過去
町を見はらせる石のベンチに、結と夏帆は腰をおろした。
猫神社には、今日ものどかな空気がみちている。おもいおもいにすごしていた猫たちが、夏帆の訪れに気づいてあつまってきた。
彼らが好き勝手に膝や肩にのってくるのにまかせながら、拝殿の屋根を見あげた夏帆はわずかに表情をくもらせる。今日もリンの姿はなかった。
なかば習慣で木立に
「よくいわれることなんだけどね、ボクは空気をよむ、ということができないんだ。だから結がそっとしておいてほしいのか、聞いてほしいのかもわかれない。
でもボクは、いまの結をみているのはつらい。力になりたい。そのためにはきちんとしる必要があるとおもう。だからおしえてくれないかな、どうしてそんな顔してるのか」
夏帆の方をむきかけた結は、ふたたび視線をおとした。勇気がもてなかった、すんだ瞳にさらされるだけの。
「施設にいるって、……しられちゃったから」
「児童養護施設って、事情があって家族と暮らせない子がいくところだよね?」
目を合わせないまま、結は無言で首をたてにふった。
「結がわるいことをしたからいるわけじゃないよね?」
ふたたびうなずいた結をみて、夏帆は首をかしげる。
「ならどうしてそんな風に落ちこんでいるのかわからないな。もしボクが結で、自分の家の事情をあんなふうに興味本位で話されたら、きっとおこる。かなしむんじゃなくて」
「あのね、夏帆ちゃんみたいにおもってくれない人の方がね、……ずっとずっとおおいの。わたしや、わたしの家族が……普通じゃないんだって、そんな風におもわれちゃうの」
「普通?」
「小学校の低学年のとき、生活っていう科目があったのおぼえてる?」
「なんか地図つくったりしたやつかな」
「うん、それ。あの生活の授業で、自分が生まれたときのこととか、名前をつけたわけとか、そういうことをおうちの人に聞いてみようっていう宿題がでてね?
わたし、そのころまだよくわかってなかったから、手をあげてきいちゃったの。おうちの人がいない子はどうしたらいいんですかって」
「……そっか」
「そしたらクラス中の子からね。そんなはずないとか、子どもにはお父さんやお母さんが絶対いるんだとか、いわれちゃって……。
だからわたし、せめて学校では、普通の子でいたかったの」
結は笑顔をつくろうとして失敗した。目をふせる。はれた空のしたで映える拝殿幕や玉砂利の凜とした白さが、せつなかった。
ふたたびおとずれた沈黙を打ちやぶったのは、夏帆の言葉だった。誰にきかせるでもない、暗譜した旋律をたしかめるような声だ。
「今でこそこんなだけど、小学校のころボクは、不登校だったんだ」
まっすぐにとおくを見つめていた夏帆は、顔をあげた結と目をあわせて微笑む。
「女の子のグループとの付きあいかたが、よくわからなくてね。自分がやりたいだけことなのに、それをいわずになんとなく話をもっていって、みんなできめたことにしたりとか、やりたくないことを、うまく人にやらせようとしたりとかさ。
どうしてそんなに回りくどいことをするのかわからなくて、本当の気持ちをしりたいのに
毎日がんばって家をでるんだけどつらくてさ。ついにある日、途中で足がうごかなくなった」
途方にくれる夏帆のまえを通りがかったのは、銀色の猫であった。
つまらないものをみるように彼女を
翌日も通学中にうごけなくなった。どうがんばっても足がまえにでないのに、神社にむかうことはできた。昨日とおなじように猫たちが出むかえた。銀色の猫はただ、屋根のうえからじっと夏帆をみていた。
「結局、学校にはいけないままだったけど、猫神社にならくることができた。
で、ある日きづいたんだ。ここの猫たちはたまたまおなじ場所にいるだけで、あつまるためにきてるんじゃないって」
なんて
リンのようになりたいとねがった。彼を真似た、こんな風にしゃべっているのでは、と想像した口調をふくめて。胸をはった、拝殿の屋根にいるリンのように。丁寧にひとつひとつ吟味して、自分のピースを組みあげていった。
「中学になって、ためしに学校にいってみた。あんなにこわかったのに、たいしたことなかった。無理してわかる必要も、わかってもらう必要もない。それだけだった。このしゃべりかたのことはいろいろいわれたけれど、これまでもこれからも変わらない。だってこれがボクだから。
だからリンにはとても感謝してるんだ。彼のおかげで、ボクは自分らしくいられる。……まあ、すこしへんかもしれないけれど」
「どうして、そんなこと話すの?」
「ちっちゃなころにならわなかった? かわりばんこにあそぶんだよ。結が自分のことを話してくれたから、ボクの番」
「まえもおなじこと、いってた」
大切なことだからね、と唇の両端をあげたあと、夏帆は真剣な表情になる。
「ねえ結、普通ってそんなに大切なことかな。普通ってなんだろう。数がおおい方ってこと? そんなのっぺらぼうみたいなものに、本当になりたいの? ボクはそんなものより、意外と頑固なところがあって、かなり天然で、すごくやさしくて、いまは児童養護施設で生活してる、そんな結の方が好きだよ」
結は、まっすぐにむけられた夏帆の瞳を見つめる。いつのまにか心が、やわらかくふくらんでいることに気づいた。
ひそんでいた拝殿の床下で、彼は目を
たったいま彼女がまとった気配の、なんと旨そうなことか。満たされえぬ飢えが、狩人の本能が、昼間だというのに理性の
あの柔肌に牙を突きたて、引きさき、麗しい肉を、芳しい血潮を存分にあじわいたい。彼は衝動をこらえ、涙をながしてこの獲物にであえた幸運に感謝した。
だが、この場所ではまずい、奴らの監視がある。甘美な拷問で暴走しかけた本能を、必死に制する。噛みしめた唇から赤い糸がつたった。
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