだってできるんだ。けどまあ、そんなにながくはもたない。花の持ち主がしんじゃうから。で、問題は誰のかってことなんだけど」

「……誰の、花なんですか?」

「もちろん僕を優位にみちびいてくれる人たちさ。――倉方夫妻だよ」

「かえしてください。……いますぐに」

「わかってるかな? 僕に命令できるような状況じゃないってこと」

「どうすれば、いいんですか?」

「まずはその雷獣をさがらせてもらおうかな。あぶなっかしくって話もできないだろ?」

「……眞白。あの人のいうことをきいて」

 眞白はうごかない。ときおり火花をちらしながら、煌牙をみらみつける。

「お願い、眞白」

 うなだれた様子で眞白が結の肩からおりた。主導権をえたことに安堵あんどしたのか、煌牙は尊大な態度を取りもどしつつある。

「そうだよ、それでいいんだ。あとは簡単さ。おとなしく僕にたべられてくれればいい。一瞬だ、絶対にくるしい思いなんてさせない」

「それでふたりを、たすけてくれるんですか……?」

「もちろん、約束するよ」

「……もし、ことわったら?」

「ふたりはしぬ、君のせいでね。じゃ、返事をきかせてもらおうかな?」

 結は瞳をとじる。ゆっくりと深呼吸を繰りかえしたあと、瞼をひらく。迷いのない、澄みきった表情だ。

「答えは、いいえ、です」

「それはつまり、ふたりを見ごろしにするってこと?」

「いいえ」

「なら君を差しだすってこと?」

「いいえ」

「おかしなことをいうね、そんな条件はだしてないんだけど」

「ふたりがいなくなったら、わたしがかなしいです。でも、わたしがいなくなったら、きっとふたりはすごくかなしむ。だから……どっちかなんてえらべない。どっちかなんてえらばない!」

「だからね? それはできな――」

「――よくいえたわね、結ちゃん」

 突然の横なぎの疾風。かろうじて身をかわした煌牙の背後にあった巨木が数本、真空のやいばで伐りたおされる。地響きをともなった低音が大気を振動させる。いつの間にか結のとなりに、その人の姿はあった。

 うるわしい金の髪と瑠璃色の瞳、白いシャツにカマーベスト、ソムリエエプロンという服装で、木製のみじかいつえをかまえる。

「でも、約束をまもれなかったから六十点。いったでしょう? すぐにあたしたちの名前をよびなさいって」

「瑠璃さんっ!?」

「一体どうやって僕の結界に……――」

「――ああ、すまないな。あれは結界のつもりだったか。なにかあるとはおもったのだが」

 再度の烈風。瞬時に間合いをつめたその人は、煌牙の目前にいた。

「その花はかえしてもらう」

「なっ!?」

 鷹揚おうように伸びてきた手を払いのけようとした煌牙は、肘をとられて瞬時に関節を極められた。のがれようとするうちにバランスをうしなって転倒し、花をうばわれる。

「これはいかなるものであろうとも、もてあそんでいいものではない」

「琥珀さん……」

 ひとつにまとめたれ羽色の髪とおなじ色の瞳、牡丹ぼたん柄の縮緬ちりめんの小袖に地紋のあるくろいはかまをあわせたその人は、煌牙に背をむけると結にむかって歩きだした。

 持っていろ、と差しだした花を結が抱きしめるのを見とどけたあと、煌牙に向きなおる。

「あわれな奴だな。道を外せば外道だ。道がなければどこにもいけん。それはつまり、私の手をもってしてもってやれぬということだ」

 真正面にのばした両手をひらき、虚空からさやをはらう。刃が姿をあらわすにつれ、琥珀のまとった気配が、研ぎすまされていく。凛然りんぜんたるまなざしで煌牙を見すえて、月明かりにひらめく大太刀を八双にかまえた。

「ならばせめて、私の手で幕をひいてやる。こい」

「勝手に……、勝手に俺を、あわれんでんじゃねえっ!」

 縛めを引きちぎるように、煌牙が咆哮ほうこうした。全身の筋肉が急激に肥大化し、鉤爪がのびる。目はりあがり、瞳孔が縦にきられる。耳までさけた口から、犬歯がのぞく。

「ころす! ぶっころしてやる! どいつもこいつもころして喰ってやる!!」

 異形の姿と化した煌牙がとんだ。十数メートルのたかみに昇りつめると、すべての筋力を、気力を、右手にこめて振りあげる。落下がはじまる。速度がましていく。琥珀は一歩もうごかず、澄んだ瞳で彼を見すえていた。

 ふたりが交差する。刀を振りぬいた琥珀のうしろに、支配をうしなった煌牙の体が激突し、石畳をころがる。血しぶきを振りまきながらようやくとまったそれは、左肩から右脇腹までを袈裟けさ斬りに切断されていた。

 胴体から離れた場所におちた煌牙の頭部と右腕が、ずるずると地をはう。そのさきに、青ざめた結の姿があった。

「くそ……。こんな、ところで、……死んでたまるかよ。あの娘さえ……、あの娘さえ喰えば……」

「そう簡単にいくわけないでしょ」

 瑠璃が立ちはだかった。煌牙の表情におびえがうかぶ。

「わかった。わかったよ……。もう金輪際、あんたらにはちかづかない……。だから、……見のがしてくれよ。もうなんにも……できやしねえよ」

「っていってるけど、どうする?」と瑠璃が振りむいた瞬間、

「バカがっ!」

 千切れとんだ煌牙の首が、一直線に結に飛来した。今まさに結の首筋に喰いつこうとした瞬間、銀の輝きによって地面に縫いとめられる。

「どこまでも外道だな。首だけになった猫がとぶのは、主人のためと決まっているだろうが」

 琥珀のつめたい視線のさきで、煌牙の首は、ほどけるように消えていった。あとに残ったのは、綿花に似た形のあかぐろい花である。たちまちのうちにかわき、しおれ、くずれたそれを、夜風が運びさった。

「よくがんばったな」と振りかえった琥珀が結の頭をなでる。

「えらかったわ」と隣にたった瑠璃が背中をさする。

 ふにゃ、と表情をくずした結が、ふたりにしがみついた。

「オレには、……なんかねえのかよ。完全にやられ損じゃねえか、あんたらがくるんだったら」

 起きあがったリンが、不服そうにいう。結はわらった。なきながら、声をあげて。

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