猫の王

 鳥居からつづく石段のさきには、二本の注連石しめいしがそびえていた。

 瑠璃琥珀堂のエプロンをつけた結は、トートバッグのひもをにぎった手に力をこめる。瑠璃琥珀堂から自転車で二十分ほどの場所にあるこの神社が、琥珀からいわれた届け先であった。

 足元の眞白と顔を見あわせ、そろって階段をあおいだ。表情を引きしめると一歩目を踏みだす。

 ペンダントはないが、ここにくるまでのあいだ、結はあの声をきかなかった。かたときもそばを離れない眞白の存在も心づよく、昨日より足どりはかるい。

 だがそれも、石段を登りおえるまでであった。結は、わななきながら境内を見わたす。

「こ、これは……」

 神域は、ある生きものたちによって占拠されていた。参道や拝殿のまわり、はては石灯籠のうえまで、いたるところにその姿がある。

 鉤爪かぎづめと牙、ふたつの武器の性能を最大限に引きだすしなやかで瞬発力にすぐれた体の構造、そして最大の特徴ともいえる縦長の瞳孔を有する眼の暗視能力、それらはすべて彼らが狩人として進化し、勝ちぬいてきた証だ。

 白や黒、サビ、キジトラに茶トラ、三毛。さながら見本市のごとく猖獗しょうけつし、主のように闊歩かっぽするのは、無数の猫たちである。

 なんたるパラダイスかと吸いよせられかけた結は、仕事中だと思いなおしてこらえた。こんな場所であれば届け先にまちがいあるまいとうなずく。

「こんにちは。瑠璃琥珀堂です。あの、……お届け物をおもちしました」

 トートバッグの鈴が音をたてた。ふいに日がかげったような感覚につつまれる。

 だが誰もあらわれない。首をかしげてから、あたりを見まわしていると背後から声がした。

「どこみてんだ? こっちだこっち」

 振りかえると境内のすみのベンチに、わかい男性の姿があった。

 銀の髪はアシンメトリーにカットされており、ながい前髪のおくにのぞく瞳の色は緑だ。ととのった鋭利な顔だちで長身痩躯そうく、服は黒を基調にしており、過剰なシルバーのアクセサリーが目をひいた。

 この町ではみかけないセンスにとまどいながら、結はトートバッグから紙袋をだす。

「あ、あの……リンさん、ですか? ご依頼人の。これ、お届けものです」

 はいよ、と受けとったリンは中身をたしかめて、

「まちがいねえ。ご苦労さん」

「では、わたしはこれで」

 頭をさげた結の足元をみて、リンがいう。

「雷獣をつれた気のよわそうな人間の娘、うわさどおりだな」

 動きをとめた結はゆっくりと顔をあげた。

「……ほんとにわたし、噂になってるんですか?」

「いきなりあれだけのことをやりゃあな」

「え? わたしべつになにも……」

「おどろいたな、ほんとに自覚なしか」

 空をとぶペンギンを目にしたようにつぶやいたリンは、

「ならすこし、オレの話を聞いてみる気はないか?」

「お話、ですか?」

「ちょっとした身の上話だ。すぐおわる。それにもし噂が本当なら、オレもありがたい」

 リンにうながされて、結は街並を見おろせる石のベンチにすわった。彼が瑠璃琥珀堂の紙袋から取りだしたのは、マカロンのえがかれたハンカチであった。


 リンがそのおさない少女をひろったのは、この町の猫を統べるものとなって幾許いくばくかの星霜をへたころであった。

 猫の姿でテリトリーを巡回中、みちばたにしゃがみこんでいる少女を発見してその瞳をみた瞬間に、彼は事情を察した。群れをおわれたのだと。

 猫には二種類ある。餌場を分かちあうことにむくものと、狩りにむくもの。この小娘は後者だ、群れの暮らしはできまい、そう判断した。

 ただの気まぐれ、あるいはおさない瞳のおくにねむる誇りたかき魂に、興味をひかれたのかもしれない。リンはおおくの猫たちの生活圏がかさなるこの神社へと、少女をみちびいた。

 それから彼女は、まいにち神社にあらわれた。群れない猫としての挙措きょそを時間をかけて身につけ、一匹の猫としてしられるようになっていった。彼はその変化を、好ましいものとかんじた。

 ある日、少女がかえったあとに、一枚の布きれがおちていた。

 リンはおもった。小娘がきたとき、目につくところに置いてやろう、どうせ明日がある。なにもうたがわなかった。

 ところが明日はこなかった。彼は争いに敗れ、縄張りをおわれたのだ。

 不満はなかった。強いものが縄張りを手にするのは当然だ。リンもそうして王の座をえた。ただひとつの心のこりは、ハンカチを返しそびれたことであった。


「――この春にテリトリーを取りもどしたが、ハンカチはどこにもなかった。小娘もあらわれない。ながいんだろうな、人間にとっての三年ってのは。オレたちにしてみればあっというまだが」

 できれば返してやりたかったんだがな、とリンは吐息をもらす。

 なにがきっかけになったのかはわからない。だが結は、昨日とおなじ感覚が胸にみちていることに気づいた。説明のつかない確信があふれる、言葉の形をとって。

「きっと、……渡せるとおもいます」

 こぼれた確信は世界にひろがっていった。おどろいた顔で結をみたリンが、石段に視線をむける。

 ひとりの少女が階段を登ってきた。結に気づいて僅かに目を見ひらく。夏帆だ。

 彼女の瞳は結のとなりにむけられる。さきほどまでリンがすわっていた場所には、一匹の猫がいた。銀の毛並みがうつくしく、威厳すらかんじさせる瞳は緑色をしている。

 血相をかえて駆けよってきた夏帆が、猫を抱きしめた。

「ずっと、心配してた。ずっとずっと、さがしてた。……急に、いなくなるから」

 声が、ふるえだす。鎮守のもりのさざめきに、嗚咽がまざる。夏帆のしずくがおちるたび、リンはかすかに体をふるわせた。


 夏帆があかい目で微笑むまでには、しばらくの時間を要した。

「みっともないところをみせてしまったね」

「う、ううん。もう、……平気?」

「大丈夫だよ、うれしかっただけだから。彼はね、ボクの大切な友人なんだ」

「そうなんだ」

 夏帆は教室で会ったときとおなじ表情になった。結はおそるおそるたずねる。

「あの……、わたし……おかしなこといった?」

「いってないよ。猫が友人ってきいても、変だっていわないんだね。綾里さんは」

「あ、うん。別にそのくらい……」

 おかしなこととはおもえなかった、いまの結にしてみれば。

「友人でもあるし恩人でもある。ボクが小学生のころに急にいなくなって、それからずっとさがしていたんだ」

 いま思いだしたように、リンはもがいて夏帆の腕から抜けだした。

「ああ、ごめん。つい抱きしめてしまった」

「どうしたの?」

「彼は、なれなれしいのは好きじゃないんだよ。かんがえてみたら、ふれたのは初めてだ」

 じっと夏帆をみていたリンは、ふいと顔をそむけると拝殿の床下に消えていった。

「気をわるくしたかな。せっかく会えたばかりなのに」

「そんなことない。……とおもう、多分」

 確信があるが歯切れはわるい。すぐにリンは戻ってきた。ハンカチをくわえて。

「これ……ボクがずっとまえになくした……」

 膝のうえにおとされたハンカチとリンの顔を、かわるがわる見くらべた夏帆がいう。

「なんだか今日は、奇跡みたいな日だ。なんとなくここにきてみたら、綾里さんがいて、リンがいて、ハンカチがあった……」

「あれ? ……リンって――」

 名前しってるの? と尋ねかけた言葉を結はあわてて飲みこんだ。

「彼の名前、ボクが勝手にそうよんでるだけだけど。彼はどうおもってるんだろうね、実際のところ」

 ちらりと結をみたリンは、すぐに目をそらした。


     ★☆★☆★


 拝殿につづく階段にすわって、リンは石段をくだる結と夏帆をながめていた。

「噂どおり、か。人間にしちゃ強すぎる力だ。……にしても、随分と過保護だな」

 振りむいたリンの視線のさきには、ひとりの女性の姿があった。

「念のためだ。うちの大切なアルバイトだからな」

「そりゃご苦労なこった。琥珀様ともいうあろうおかたが」

「どうということはない。ところでリン」

「なんだよ」

「ここのところお前の眷属が相次いでおそわれているらしいが、なにか心あたりはないか?」

「しらねえなあ。この町に何匹の猫がいるとおもってんだ」

「お前がしらないのであれば致し方ない」

「あんたらのよくない癖だぜ? 余計なことに首を突っこみすぎるのは」

「性分でな。なにか思いだしたらしらせてくれ」

 琥珀が歩きだす。彼女の背中をみるリンの瞳は、一転してするどかった。

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