迷い浜

 瑠璃琥珀堂のなかはあたたかく、こわばった結の心をほぐした。

 琥珀の姿はなく、日だまりになったカウンターで瑠璃がティーポットにお湯をそそいでいる。

 結に気づいて彼女が微笑んだ。今日は前髪をポンパドールにしてまとめており、ゆるく編みこんだ肩ほどの長さの髪が、陽光のなかで金色の縄のようにかがやく。

「おはよう。今日もいいお天気ね」

「……おはよう、ございます」

 鼻のおくにかんじたしびれをやりすごして、結はこたえた。

「すわって、いま紅茶が入るから」

「ありがとうございます」

 いわれるままにスツールに腰をおろした結のまえで、瑠璃はティーポットから立ちのぼる湯気をふたでふうじると、キルトのティーコジーをかぶせる。

「なにか、あった?」

 結は不意をつかれて顔をあげる。名前とおなじ色をした瞳が、まっすぐにむけられていた。

「べつになにも……ない、です」

「そお?」

「水上さんっていうクラスメイトがパン屋さんに連れていってくれて、そのパン屋さんは最初のお届けもののときにたまたま会った人のお店で、眞白がずっとそばにいてくれたってわかって、パンはすごく美味しくて、猫神社は猫でいっぱいで、水上さんと友だちになって。……いいことしかなかったんです」

「そのわりにはお顔がくらいわね」

 口をひらきかけた結は、ドアチャイムの音で振りかえる。ちいさなバスケットをさげた琥珀の姿があった。

 おかえりなさいというふたつの声に応じた彼女は、カウンターまであるいてきて籠を差しだす。綿花のようなものが入っているのがみえた。

「瑠璃、これをたのむ」

「おつかれさま。紅茶、のむ?」

「ああ、いただこう」

 琥珀が結の右隣にすわり、瑠璃は紅茶をいれる。

「美味いな」とうなずいた琥珀はティーカップをおいて、

「ここは落ちつく。私がいうのもなんなのだが」

「いいんじゃないかしら? あたしたちがつくってきたお店なんだから」

「あの、このお店は瑠璃さんと琥珀さんのものなんですか?」

「そうといえばそうだが、共同経営というかオーナーというか、そういう人間がもうひとりいるな。滅多に顔をださないが」

「おふたりはこのお店が大切ですか?」

 おのおのに肯定した瑠璃と琥珀をみたあと、結はティーカップに目をおとした。

「わたしもちいさなころ、宝物がふたつ、ありました。

 ひとつめはうさぎのぬいぐるみ、幼稚園のときにクリスマスのプレゼントでもらったもので――」


 言葉をつむぐうち、結の目のまえになつかしい光景がひろがった。

 一番ふるい記憶だ。ホームには日向の匂いと、にぎやかな声がみちている。

 ホームにはたくさんのおもちゃがあって、あそぶにはこまらなかったが、自分だけのおもちゃ、というものをもっている子がいた。

 そういうものがふえるのは特別な日で、先生によばれた子がおめかしして、迎えにきたお父さんやお母さんと出かけていった。

 おめかしにお出かけ、お父さんやお母さん、そして自分への贈り物、そんな特別が一度におとずれる日がうらやましくて、どうすればお迎えがきてくれるのかをかんがえた。友達となかよくしていれば、先生のいうことをきいていれば、好き嫌いをしなければ、思いつくかぎりためしてみたけれど、結をたずねてくるものはなかった。

 ある冬の朝、目ざめると枕元にみなれないものがあった。

 昨日の夜までなかったそれは、リボンがついた色あざやかな箱で、朝日のなかでかがやいてみえた。

 これはなんだろう、結が首をかしげて起きだすと、同室の子たちのベッドにもおなじように置かれていた。

 みんな興奮気味に包装紙を破りはじめた。結はおどろいた、誰のものかもわからないのに勝手にあけるなんて。

 シスターが現れた。しかられる、そうおもったけれど、彼女はしずかな笑みをうかべただけだった。

――結さん、サンタクロースを知っていますか?

 そうたずねられたので首をふってこたえると、丁寧な説明がなされた。すべては理解できなかったが、いい子にプレゼントをくれるやさしいおじいさんなのだ、ということはわかった。

 うながされるままに包装紙に手をかけた。やぶるのはもったいなくて、慎重にテープをはがした。

 入っていたのは兎のぬいぐるみだった。やわらかくてまっしろで、あかい目がつやつやしていてとても綺麗きれいだった。

 お父さんやお母さんはこなかったけれど、はじめて自分だけのものができた。抱きしめると気持ちよかった。ぬいぐるみはその日から、結の宝物になった。


「それからみどりちゃん。年長さんのときに施設にきた同い年の友だちで――」


 最初はあまりいい印象がなかったことを、結はおぼえている。

 ママ、泣いてばかりいるみどりが口にするのはそれだけで、おしゃべりする人形みたいだとおもった。

 施設の子はみんな髪がみじかかったけれど、きたばかりの彼女は、切らなくていいとシスターにいわれてながい髪をしていた。

 しばらくするとみどりは、その髪でみんなに三つ編みの練習をさせてくれるようになった。またしばらくすると、その髪をみんなとおなじ長さにした。

 そのころにはよくわらう快活な女の子にかわっていた。そして当時からひっこみ思案だった結と、なぜか気が合った。

 一緒だった、なにをするのも。実は大胆だったみどり発案のいたずらをしたり、しかられたり。施設のなかを駆けまわった。たかい空をみあげた。たのしくてただ笑ってばかりいた。まばゆい日々がすぎていった。


「でもある日、ぬいぐるみがなくなったんです。さがしてもさがしても出てこなくって――」


――きっとすぐ見つかるよ。

 みどりのその言葉に、結はおさない怒りを爆発させた。八つ当たりなのはわかっていた。しかし、激情はとめられなかった。

 ずっとうらやましかったのだ。自分よりあかるくてよくわらい、みなに好かれている彼女が。ときおり先生によばれておめかしをして、母親につれられて外出する彼女が。

 すぐあやまろうとおもった。けれどもなかなか勇気がでなかった。そうしているうちにみどりの荷物がなくなった。退所したとおしえられたとき、声をあげてないた。仲のいい友だちがいなくなってつらいのだろうとみんなから気をつかわれて、余計にくるしくなった。

 これは罰だ、と結はおもった。人をうらやんだから。もっと幸せになりたいと欲ばったから。嫉妬にかられて弟を追放し、飢えくるしんだ兄たちのように。みにくい欲望のために、焼きほろぼされた街の住人たちように。


「それまでは、ねるまえによく空想してたんです。あした目がさめたら、お迎えがきましたよ、って先生がよびにくるかも、お母さんかな、お父さんかな。どんな人なんだろうって。

 いたことがないから、親がいなくてさみしいってかんじたことはないんです。でも、わたしにだけいないっていうのがかなしくって、みんなみたいだったらいいのにっておもいました」

 みじかい吐息とあさい微笑みがこぼれる。なすすべをうしなったのちにのこる、たったひとつの行為だ。

「結局、誰もきませんでした。わたしにはないんですよね、みんなとおなじにはならない。

 いいことなんてないっておもっていれば、なくって平気なのに。いいことがあるとやっぱりうれしくて。もしかしたらまたって期待して。……でも、なくなることをかんがえたら、どうしようもなくこわくって……」

 ぽつり、とあついしずくがおちた。

「ねえ結ちゃん、海って好き?」

 脈絡のない瑠璃の言葉に虚をつかれる。

「え? 好き、ですけど……」

「琥珀。そろそろどうかしら、海」

「いいんじゃないか。気分転換にもなるだろう」

「じゃあ、これから海にいきましょう。みんなで」

 瑠璃と琥珀は、なぞめいた笑みをうかべた。


     ★☆★☆★


 琥珀は、更衣室としてつかっている部屋のおくの扉をひらく。

 廊下はなく、直接となりの部屋にでた。いびつな形をした空間にはいくつかドアがならんでおり、そのさきにはまた部屋があった。何度も繰りかえす。どれだけ扉をくぐっても、いりくんだ窓のない部屋がつづいている。首をかしげた結に、振りむいた琥珀がいう。

「はぐれるな、まよったらどこにでるかわからんぞ?」

 こわくなって足早にあとにつづいた。

 辿たどりついたのは、建物の裏手らしき部屋だった。店部分とおなじ多角形の構造だが、壁のかわりに天井が硝子張りになっており、漆喰しっくいの下半分が板張りの腰壁で、そこにいくつもの扉がならんでいる。

 ふたりにつれられてそのひとつをくぐった結は、目をみはった。

 信じがたいものをみせられてきたけれど、さすがに桁がちがう。そとは砂丘だった、それも夜明けまえか、あるいは日没後の。

 振りむけば瑠璃琥珀堂があるが、周囲に家屋はなく、荒涼たる砂丘がひろがっている。

 坂をくだった瑠璃と琥珀をおって、みぎわにちかづいた。

 砂浜には無数の漂着物があった。なかばうずもれたそれらは、あわい光をうけて凝然じっととたたずんでいる。サンタクロースが届けわすれたプレゼントのように。

「あの、ここ……どこですか?」

「迷い浜だ」と琥珀がこたえる。

「お店のうらですよね? ここって」

「その通りだが、店は境界にあって、さまざまな場所につうじている。迷い浜もそのひとつだ」

「そう、ですか……」

 ほかに言葉を思いつけなかった。見わたしたほのぐらい水平線に、いくつもの光がまたたいている。

「むこうに街が……」

蜃気楼しんきろうだ」

「綺麗。はじめてみました」

「ただし、光の屈折で起こる現象の方ではない」

「え?」

しんという巨大なはまぐりが気をはいて作りだしている」

「そう、ですか……」

 おなじ言葉を繰りかえすしかできない結をみて、琥珀が頬をゆるめた。

うそはつかないぞ? 私は」

「そう、ですよね……」

「気候がよくなったら船を調達して見にいってみるか。人によってちがうが、大抵うつくしい町並みがみえる。それに運がよければ、途中であやかしや赤えいと出会えるかもしれないしな」

「あやかしって、……おばけ、ですか?」

「おばけか。まあ、そうといえばそうだな。いくちという別名のある、とんでもなくながい魚だ。船のうえをこえていくことがあるが、普通のもので三時間ほど、おおきいものなら二、三日はかかる」

「に、二、三日……?」

「ただな、あいつらは甲板に油をおとしていくから始末がわるい。その点、赤えいに害はない。それになによりおおきいのがいい。十二キロほどあるのだが、背中にたまった砂をおとしに浮上してくる姿は実に豪快だ」

「じ、十二キロ……?」

 まあ、それはかくとしてだ、と琥珀が声の調子をかえる。

「すまないが流れついているものをなにかひとつ、ひろってくれるか?」

「なんでもいいんですか?」

「かまわん。ぴんときたものがあれば、それがいい」

「えっと、……じゃあ」

 足元に視線をはしらせた結は、ふとあるものに気づいた。しゃがんで慎重に砂をどける。ひんやりとした手触りが心地よかった。

 まもなく姿をみせたのは、無地の和封筒だった。表書きに住所はなく、藤堂とうどう正孝まさたか様、と雅馴がじゅんな筆遣いで宛名だけがしるされている。

「見せてもらっていいか?」

「どうぞ」

 琥珀は封筒の裏書きをたしかめて、うなずいた。

「なるほど、さすがだな」

「あ、あの……さっぱりわかりません」

「ここはな、迷ったものたちが流れつく場所だ」

「じゃあ、お届けものってここで?」

「そうだ」

「……もしかして、全部……とどけるつもりなんですか?」

「そうしたいとおもっている」

「これ、全部……」

 結はただただ呆気あっけにとられる。はるか彼方までつづく海岸線には、途方もない数の漂着物があった。

「琥珀さんにも瑠璃さんにも、べつのお仕事があるんですよね? それなのにどうして、こんなことをしようっておもったんですか?」

「もつれたままの糸をみていると、心がいたむからだ。お前をみても、そうおもう」

 琥珀の手がのびてきて、結の頭をなでる。やさしい手のひらだった。

 結のとなりにきた瑠璃が微笑む。

「まえに琥珀が結ちゃんのことを、適正がある、っていったのおぼえてる?」

「はい」

「あたしが、将来につながる人、ってよんだのは?」

「おぼえてます」

「結ちゃん。あなたにはね、縁を結ぶ、っていうちょっぴり特別な力があるの」

「縁を、結ぶ……?」

「そうよ。最初のお届けもののとき、十数年もきてなかった場所に、きた人がいたでしょう?」

「ご存知だったんですか?」

「まあね。あんなにすぐとは予想してなかったけど。それから、リンがずっと会いたかった子も」

「そんなの……偶然です。わたしべつに、なにも……してないですから」

「鳥たちが空をとぶのは、彼らが鳥だから。蜘蛛くもたちが巣をはるのは、彼らが蜘蛛だから。それ以上の理由はないわ。けれど彼らもそれができると、生まれつき知っているわけではないの。

 どうしてもとばなければならなくなって、巣をはらなければならなくなって、追いつめられて、切羽つまってそうする。そして気づくの、自分の力に。

 あなたも、おなじ。はじめて羽ばたいたばかり。自分ではとんだことに気づいていないけれど。あとは結ちゃん次第よ。えらべばいい、空をとぶか、地をあるくか。

 でも、おぼえておいて。あなたのその翼は、とても稀有けうなものだということを」

「けどわたし、急にそんなこと、いわれても……」

「すでにその力で、四人がすくわれている。まだしんじられなければ、たしかめればいい。本当に、とべるかどうか」

 琥珀がさきほどの封筒を差しだす。結は手をのばした。ふわふわと足元がおちつかない、空を飛んでいるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る