緋暮

 くたびれ気味の団地の一画にあるおおきなくすのきのしたで、結は雨にけぶる駐車場をながめている。ぐずついた天気のせいか、人の気配はなかった。

 午前の面会を思いだす。わるい話ではないとおもった。親子とはどういうものなのかわからないが、あのパン屋の夫婦とくらすのは、たのしいのではないかとさえかんじた。

 だが、目のまえにおかれたものがあかるいほど、自分は幸せになれないのではないかという不安と恐れも、おおきくなる。つよく、まぶたをとじた。

 ぽん、となにかが頭におかれる。結が瞳をひらくと琥珀が微笑んでいた。うなずいてこたえる。

「あ、あの、瑠璃琥珀堂です。……お届けものをおもちしました」

 そのまま時間がすぎる。トートバッグの鈴におうじたのは、こずえからしたたって傘をたたく滴のみであった。琥珀が眉間にしわをよせる。

「一体どうした? 緋暮ひぐれの奴」

「緋暮さんっていうんですか? 依頼されたかたのお名前」

「ああ。ながくここにすむ化生のものだ。……あそこか?」

 つられて顔をあげると、外階段を駆けのぼる子どもの足がみえた。

「おい緋暮、お前とあそんでいる暇はないぞ」

 帯飾りの鈴の音をひびかせながら、琥珀が外階段にむかっていく。今度はべつの棟をちいさな人影が走りぬけた。

 次第にふえてあちこちからきこえるようになった足音は、おさない笑い声をともないだした。反射する音は建物のあいだで尾をひき、こだまするうちに団地中をつつんだ。

 おろおろと結があたりを見まわしていると、目のまえに突然――、

「――ばあっ!」

 男の子がさかさまにぶらさがった。

 両膝を枝にかけた姿勢から前宙返りで着地すると、結のもとへ駆けよる。年は十歳ほど、カラフルなプリントTシャツとジーンズ、スニーカーという子どもらしい服装だが、髪があざやかな赤い色をしていた。

「びっくりした? ねえねえびっくりした?」

 うれしそうな呼びかけに、結はまったくの無反応である。

「あれ……? もしもし? もしもーし?」

 顔のまえでちいさな手をふられてもまばたきひとつしなかった結が、不意におおつぶの涙をこぼした。

「え? あ……ちょ、ちょっと。泣かないで。ごめん、ごめんね」

「緋暮。お前、うちのアルバイトを泣かせるとは、いい度胸じゃないか」

 男の子が顔を引きつらせて振りむくと、琥珀が仁王立ちで笑みをうかべていた。

「まってまって。ちょっとまってってば」

「かまわんが結果はかわらんぞ? 何秒まってほしい?」

「じゅ、十秒くらい。――あっ、ずるいずるい!」

 逃げだそうとした瞬間に首ねっこをつかまれて緋暮がもがく。

「まっている暇などない。人生とはつねに、権謀けんぼう術数じゅっすうの連続だ」

 琥珀がげんこつを振りあげる。おもい音が雨に吸いこまれた。


 結が落ちつきを取りもどすまでにはしばらくの時間を要した。

 琥珀にすごまれて謝りつづけた緋暮が、ふたりの顔色をうかがいながらいう。

「あの……そろそろもらってもいい? 瑠璃ちゃんと琥珀ちゃんにお願いしてたもの」

「お前、いま自分が人に頼みごとをできる立場だとおもっているのか?」

「そ、そろそろいいかなーって……おもったり……」

「もう平気です。ごめんなさい。ちょっと……、びっくりして」

「よかったな緋暮、結の厚情こうじょうに奉謝しろ。あとは汚名をすすげるよう精々努力することだな」

 つめたい表情で緋暮を見おろした琥珀は、木陰からでて離れたところまでいくと、黒桂つづらをよんだ。左腕にとまらせて傘のなかに囲いこむ。

 結はトートバッグから紙袋を取りだし、緋暮にわたした。なかをたしかめた彼が笑顔になる。

「うん、これだよ。どうもありがとう」

「ど、どういたしまして」

 ただもってきただけなのに礼をいわれてしまい、人に手伝ってもらった絵をほめられたような気持ちになって目をそらした結の肩を、緋暮がじっと見つめた。

「ほんとに雷獣だ。うわさどおりだね。あらためまして、僕は緋暮。よろしく」

「綾里結です。あの、そんなに噂になってるんですか? やっぱり……」

「うん。結ちゃんもめずらしいからね、このおとなしい雷獣とおなじくらい」

「そうですか……」

「あれ? うれしくない?」

「……はい。すこしまえに、おそわれましたから」

「黛のこと? まあ心配ないとおもうよ? なみの化生のものならこの雷獣が追いはらうだろうし。

 それに、瑠璃琥珀堂がついてるからね。ちょっとよからぬことを企みかけた連中も考えなおしたでしょ、あの一件で」

「だといいんですけど……」

「安心していいよ。瑠璃ちゃんと琥珀ちゃんにまもられてるって、かなりすごいことだから」

 それでさ、と上目づかいになった緋暮が、

「僕、取りもどせてる?」

「なにをですか?」

「その……結ちゃんを泣かせちゃったこと。あのね? 僕、子どもの化生だからいたずらせずにはいられないんだ。……でも、ごめんね? 泣かせちゃって」

「いいですよ、もう」

「ほんとっ? じゃあさ、話きいてもらってもいい?」

「お話ですか?」

 これのこと、と緋暮は結がわたした紙袋をしめす。

「迷ったものがあるべき場所にもどるのに、とても大切なことがあるんだ。それはちょっとしたタイミングだったり、些細ささいなきっかけだったり。ほんとにちっぽけなことなんだけど、なしにはもどれない。さあ、その大切なことってなんでしょう?」

「えっと、……運、とか?」

「ちかいけど、もっとたしかなもの。それが縁だよ」

 緋暮のつり気味の目が、まっすぐにむけられる。結はそこにやどる光が、普通の子どもとはあきらかにちがう色味をおびていることに気づいた。


「結んでやる義理などなかったのだぞ?」

「お話をきいてたらそうなっちゃったんです。それに緋暮さんがいい人だってわかりましたから」

「そうか。結が納得しているのであれば、私はそれでかまわん」

 団地からの帰り道、ふたりは入りくんだ宅地を瑠璃琥珀堂へむかう。空は鈍色にびいろの雲におおわれたままで、雨脚はいきおいを増しつつあった。

「緋暮さんってやさしいんですね。今日のお届けもの、あの団地にすんでる子どもがなくしてこまってたものだそうです」

「あいつも元は人間の子どもだからな。多少は気持ちが――」

「どうしたんですか?」

「なにか……におうな。結はそこにいろ」

 目をほそめてあたりを見まわした琥珀が、さきのつじまで先行する。

 不意にひんやりとした湿気をかんじて結が身ぶるいすると、眞白が頬を擦りよせた。なでた左手からつたわるたしかな温もりが心まであたためる。

 琥珀が引きかえしてくる途中、さらにむこうの路地から、傘もささずに駆けだした人がみえた。結は首をかしげる。

「匂いがうすいな。なにか起こったとしてもしばらくまえのことだろう。……どうした?」

「いま、そこのほそい道から出てきた人に、なんだか見おぼえがある気がして……」

「そこか?」

 ならんで路地まであるく。なにげなく奥を見かけた結の目を、とつぜん琥珀がふさいだ。

「――みるな」

 琥珀の声にかすかにふくまれた緊張が、いつかとおなじ品のある澄んだ香りとともに、とざされた視界に薫った。

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