待つ女の章
黛
花冷えの夜の虚空には、
あわい月あかりをあびながら彼は、寝しずまった住宅地をあるく。ネコ科の大型肉食獣をおもわせる、しなやかな
一軒のアパートの敷地に入って外階段をのぼった。金属を踏みつけるブーツの無骨な音がひびく。
外廊下をとおって部屋に行きつくと、呼び鈴もならさず扉をあけた。土足のまま上がりこんで廊下をぬけ、隙間から明かりのもれる居室のドアをひらく。鏡台にむかっていた女性に花ひらいた期待にみちた表情は、振りむくと同時にあからさまな失望へとかわった。
険のある目線に、彼は不敵な笑みでこたえる。
「久しぶりだな、
「いきてたのね。縄張りをうばわれて死んだってきいたけど」
「いつの話だよ。ちゃんといきてるぜ?」
「そう、よかったわね」
ぷいと鏡に向きなおった女性は、化粧を再開した。
さみしげな顔だちだ。年のころは二十代の前半ほどだが、ながい黒髪をおろしているので
ハイネックのカットソーと花柄のスカートという装いも、まるみのある脚が印象的なベッドやドレッサーに、あわい暖色のカーテンやラグといったインテリアも、この年代の女性がこのみそうな、ありふれたコーディネイトだ。
「そう邪険にするなって。いいことをおしえてやろうとおもってな」
「ききたくないわ。ノックもなしに女性の部屋に入ってくるような男の話なんて」
「あの男に関することでもか?」
一瞬、黛の肩がふるえた。反応をたのしむように彼は言葉を
「お前みたいないい女をずっとまたせてるなんて、本当に馬鹿な奴だが――」
「――あの人をわるくいわないで」
つよい光をやどらせた瞳に、彼は降参するように両手をあげた。
「失言だったな。わるかった。でもな黛、なにもかわらないんじゃねえか? いまのままじゃ」
「……わかってる。わかってるわよ、そんなこと。だからこうしてお化粧して、もっと
「――そうやって健気に待ちつづけて、一体どれくらいたった?」
「なにいってるの? あの人がまえにきたのは、たしか……」
「わすれちまってるんじゃねえか? 待ちすぎて」
「……そんなはずない。そんなはずないわ。だってあの人、またすぐきてくれるって」
「現実をみろ。きてねえんだよ、ずっとな」
「いやよ、いや。そんな話……ききたくない」
頭をかかえて縮こまった黛が震えだす。
「力をかしてやる。要はあの男がくるようになればいいんだ、簡単なことだろ?」
生まれたての
「おもしろい話をきいたんだがな? 縁を結ぶ力をもった人間の娘がいるらしい。その力さえあれば、あの男も必ずまたここをおとずれるさ」
「結んでもらうの? その子に」
「不充分だろうな。もしあの男の心がそれたらどうする。ものにするんだ。娘の力も、あの男も」
「どう、やって……?」
「簡単だ。
「なにいってるの? そんなことしたら――」
「――
「ほしい。……あの人がほしい」
「ならあとは勇気だけだ、ほんのちょっとのな。実はここだけの話だが」
彼は黛の耳元に口を近づけると、ふたことみことささやきかけた。彼女は
「まさか、……まさかそんなこと……」
「だが俺は手にいれたぜ? すげえ力をな」
「……でも、そんなことしたら」
うつむいた黛は突然、抱きすくめられた。懸命に押しのけようとするが、腕力の差がそれをゆるさない。
「じれってえな。勇気をやるよ、ほんのちょっとのな」
「や……だ! 離してっ!」
彼の口元から、ひとすじの赤い糸。唇を
唇を穢された直後、床に放りだされた。倒れこんだ黛は憤怒にたぎる瞳で
彼がふれた部分から溶解した鉄を流しこまれたような、
その様子を満足げにながめた彼は、苦痛にもだえる彼女にむかって身をかがめると、じゃあな、と云いのこして部屋をあとにした。
扉をしめたとき、雲がきれて月が姿をみせる。
まあたらしかったアパートは降りそそぐ光のなかで、本来の姿にかえった。外廊下の手すりは錆びつき、風雨にさらされた外壁のモルタルはすっかり黒ずんでいて、ことごとくガラスの砕けた窓からのぞく室内は荒れはて、生活の痕跡などない。
だるそうに肩をまわした彼がつぶやいた。
「ま、これで仕込みは完了だ。
含みわらいは、くちた外廊下に積もっていった。
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