晩餐

 ドアチャイムの音が結をつつむ。でたときとおなじく、瑠璃はカウンターで微笑んでいた。

「おかえりなさい」

「もどりました」

 かたむいた陽ざしが郷愁にみちた色あいにそめる店内を、琥珀に肩をだかれて結はカウンターまであるいた。

「すわってやすめ。いま瑠璃が飲むものをいれる」

「あ、はい。……ありがとうございます」

「いい子だ」

 いわれたままスツールに腰をおろす。はなれていこうとする気配をかんじて、反射的にのばしかけた手をどうにかとどめる。それを察して琥珀が微笑んだ。頭をなでる手のひらがやさしい。

「瑠璃、すまないが結をたのむ。私はみそいでくる。すこしけがれた」

「まかせて。ごゆっくり、ね」

 とうのバスケットを受けとった瑠璃が手をふった。なかには黛の姿が消えさったあとにのこされ、琥珀がった花が入っている。

 店のおくにむかう琥珀を見おくったあと、瑠璃は火にかけていたミルクパンの中身をこしながら中身をマグカップにうつして、シナモンスティックをそえた。

 結の目のまえにおかれたカップから、ふんわりと湯気が立ちのぼる。

「ジンジャーホットミルクにしてみたの。あったまるわよ?」

「あ、はい。……ありがとうございます」

「さっきとおなじセリフ」

「そうでしたっけ」

 瑠璃と微笑みかわしたあと、ぽってりとしたマグカップを口に運んだ。

 ゆたかな牛乳の味わいとともに、メイプルシロップの甘みとシナモンの風味につつまれた生姜しょうがの刺激が、喉をすぎたあとで内側から身体をあたためる。

 やさしい味だった。涙がこぼれた、吐息と一緒に。

「あ、あれ……? どうしたのかな、わたし」

「涙がでるときは、そうしておけばいいのよ? 人はね、そういう風にできてるの」

「べつにわたし、な、泣きたいわけじゃ……ないですし」

「どうしてこう頑固なのかしら、普段は聞きわけがいいのに」

 ため息をついた瑠璃は、カウンターから出てきて結のまえにたった。首をかしげた結は、不意にやわらかな何かにくるまれる。ついさきほどまでそばにいた琥珀ともちがう、艶やかさのなかに爽やかな甘みをふくんだ香りが鼻腔びこうをみたした数秒後、抱きしめられているのだとようやく気づいた。

 これほどちかくで人と触れあったことのない結は、顔をまっかにしてもがく。

「あ、あのっ、わたしほんとにっ」

「ほらほら、観念なさい」と、おどけた瑠璃が声のトーンをかえた。

「大変だったわね。よく、がんばりました」

 言葉の意味を理解するより早く、情動が体のおくそこから突きあげてきた。瑠璃にすがりついて、ちいさな子どものように泣きじゃくる。背中にまわった手があたえてくれる、未知の安らぎにとまどいながら。


 結が泣きやんだころ、琥珀が店に出てきて今日は泊まっていくようにいった。

 外泊の機会などなかった結だが、施設に申請が必要だとつたえると、すでに了承をとってあるという返事がかえってきた。

 ふたたび迷路のような居住部をとおって部屋をあてがわれたあとは、古風な、けれども現代の調理器具がそろったキッチンで三人そろって夕飯の支度をした。できあがった料理をテーブルにならべるころになると、結もいくぶんか平常を取りもどしていた。

 アンティークなダイニングでたべる夕飯は、結を物語の登場人物のような心持ちにさせた。春キャベツとアスパラガス、サヤエンドウのスパゲッティは歯ごたえがすばらしく、ゆでた新ジャガイモとツナ、新玉ねぎをあえてパセリをちらしたサラダは、季節の野菜のうまみを堪能させてくれた。

 食後のお茶をいれてくると席をたった瑠璃を見おくったあと、結が口をひらく。

「琥珀さん。……きいても、いいですか?」

「なんだ?」

「わたし、どうしておそわれたんですか?」

 わずかな沈黙。寄木張りで絵画的意匠をほどこすマーケットリーとよばれる技法によって、咲きみだれる花々が描きだされた猫足のダイニングテーブルで、植物をモチーフにした銀の燭台しょくだいの炎がゆれる。

「そうだな。こんなことがあった以上、しっておいた方がいいだろう。まずはすこし質問だ。結、縁とは一体なんだとおもう?」

「えっと、……なんでしょう。たまたまいいことがおこることとか……?」

「何かがおこるのには直接の原因がある。これを因というが、それとは別に間接的な原因もある。それが縁だ。たとえばそうだな。結がこの店を最初におとずれることになった直接の原因は、道にまよったことだった。これが因だ」

「あ、はい。そうでした」

「だが、もし結が手前の角をまがっていれば、この店にはこなかっただろう。あるいは親切な誰かが道をおしえてくれていたら。あるいは急な用事でアルバイトの面接にいけなくなっていたら。手前の角をまがらなかったのも、親切な誰かにあえなかったのも、急な用事がはいらなかったのも、すべて縁だ。お前の縁を結ぶという力は、こうした間接的な原因に作用する」

 不意にきづく。居住まいをただしたわけでもないのに、琥珀の輪郭が明確になっている。

「生きとし生けるものが有するさまざまな力のなかでも、縁を結ぶという力は希少だ。そしてそれは如何にしたところで、後天的に身につけることはかなわん。

 だがひとつだけ方法がある。力のそのものを血肉とすることだ。要するに力の所有者をえばいい。途轍とてつもない代償をはらうことになるが」

「あの人、わたしをたべようと、……したってことですか?」

「そうなるな。だが黛はもともと、恋人を待ちつづけるだけの無害な存在だった。お前をねらうような大それた真似はできん。あいつを穢した何者かにそそのかされたとかんがえるのが妥当だろう」

 結は琥珀の表情にかすかな違和感をかんじたが、すぐにそれは見えなくなった。

「とはいえ、結がおそわれることに考えがいたらなかったのは、私の責任だ。すまなかった」

「あ、あやまらないでくださいっ。琥珀さんがたすけてくれたんですから。もし、きてもらえなかったら……」

「心配無用だ。眞白がいる」

「眞白がどうしたんですか?」

「頼りになるぞ? なみの化生のものでは手も足もでまい。雷神の眷属けんぞくだからな」

「そう、なんですか……」

「最初に無意識に力をふるったときから、結のことは化生のものたちのあいだでうわさになっていた。そしていま、結が自分をしばることで微弱になっていた力は、すこしずつ本来の輝きを取りもどしつつある」

「自分をしばるって、どういうことですか?」

「縁とはものとものとのあわいをむすぶものだ。結はいままで周囲と距離をおいてきただろう? それが自縛だ。体現できぬ力は、あってなきがごとしだ。わかるか?」

「はい……」

 よし、とうなずいた琥珀がりんとした表情になる。

「これからさき、その力をねらうものがあらわれないという保証はない。だがひとつ約束しておこう。私と瑠璃がかならずお前をまもる。そうした輩には指一本ふれさせん。その力をのぞんだ以上、私たちにも責任がある」

「ありがとう……ございます」

 結の肩で眞白がみじかくないた。お前もいたな、と琥珀が目をほそめる。

「いますぐでなくていいが、それをふまえたうえできめろ。その力をどうするか。向きあってみがくか、手ばなしてわすれるか」

「……わかりました」

「いい子だ」

 琥珀のうかべた笑みは、結の心をあたたかくした。


「むつかしい話をしてるわねー」

 トレイをもって瑠璃がもどってきた。人数分の紅茶を用意したあと、チョコレートをもった小皿を差しだす。

「お茶請けもどうぞ」

「気がきくな、いただこう」と、ひとつ口に運んだ琥珀が動きをとめた。

「瑠璃、お前……謀ったな?」

「なんのことかしら」

「これは……」

「これは?」

 ぐい、と瑠璃の方に身を乗りだした琥珀は――、

「実に美味いな」と表情をゆるめる。

「そうでしょ?」

「ああ。いうことなしだ」

 満足そうにうなずく琥珀に、困惑した顔で結がたずねた。

「あの……、どうしたんですか?」

「いや、まったくどうもしないぞ? ああそうだった。眞白、ちょっとここにきてみろ」

 琥珀は自分の膝のうえをしめした。遠慮しながらはかまにのぼった眞白をじっと見つめた彼女は、おもむろに手をのばした。

「もっふもふだな。……うん。実にもっふもふだ、もっふもふ」

 にあわない言葉を連呼しながら、琥珀は満足げに眞白をでつづける。

「琥珀さん?」

「……そういえば、結は、どうなんだ?」

「へ?」

 立ちあがった琥珀は、椅子をもって結のとなりにきた。足取りがあやしい。

 どれ、と結の頰にふれた手があつかった。あたたかいのではなく。顔をふたつの手のひらでつつまれ、うえをむかされる。おどろくほどながい睫毛まつげにいろどられた切れ長の瞳が、きづけばすぐそばにあった。あまりの至近距離に心臓が一回ぬかしてうつ。

「あ、あの……」

 真剣な表情で結を覗きこんでいた琥珀は、そえた手でいきなり両頬をつぶした。つづけてぐにゅぐにゅと揉みはじめる。

「こ、琥珀……ひゃん?」

「ふむ。ぷにっぷにだったか、なるほど。眞白、もう一度ここにきてくれるか?」

 あるときは結と眞白を同時に、あるときは片方ずつをさわりながら、琥珀はうれしそうにいう。

「ぷにっぷにともっふもふ。なんともぷにもふだな。……いや、もふぷにか? ふふ」

「る、瑠璃ひゃん。……琥珀ひゃん、どうひゃちゃったんでか?」

「結ちゃんもおひとつどうぞ」

 瑠璃はチョコレートをひとつつまむと、結の口にいれた。

 かるい歯ごたえでくだけ、なかからシロップのようなものがあふれる。口一杯にひろがった華やかな風味と甘さは、チョコレートの苦味を引きたてた。

れって……、お酒でか?」

「ちょっぴりね。ウイスキーボンボンっていうの」

「なんだか、つかい味です。――もて琥珀ひゃんって……」

 ご名答、と瑠璃が片目をとじる。

 それから十五分ほどのあいだ、琥珀は上機嫌で、もふもふ、ぷにぷに、と繰りかえしていた。


 両腕を枕にして、琥珀はおだやかな寝息をたてている。無防備な寝顔は普段よりおさなくみえて、結はとまどった。

「どうして、こんなことしたんですか?」

「こんなことって?」

 瑠璃が琥珀の肩にブランケットをかけながら尋ねかえす。

「お酒です」

 ああ、とわらった彼女は、

「すこし、羽目をはずさせてあげようとおもって」

「羽目、ですか?」

「この子ね、本当はいま、とてもつらいはずなの」

「そうなんですか? 全然わかりませんでした」

「つらいことは絶対おもてにださない子だから。

 琥珀なのよ。好きな人をまつうちに時のはざまに迷いこみ、自分の名前すらわすれても、まだあきらめられなかった女性に、黛という名前をあたえて、存在しつづけることをゆるしたのは。あるべき場所を見つけてほしいとおもっていた相手を剪るのは、つらいことだわ」

「……やさしいんですね」

「ええ、やさしいっていうのは、琥珀みたいな人のことをいうのよ」

「琥珀さんのことを、そんな風にかんがえられる瑠璃さんも、です」

「そうかしら……」

「はい、わたしはそうおもいました」

 ありがと、と瑠璃は微笑んだ。

「さあ、琥珀をねかせてあげないとね。あとはあたしがやっておくから、結ちゃんは部屋にもどって」

「洗いものくらいさせてください」

「そう? じゃあお願いしようかしら」

 キッチンに食器を運ぶ結を笑顔で見おくったあと、瑠璃はつめたい声でいった。

「さっきからのぞいている人、いい加減目障りよ」

 窓のそとにむけた鋭利な視線に力をこめる。硝子に亀裂がはしるような音がした。塀のうえで一匹の猫が目をまるくしていたが、やがて何事もなかったように歩みさっていった。


     ★☆★☆★


 仄暗ほのぐらい室内で、彼は雷にうたれたように体をふるわせた。

 みじかくうめき声をもらして眉間に手をあてる。つう、とながれた紅い筋ととも含みわらいがもれた。

「気づいたか。なかなかするどい」

 きしむパイプ椅子から立ちあがって窓際にむかう。あついブーツの底が四散した硝子片をくだいた。

 さえた月光をあびる雲は、わずかな時間も形をとどめることなく、つよい風に吹きちらされていく。

「黛では役不足とはおもったが……、想像以上だ、瑠璃琥珀堂」

 縦長の瞳孔をもつ双眸そうぼうを夜空にむけた彼は、狂気をおびた笑みをうかべた。

「いい狩りになりそうだ。せいぜい俺をたのしませてくれよ」

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