花鋏

 結は自転車のブレーキをにぎった。瑠璃琥珀堂への帰り道の途中である。

 周囲を見まわして首をかしげる。はじめてきた場所だからか、一向にしった道に行きつかなかった。

 おおまかな方向だけでもわかればと、町の中心にある城山をさがすが、建ちならんだ家々の影にかくれているのか見つからない。かたむいた陽射しにそまる空の赤が、いやに目についた。

「すみません、瑠璃琥珀堂のかたですよね?」

 消えいりそうな声に結は振りかえる。二階建てのアパートのまえに、女性がたたずんでいた。

 二十代前半ほどで、端正だがどことなくさみしげな顔だちだ。結いあげた黒髪に、半袖のニットと膝丈のプリーツスカート、パンプスという清楚せいそなコーディネイトは、あわい色でそろえてあるためか、彼女の印象をうすくかんじさせた。

「なくしたものを見つけてくださるんでしょう? おねがいしたいものがあるんです」

「ご、ごめんなさい。わたしアルバイトなので……。お店で瑠璃さんか琥珀さんに話していただけますか?」

「とても大切なものなの。お話だけでもきいてもらえません?」

「……あの、本当にわからないんです。ごめんなさい」

「話くらいできるでしょう? 私の家、すぐそこなのよ」

 女性が結の手にふれる。ひどく、つめたかった。おどろく結に女性が微笑みかける。

「すぐすむから。本当にすこしだけ。ね?」

「で、でも、わたし……」

「とてもこまっているの。だからね、おねがい。たすけて」

 結の背中に手がまわりかけたとき、自転車のかごから肩に駆けのぼった眞白が牙をむいた。

「眞白? どうしたの――」

「――雷獣っ!? こんなものが一緒だなんて、あの男ひとことも……」

 この人なにかおかしい、結はようやく気づく。にげようと背をむけたとき、耳鳴りをともなった痛みが頭蓋を走りぬけた。

 ふらつきながらもどうにか踏みとどまってまぶたをひらく。声がもれた。

「え? うそ……」

 まっすぐな道がどこまでもつづいていた。あわてて振りかえる。反対もおなじように、果てしない一本道だった。

 夕日の赤で塗りこめられたみちには、人どおりもない、車もない、それどころか一切の物音がない。肩にのった眞白が敵意を剥きだしにする相手の様子を、おそるおそるうかがった。

 深淵しんえんの表層をおおった薄らに似た、うつろな瞳だ。女性は、うかされるように口をひらく。

「だめよ。にげないで、……おねがい」

「い、いや……」

 女性がひとあし距離をつめる。結が後ずさりする。

「どうしてもあなたの力が必要なの……」

「……こないで」

 手をのばした女性の肌が、あおじろく変色していく。

「そのためだったら私……」

「――うちのアルバイトをどうするつもりだ? まゆずみ

 背後からきこえた声に振りかえる。涼やかな目元をした女性の、凛乎りんことしたはかま姿があった。彼女の名をよぶふたつの声がかさなる。

 歩みをすすめてまえにたつと、琥珀は結を振りかえった。

「もう大丈夫だ」

「……琥珀さん」

 夕日にむかっているせいか、肩ごしの笑顔がまぶしくて、結はつよく瞼をとじる。目頭があつかった。

 さがっていろ、とつげた琥珀は、黛とよばれた女性に向きなおる。

「どうした? らしくない行動だ、随分と」

「あの人に、会いたい……」

 黛はみる間にやせ細っていく。筋ばった手に、ながい爪がのびていく。

「お前、けがれているぞ? なにがあった」

「あの人が……にくい」

 ほどけた髪が垂れさがる。眼球が零れおち、空虚な眼窩がんかがのぞく。

「ちがうぞ。お前はその男を愛している」

「私をすてたあの男が、にくい」

 口ばかりがおおきくなっていく。空虚な漆黒をたたえた口腔こうこうが、ぽっかりとひらかれる。

「そうではないだろう。思いだせ、なぜその男をまっていたか」

「私は、あの男を……ころす。……にくい、くやしい。邪魔するなら琥珀、お前だって!」

「しっかりしろ、黛!」

「琥珀っ!!」

 その姿からはかんがえられない機敏さで、黛が跳躍した。一気に距離がつまる。琥珀の胸元めがけ右腕を突きだす。鋭利な爪がせまる。だが琥珀は微動だにしない。

「琥珀さん!」

 ようやく声を絞りだした結は、目をうたがった。琥珀は忽然こつぜんと消えうせていた。あたりを見まわしてふたたび驚く。彼女の姿は数メートルむこうにあった。移動する場面だけをとばして映像をつないだように。

 ゆっくりと振りむいた琥珀は黛を見すえる。

「もうもどれぬか。ならば私のやることはひとつだ、黛」

 月の光のように凛然りんぜんとした、清浄で、硬質な声だった。

 琥珀はまっすぐにのばした手を身体の正面であわせると、さやをはらうようにして虚空から剣をぬいていく。刃はながく伸びていき、彼女が両腕を開ききったところでようやく切っ先が姿をみせた。

 湧きたつ雲のような地肌に優美な波紋をまとった、琥珀自身の内面を顕現したような麗しくも凄然とした大太刀である。自分の背丈ほどもある長大な刀をたてると、顔の右に引きよせ、左足を一歩まえにすすめてぴたりと動きをとめた。見ほれるほどにうつくしい八双の構えだ。

 まっすぐにむけられた目差しに気圧されて後退しかけた黛の心の奥底で、ふたたび憎悪の炎が燃えあがった。なんの前触れもなくおとずれた衝動に激しく身体をふるわせた彼女の姿が、さらに禍々しく変貌していく。

「くるしいか?」

「ころす、ころす……、みんなみんな……」

「こい、私はここだ」

「…こ、は、……く」

「黛っ!」

「琥珀ーっ!!」

 黛が、ふたたび翔けた。振りあげた両腕に、憎しみを、悲しみを、渾身の力をこめ、目のまえの琥珀に叩きつける。あるいは自身を見すえる、一点の曇りもないオニキスのごとき瞳に、すがりつこうとするように。

 両手が宙をなぐ感触をつたえた瞬間、黛は不思議な安らぎにみたされながら、瞼をとじ、おとずれるものを受けいれるべく、かいなをひらいていた。

 目にもとまらぬ体さばきで、黛のわきを擦りぬけた琥珀は降りおろした刀を中段にかまえ、残心――相手の反撃にそなえて構えをとかぬ姿勢――をくずさぬまま振りかえる。永遠にもおもえる静寂ののち、黛が地にたおれた。駆けよった琥珀が抱きおこす。苦しげに微笑んだ彼女は、もとの容姿を取りもどしていた。

「なぜ、穢れた」

「……付けこまれました。気の迷いに」

「なぜあせった。きっとお前もみちびけた」

 琥珀の腕のなかで、黛は次第に光の粒子に変わっていく。

「いいんです。……これは、報いです。いつまでも……あきらめられなかった私の……。ありがとう、琥珀さん。……とめてくれたのがあなたで、本当によかった……」

 はかなげな、だが満たされた笑顔だ。一瞬のきらめきののちに光が四散すると、一輪の花がのこされた。綿花に似た花弁の純白に、わずかな赤黒い染みがある。

「かなしい女だ。自分の名すらわすれるほどの星霜を、かえらぬ恋人を待ちつづけただけだというのに」

 畏怖すらおぼえるほどの清澄な声であった。まばたきもできずにいる結の目前で、琥珀の手にひとすじの光がそそぐ。

 光がさったとき、彼女の手には巧緻な意匠のあしらわれた銀の花鋏はなばさみがあった。琥珀はそっと花をる。いたわるように、いつくしむように。

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