みどり

 窓のそとの空は、雲におおわれていた。

 自室で机にむかう結は、黙々とペンを走らせる。同類項をまとめ、整式を整理していく。数学はらくだな、とおもう。答えどころかあるべき場所や並びかたまできまっている。

 宿題をおえてみじかくため息をついた結は、手帳をひらいた。几帳面きちょうめんに色わけされたスケジュールのなかに、「倉方さんの家にいく日」と、なやんだすえの黒一色がある。数日後にひかえたその文字を、落ちつかない思いでながめた。

 なじみのリズムのノックにつづいて、シスターの声がした。

「結さん、お客様です」

「……わたしにですか?」

「ええ。なつかしいかたです。はやくいっておあげなさい」

 これまで結に客がきたことなどない。なつかしいという言葉で、高校の同級生ではないとわかって安心したが、瑠璃や琥珀の可能性も同時に否定されたため、困惑しながら階段をおりた。

 玄関にはひとりの少女の姿があった。化粧でわかりにくいが結と同い年くらいであろう、あかるい色の髪は綺麗きれいにカールさせてあり、ほそいボーダーのカットソーとデニムのサロペットというコーディネイトだ。

 まるで接点のかんじられない来客に結はとまどう。彼女が口をひらいた。一夜漬けでのぞんだテストの結果を受けとるような顔で。

「久しぶり。あのさ、覚えてる? 小野田みどり、なんだけど……」

 いわれてみればたしかに、気のつよそうな目元は、ちいさなころに仲のよかった女の子の面影がある気がした。

 結とみどりは勉強机の椅子にすわって、面映ゆい思いで向きあっている。

 同室の美晴は気をつかって出かけてしまったが、よっぽどなれた相手でもないかぎり、誰かと二人きりでいることは、結にとって苦行にちかい。だまっているのも気まずくなってきて、懸命に話題をさがし、口をこじあけた。

「きょっ、今日は――」

 声がひっくりかえってしまい、あわててせきばらいする。

「今日は曇り、……だね」

「うん。そうだね」

「明日はお天気に、なると……いいね」

 結の言葉を聞きおえるまえに、みどりはうつむいてしまった。こきざみに肩がふるえている。

「ど、どうしたの……?」

 したをむいたまま、みどりはかぶりをふってこたえた。

「具合、わるい……?」

 ふたたび頭がふられる。

 もしかして泣いているのだろうか、不安になった結がおそるおそるみどりの顔をのぞこうとしたとき、快活な笑い声が響きわたった。

「ご、ごめんね。……でも結ちゃん、はじめて話しかけてきたときと、……おんなじこと、いうんだもん」

 涙目になりながらみどりがいう。結は呆気あっけにとられたまま、彼女の発作がすぎるのをまつしかなかった。

「びっくりしたよね。いきなりごめん」

 目頭にハンカチをあてながらみどりがいう。

「ううん。まあ……びっくり、したけど」

「けど、結ちゃんが昔のとおりで、なんか安心したよ」

 そういってあたりを見まわしたみどりは、

「お姉さんの部屋にきたんだね」

「お姉さんの、部屋?」

「ちっちゃいころさ、そうよんでたの、おぼえてない?」

「……そうだっけ」

「おおきくなったら一緒にいこうねって。ごめんね、約束まもれなくって」

「気にしないで。でも、ちょっと思いだしたかも。お姉さんの部屋」

「よかった。それからさ。シスターが全然かわってなくて、びっくりした」

「かわってないよね、やっぱり。わたしもそうおもう」

「ねね、おぼえてる? シスターにつれられてホームのみんなで公園にいったことあったでしょ?」

 思い出と言葉があふれた。時間がすぎるのもわすれて二人は、かくしておいた宝物を掘りだすように、記憶を確かめあう。

 ふと、会話がとぎれた。道を譲りあうのに似た、やさしく、きはずかしい沈黙がおとずれる。

 じっと結を見つめたみどりはおおきく息をすうと、ちょっとまってね、とつげてバッグをあけ、なかにいれてあったものをみせた。

「ごめん、結ちゃん」

 両手で差しだされたものをみる。純白だった毛並みは黄ばんでいるが、かえって風格をかんじさせた。奥行きのある硝子の目は昔のままだ。

「あれ? これって……」

「そうだよ。ほんとにごめん」

 記憶していたよりちいさいが、それはまちがいなく、おさないころに結が大切にしていたうさぎのぬいぐるみであった。

「ちょっと見せてもらうだけのつもりだったのに、どんどん返しづらくなっちゃって。かえさなきゃかえさなきゃっておもってるうちに、ここを出ていくことになって」

 頭をさげたまま、みどりは言葉をつむぐ。

「そうなるともうこわくてさ。クローゼットのおくにしまって見ないようにして。……ほんというと一度なくしちゃったんだ、最低だよね。けどずっと気がかりで、あやまりたくってさ。そしたら――」

 顔をあげたみどりの目にはうっすらと涙がたまっていた。

「急にでてきたんだよ、この子。だからもう、いましかないって。……ただの自己満足だけどさ、このままにはしておけないから。ごめんね結ちゃん。ゆるしてなんていわないから、この子だけは受けとってくれないかな」

 これほど正面から誰かに向きあわれたことがなかった結はとまどう。だがそれとおなじくらいに気になることがあった。

「みどりちゃん。……もしかしていま、猫神社のちかくの団地にすんでる?」

「そうだけど、どうかした?」

「すこしまえにね、アルバイトでいったの。すてきなところね」

「ぼろっちいよ?」

「すごくやさしい感じがした」

「それは、そうかも」

「あのね、わたしもみどりちゃんにあやまりたかったの。あのとき、八つ当たりしてごめんね」

「わるいのあたしだし」

「八つ当たりはだめだよ。それにあやまりにいく勇気、わたしはもてなかったから」

「あたしがどこにすんでるか知らなかったでしょ?」

「しってても無理だったとおもう。すごいね、みどりちゃんは」

「そんなことないよ。この子が出てきてくれたから」

「ありがとう、みどりちゃん」

 結は手をのばしてぬいぐるみを受けとる。久しぶりに抱きしめると、眞白に似た感触と、ちがう家の洗剤の匂いがした。

「受けとってくれるの?」

「もちろん」

「よかった。よかったよ……」

 へなへなとみどりは椅子から床にずりおちる。

「なんかこんなこというとえらそうなんだけどさ。……安心した、おぼえてたよりずっと結ちゃんがあかるくて」

「そうかな」

「うん。そうおもった」

「あのね、ひとつきいてもいい?」

「なあに?」

「家族って、どんなもの?」

「んー、説明するのむつかしい。いろいろ面倒だけどさ、なんか……まあ、あったかくってさ。あの団地に似てるかも」

 みどりの笑顔は、とおいむかしにジャングルジムのうえでみたときと、おなじ気がした。

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