夏帆の誘い

 教室がちかづいて、結は小走りになった。

 足元の眞白も速度をあげる。その姿があいらしくて、したをみながら角をまがったのがよくなかった。なにかある、と気づいたときはもうおそかった。とまりきれず衝突する。はずみでころびそうになったが、力づよい腕にささえられた。

 目のまえに、まだ見なれない校章がある。状況が飲みこめないでいると、頭のうえで声がした。

「ごめんね、大丈夫?」

「こ、こちらこそ、ほんとにごめんなさい」

「あれ? 君は……」

 顔をあげる。いつかの少年だった。至近距離で、おどろいた表情が笑顔にかわる。

「たしか、……このまえも」

「……あ、あの」

「どうしたの?」

「その、腕を……」

「あ、ごめんごめん」

 少年は結の背中にまわっていた手を放した。

「よくぶつかるね、僕たち」

「何度もごめんなさい」

「ううん。こんな可愛い子とぶつかるなら何度だって大歓迎かな」

 頬があつくなるのがわかって結はうつむく。

「ごめん冗談。いや、ほんとなんだけど。えーっと、可愛いはほんとで、ああ、大歓迎も本当か。僕、二年の中嶋なかじま智輝ともき。君は?」

「……綾里あやさと結。い、一年です」

 ますます下向きになりながらだした声は、自分にもほとんどきこえなかった。

「そっか、綾里さんね。じゃ」

「はい。じゃあ……」

 おそるおそる顔をあげる。智輝はあかるく手を振っていた。


 結は逃げこむように教室の扉をひらく。

 誰もいないと見こしていたが、そうではなかった。陽だまりになった窓際で、両腕を枕にひとりの女子生徒がねむっていたのだ。

 よこにむけられた端正な顔に光がそそぎ、頬にかかった髪とながい睫毛まつげをかがやかせる。結は息をのんだ。演奏中とは知らずにホールの扉をひらいてしまったように。

 初対面でいだいた印象のとおり、夏帆かほはクラスのなかで独特の存在感をはなっていた。

 特定のグループに属しているわけではないが、孤立しているわけでもない。気ままに渡りあるく姿が猫のようにかんじた。

 肩に登ってきた眞白の気配で、結は我にかえる。存在に気づいたいまでは、重さや体温をかんじるのが不思議だった。のばした指先に頬ずりする眞白がいとおしい。

 人と話すのは苦手だが、ほおっておくわけにもいかないだろう。意を決してちかづく。深呼吸してから呼びかけた。

「水上さん」

 ぴくり、と微かに体をふるわせた夏帆がまぶたをひらく。

「……やあ。おはよう、綾里さん」

「おはようって、もうお昼すぎだよ……?」

「たしかに、そうだね」

「どうしたの? 具合わるい?」

「ちがうよ。綾里さんをまってたらねむくなったんだ。ほらここ、すごく、あたたかい……から」

 おおきく伸びをする姿も、猫に似ていると結はおもった。

「なにか、ご用?」

「唐突なんだけど綾里さん。これからなにか用事はあるかな」

「二時からアルバイトだけど、それまではなにもないよ?」

「それはよかった。ボクのお気に入りのパン屋があるんだけど、いってみない? お昼ご飯に」

「いい、けど……」

「けど?」

「どうしてわたしを、……さそってくれるのかなって」

「ボクの経験。猫好きにわるい人はいないんだ」

「わたしって猫好き?」

 首をかしげた夏帆は、通りかかった人を観察する野良猫のような目を結にむけた。

「え? な、なに?」

「綾里さんは不思議な人だね」

「……どうして?」

「自分のことを人にたずねるから」

「自分のことって?」

「猫好きかどうか、ボクにきいたでしょ?」

「あ、あのね……いままでかんがえたこと、なかったから」

「ふうん。綾里さんはそんな風にかんじるんだね。ボクは綾里さんが猫神社にいたから、猫好きなのかなっておもったんだ」

「猫神社って……?」

「ほら、先週あったところ」

「あそこ、猫神社っていうの?」

「うん。みんなそうよんでる」

「そうなんだ。あのね? わたし、猫、すきだよ」

「そっか。それはいいね」

 目をほそめた夏帆は思いだしたように、

「そうだ。ボクはね、小学校のころからピアノをならってるんだ」

「どうしたの? 急に」

「ボクの番。アルバイトをしてる、っておしえてもらったから。ちっちゃなころにならわなかった? かわりばんこにあそぶんだ」

 水上さんの方がかわってるとおもう、そういいかけた結だったが、彼女が唇の両端をあげてつくった微笑みが綺麗きれいだったので、どうでもよくなった。

 職員室のまえにある公衆電話から、昼食はそとでたべるとホームに連絡する。もっとはやくかけるようシスターにいわれたけれど、秘密の冒険のはじまりのようで、胸が高なった。

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