Chez K.

 その店は、商店街からすこし離れた角地にあった。

 こての跡をのこした漆喰しっくいの壁と木の扉が素朴でやさしげな印象だ。あかいテントにえがかれた「Chez K.」という文字をみた結は、夏帆にたずねる。

「お店の名前なんてよむの?」

「シェ・カ。Kの家っていう意味だって」

 夏帆につづいて扉をくぐった結の鼻腔びこうを、芳ばしい香りがくすぐった。

 それほどひろくはないが木目のあたたかさをいかした作りで、昼時だけあって混みあっている。おくの一面がレジカウンターとつづきのショーケースになっており、さまざまなパンが行儀よく整列していた。

 結は夏帆とともに、レジからのびた列の最後尾にならぶ。

「わたし、パン屋さんってはじめて」

「そっか。期待してくれていいよ」

 猫の可愛さをつたえるような口調で夏帆はうなずいた。

「ボクのおすすめでいい?」

「うん。おまかせする」

 レジのおくにあるキッチンから、パンがならんだ木製のトレイをもった男性がでてきた。食欲を刺激する匂いがこくなる。

 四十代中盤ほどであろうが、うかべた笑みはいたずら好きな子どものそれに似ており、無精髭ぶしょうひげがなければもっとわかくみえそうだ。身につけたダブルのコックコートにほどこされたパイピングは、ハンチングや膝丈のエプロンとおなじ茶色にそろえられている。

 ショーケースにパンを陳列しおえた男性が夏帆に気づいた。

「おっ、夏帆坊。いらっしゃい」

「いい加減おぼえてくれないかな、おじさん。ボクは女の子だし、坊なんてよばれる歳じゃない」

「わりい。なんつうか、癖になっててな。お目あてはバケットか?」

「うん」

「ちょうどいま、焼きあがったとこだ」

「ねらってきた」

「さっすが、わかってんな。……おい夏帆坊、となりにいんのは友だちか?」

「そうだけど?」

「はじめてじゃないか! 友だちつれてくるなんて」

「はあ?」

 結は、誰を相手にしてもかわらなかった夏帆が、ペースをみだされていることにおどろく。男性は腕組みすると何度もうなずいた。

「いや。実はな、心配してたんだよ。もしかして友だちいないんじゃねえかって」

「ボクだって友だちくらいいるし、デリカシーなさすぎだし、声おおきすぎだし」

「はずかしがんなって。いいもんだぞ? 友だちってのは」

 無理やりなでられている猫のような夏帆の表情を気にする様子もなく、男性は歯をみせてわらった。

 ふと結は気づく。二人のやりとりが店中の客から注目をあつめている。

 胃のあたりが浮きあがるような感覚をおぼえた。大丈夫、自分がみられているわけではない、心のなかでそう云いきかせて、落ちつこうとする。

「お嬢ちゃん、夏帆坊の友だちなんだってな」

「えっ?」

 急に声をかけられて顔をあげると、人なつこい笑顔があった。

 一斉にあつまった視線にみだれる呼吸をこらえて、どうにか声をだす。

「は、はい……」

「ちょーっとばかりかわってっけど、夏帆坊はいい子だからな。仲よくしてやってくれ。おじさんからのお願いだ」

 ぴっと親指をたてると男性は上機嫌で厨房ちゅうぼうにもどっていく。

 潮がひくようにそれていく視線をかんじながら、結は安堵あんどの吐息をこぼした。

「まったく、ほんとに余計なお世話だよ……」

 つぶやいた夏帆が結をみて心配そうな顔になる。

「大丈夫? 具合、わるそうだけど」

「うん、平気。ちょっと……びっくりしただけ」

「ごめん。おじさん、悪気はないはずなんだけど」

 ありがと、と結はさきほどの夏帆の笑顔をまねようとしたが、うまくいかなかったのは自分でもよくわかった。


 レジの列がさばけて結たちの番がくるころには、店も落ちつきを取りもどしていた。

 まだ時折むけられる視線からのがれるために顔をあげることもできず、結は夏帆とレジの女性とのやりとりをきく。

「夏帆ちゃん、いらっしゃい。……ごめんなさいね、うちの人が」

「いいよ、いつものことだし」

「そういってもらえるとたすかるわ。ハーフのバケットでよかったかしら」

「うん。それと春野菜とベーコンのキッシュ」

「お友だちとたべるの?」

「そのつもりだよ」

「じゃあ、ミニクロワッサンふたつサービスね。お友だちとどうぞ」

 反射的に顔をあげた結の目に、見おぼえのある顔がうつった。

「あら、もしかして……」

 そういいながら笑顔になったのは、はじめてのお届けもので会った女性だった。

 あのときはおろしていた肩ほどの髪をうしろでひとつにまとめており、右目のしたにほくろがある。さきほどの男性とおなじくらいの年齢だろうが、口調とおなじおっとりした顔だちのせいか、三十代でもとおりそうだ。制服のコックコートはボタンが一列のシングルになっている。

「あの時はおどろかせてごめんなさいね」

「い、いえ……」

 ふたたびあつまった視線をかんじて、結の動きがぎこちなくなる。沢山の人にみられるのはいやだ、手を握りしめた。

「おばさん、綾里さんと知りあいだったの?」

「まえにたまたまね。夏帆ちゃんのお友だちだなんて、世間はせまいわね」

 したしげな会話が交わされているのに、結はうすい膜をへだてているようにかんじた。周囲の視線がからみつく。指先がつめたくなる。呼吸があさくなる。

 ふう、と現実がとおくなり、つよく目をとじたとき、あの感覚があった。

 靴下を引っぱられてまぶたをひらく。眞白が靴下をくわえていた。

――ずっとそうやって、わたしに勇気をくれてたの?

 心のなかでこぼれた問いかけに、眞白はみじかい鳴き声でこたえた。ふんわりと心がふくらむ。

「綾里さん、大丈夫?」

「あ。……う、うん。平気」

 結はふかく息をすって、女性に頭をさげる。

「あの、……ありがとうございました。ごちそうになります」

「いいのいいの。こちらこそ何度もおどろかせてごめんなさい。もしよかったら、またきてね」

 女性はあのときとおなじ、あかるい笑顔でわらった。

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