いとと智宏

 十人も入れば一杯になる店内にはひっきりなしに客がおとずれ、レジの列がみじかくなる気配もない。焼きあがったあとに粗熱がとれるまで棚におかれていたパンや、フル稼働するキッチンでつくられる惣菜そうざいパンは、補充するそばからなくなっていった。

 結は首をかしげる。どうしてこんなことになっているのだろう。

 ふわり、と芳ばしい香りが鼻腔びこうをくすぐった。先ほどご馳走ちそうされたブルスケッタの味が頭をよぎったが、すぐにあわただしさにまぎれてしまった。


 ぜひ遊びに来てほしいという倉方夫妻からさそわれて、ずっと迷っていた結の背中をおしたのは、先日のみどりの言葉であった。

 勇気をだして夫妻の店舗兼住宅を訪問した数時間まえ、客として何度も利用した店の入り口ではなく、玄関にまわって呼び鈴をおす気持ちは、幼稚園のころ、みんながあこがれていた施設のゆり子先生から、誕生日になにがほしいかこっそりきかれたときと似ていた。

 なにを着ていくかなやんだ結果、高校の制服にした結を出むかえたいとも、コックコートに茶色いエプロンというパン屋のユニフォームだった。

 笑顔でとおされたリビングダイニングは、すっきりとよく整理されていたが、キッチンのわきにある黒板には無数の走り書きとともにいくつかのメモがとめられており、パンのレシピらしいそれらは、主人たちの暮らしぶりをかんじさせた。

 対面式のキッチンには制服姿の智宏がおり、賄いメニューだというブルスケッタを結にすすめた。

 みずみずしくさわやかなトマトとバジルのトッピングを、オーブンでやかれてさっくりとした食感にかわったバケットが、ガーリックの風味とともにささえる。それらが渾然こんぜんとなってうみだす味わいは、至福と表現して差しつかえないものであった。

 すごく美味しいと結がいうと、勢いづいた智宏は生ハムやカプレーゼなど、つぎつぎとトッピングを持ちだしてきた。


「結ちゃん。これ、そこの棚にならべてくれるか?」

 智宏の声で我にかえる。木のトレイにのったバケットをならべている最中に、そういえば、と結は思いだした。

 ブルスケッタをたべたあと、これから昼に販売する分を焼きはじめるので見てみるかといわれて、うなずくとキッチンに入るからと制服一式をわたされた。

 銀色の機器がならぶ厨房ちゅうぼうでは、二十代前半ほどの女性スタッフが仕込みをはじめており、研修生の坂元だと紹介された。

 智宏はしろくて細ながいバケットの生地にクープをよばれる切りこみをいれ、柄のながいちりとりのような形のスリップピールにならべて、オーブンにいれていく。その手際に見とれていると、オーブンのべつの段から焼きあがったパンがでてきた。

 いとが女性スタッフと調理パンを作りはじめ、包装をやってみないかといわれて手つだってみると意外にたのしかった。そして気づくとなぜか、カウンターに彼女とならんで販売をしていたのであった。

 昼食の時間帯だけあって、入れかわり立ちかわりおとずれる客で店はつねに満員で、お祭りかなにかのようだ。

 ときおりキッチンから智宏があらわれてパンを結にわたすついでに、列にならんだ客とふたことみこと言葉をかわす。レジを担当するいとの人柄なのか、混雑していてもみんなどこかたのしげで、みちたパンの香りまでもがやわらかい。

 気づけば結も自然と笑顔になっていた。


 ついさきほどまでのにぎやかさがまるでうそのように、いとと結のふたりだけの居間はしずかであった。

 キッチンで調理をするいとが目があうたびに微笑みかけてくるけれど、ダイニングテーブルにすわった結は、曖昧に笑みをかえすしかできない。

 ひるのいそがしい時間が一段落して、ふたりで昼食をとることになったのだ。ただようバジルソースの香りは、心地よい疲労とあいまって胃袋を刺激してやまなかった。

「一緒にたべる人がいてくれてうれしいわ。いつもお昼はひとりだから」

「わたしは、不思議な感じがします。学校でも施設でもいつもみんな一緒にたべてますから」

「あー、それ、俺もなれるまで時間かかったなあ。なんか静かすぎて落ちつかないっていうか、物たりないっていうか」

 リビングにあらわれた智宏に、いとがたずねる。

「お店は?」

「坂元さんが、こんなときくらい一緒にどうぞ、だって」

「そう。あとでお礼いわなくちゃ」

 三人で食卓をかこむ。フランスパンは小麦粉とイースト、水と塩だけでつくるので、職人の腕の見せどころだということや、ドゥコンディショナーという生地を管理する機械ができるまえは、真夜中からひとばんかけて仕込みをしていたことなど、智宏がパンについてあつくかたるうちに昼食の時間はすぎていった。

「それで……、店はどうだった?」

 真剣な顔で智宏が切りだしたのは、食後すぐのことだった。

 はたと結は考えこむ。いそがしかったけれど、ふっくらとふくらんだパンのような時間であった。だがなぜ遊びにこさせておいて手つだいをさせたのだろうか、もしかして働き手として養子がほしいのだろうか。言葉につまったまま時間がすぎる。

「あまりむつかしくかんがえないで?」

 顔をあげると、いとが洗いものをする手をとめて微笑んでいた。

「うちはパン屋でしょう? だからね、うちを知ってもらうなら、お店を見てもらうのが一番だとおもったの」

「あ、そういうことなら。……えっと、たのしかったです」

「よかった。結ちゃんさえよかったら、私たちのところにきてもらうお話、前むきにかんがえてほしいの。私たちの気持ちは、あなたに会ったときにきまってるから」

 夫妻の視線を受けとめきれず、結は視線をおとす。光があかるいほど、おちる影はこかった。

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