淑乃

 瑠璃琥珀堂のエプロンをつけた結は、自転車をおしてあるいている。

 迷いもの帳と書かれたノートをたしかめた琥珀から指示された届け先は、かつて城下町としてさかえたこの町のなかでも、格式ある家が建ちならぶ地域だった。

 表札をたしかめながら歩みをすすめた結は、瓦屋根のある漆喰の塀にかこまれた一軒の家のまえで立ちどまる。

 ひさしがふかくとられた背のたかい門は白木の木肌がうつくしく、繊細な格子戸からつづく玉石を敷きつめた石畳の両脇には、花が咲きほこっていた。生唾をのむ。邸宅とよぶにふさわしい純和風の建築だった。

「こ、ここだよね。やっぱり……」

 あまりの格式のたかさに戸惑いつづけること十分、さらには呼びかけようとして力なく吐息すること十五回、何度か頭をふったあとにおおきくうなづいた結は、しゃがんで手をのばす。腕をつたって肩に登ってきた眞白と頬を合わせると、何度か深呼吸してから、表情を引きしめて立ちあがった。

「あの、瑠璃琥珀堂です。……お、お届けものを、おもちしました」

 トートバッグの鈴がすんだ音をたてる。間もなくあらわれたのは、以前に瑠璃琥珀堂でみかけた初老の女性だった。

「あらあら、こんにちは。あなたがいらっしゃるとはおもわなかったわ」

 品のよい笑顔を浮かべた着物姿の女性に会釈して、結は紙袋を差しだす。

「こ、こんにちは。淑乃さんですか? あの……これ、ご依頼いただいていたものです」

「ずいぶん早かったのね、もっとかかるってきいてたのに」

 受けとって中身をたしかめた淑乃は、同封されたカードに目をとおした。

「あなたが見つけてくださったのね、どうもありがとう」

「いいえ、わたしただ……ひろっただけですから」

「手紙のことをあなたに話すようにって、琥珀さんがおっしゃってるのだけど、こんな可愛いらしいお嬢さんにおきかせするようなことかしら」

「はい、おしえてください。……もし差しつかえなければ」

 真剣な表情になった結に、彼女はおだやかにうなずいてこたえる。

「わかったわ。でもこんなところで立ち話をするわけにはいかないわね。もうご存知かもしれないけれど、私がみえるのは特別な人だけなの。普通の人にはあなたが独り言をいっているようにしかみえないわ、きっと」

「あの。わたし、鈴をあずかっています」

 結がエプロンのポケットから鈴を取りだす。以前に琥珀がつかっていた、まわりから認識されなくなるという鈴だ。

「さすがは瑠璃琥珀堂さんね、ぬかりないわ。じゃあ、鈴をおあずかりしていいかしら。お庭にご案内しましょう」


 淑乃は縁側に面した庭に結をみちびいた。

 花海棠はなかいどうが見ごろをむかえた春の庭は、すみずみまで手いれが行きとどいているが、あかるい色彩のなかに、結はかすかな違和感をおぼえた。

「お庭、綺麗ですね」

「ありがとう。主人がよろこぶわ」

「……でも、なんだか」

「なんだか?」

「ち、ちょっと、お花がさみしそうっていうか、……ごめんなさい」

「いいのよ。やっぱりわかる人にはわかるのね。これからお話しすることとも関係があるの。本当は人様におきかせすることではないのだけど――」


 ながく子供にめぐまれなかった夫妻にとって、ようやく産まれた一人娘は、なににもまさる宝であった。

 大切にしすぎたせいか、やや世間しらずではあったが、気だてのいい女性に成長した娘は、違う町にある大学にすすんだのちに、この町の市役所で職をえた。

 数年ぶりの親子三人の暮らしは、以前とおなじようにおだやかにすぎていった。変化がきざしたのは、娘がひとりの男性をつれてきたときだ。


「まっすぐな目をした男の人がね。お嬢さんと結婚させてください、っていったの。主人はしぶったのだけれど、そんな好青年に頭をさげられたら、だめだなんていえないでしょう?」


 夫の正孝は昔気質で気むずかしい性格ではあったが、愛する娘が幸せになるのであればと、最後には折れた。男性は足しげくおとずれ、正孝との距離もちぢめつつあった。

 だが、そんな幸福な日々は、唐突に終わりをむかえる。ある雨の夜、痛みをうったえた娘の体調が急変し、病院に搬送されたのだ。切迫流産であった。

 ちいさな命はたすからなかった。悲しみに打ちひしがれる娘をみたとき、なぜ娘がこんな目に遭わねばならぬのかという憤りが正孝の心を染めつくし、激情はすべて、男性へとむけられることとなった。

 幾度となくもたれた話し合いも決裂し、最終的に娘は、実家を飛びだして彼のもとへ嫁いだ。


「あれから十五年。私は折をみてふたりと会っていたのだけど、主人はまだ、家の敷居をまたぐことさえゆるさないの」


 自分が病気でながくないとしったとき、淑乃は正孝にあてて手紙をつづった。彼が娘夫婦と和解することをねがって。ひとりのこされる彼が、孤独にさいなまれぬようねがって。

 しかし、思いはとどかなかった。淑乃の死後、正孝は机の奥ふかくに手紙をしまいこんだ。娘夫婦が弔問におとずれることもゆるさず、家に閉じこもり、日がないちにち庭の手いれだけにいそしんでいる。


「本当はね、すごくやさしい人なのよ。このお庭もね、いつ私がかえってもいいように、手いれをかかさずにいてくれるの」

「それでこのお花たち、なんだかさみしそうなんですね……」

「ええ。主人の気持ちはとてもうれしいけれど、それじゃだめなのよ。いまという時間は、いきている人のものだから。今いる人を大切にして、いま幸せになってほしいの。私はもう、充分に愛してもらったから」

 淑乃は、純粋な思いにきざした、いだ笑みをうかべた。

「主人は……、この手紙を読んでくれるかしら」

 まっすぐにむけられた瞳を、結は真向きに受けとめてうなずく。なじみになった感覚が身体にみちていた。言葉をつげる。とぶ鳥がはばたくように。太陽は東から昇ると話すように。

「読んでくれます、きっと」

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