眞白

 ドアチャイムのまるい音に、結は瞳をとじて聞きいった。

 瞼をひらいて扉のおくにすすむ。三方が硝子張りの瑠璃琥珀堂にさした光のうむ明暗が、かさねたながい年月をかんじさせる店内の風合いを引きたてていた。

 寄せ木張りで花の模様がえがかれたテーブル席のひとつに、着物をきた初老の女性の姿があった。かたわらにたった琥珀は、彼女と話しながらノートをとっている。

 和装のふたりのたたずまいがあまりに自然で、制服をきた自分に違和感をおぼえた結に、女性は莞爾にっこりと微笑みかけた。既視感で体から心がはなれたような気分になる。

「あら、可愛いらしいお嬢さんね」

「こ、こんにちは」

「結、すまないがカウンターでまっていてくれるか?」

「はい」

 ふたりに会釈して結は店のおくにむかう。こんな風がわりな店に、客がおとずれることを意外におもいながら。

 女性が店をさると、琥珀はトレイにコーヒーカップをのせて、カウンターにもどってきた。

「そんなに客がめずらしかったか?」

「え?」

「顔にかいてある」

「うそっ?」

 あかくなりながら顔をかくす結に苦笑した琥珀が、

「よびつけておいて申しわけないのだが、あとすこしだけ時間がほしい」

「どうしたんですか?」

「瑠璃が本業の仕事中でな。もうすぐおわるのでコーヒーをいれてやりたい」

「そんなことならいくらでもまちます」

「すまないな。結の分も用意しよう」

 背中をむけた琥珀は、さきほどのノートを背後の棚においた。ゴムバンドでとじられるようになっている黒い手帳の背表紙には、「迷いもの帳」とかかれていた。

 コーヒーカップをみっつならべた琥珀は、中央がくびれたしろい金属製のミルに、キャニスターから豆をいれてハンドルをまわす。芳ばしい香りが漂いはじめた。

「あの、……さっき本業っておっしゃってましたけど、瑠璃さんはこのお店、副業なんですか?」

「まあ、そうなるな」

「琥珀さんもですか?」

「そうだ。本来すべきことはべつにある」

「……じゃあ、このお店やめちゃうってことも、あるんですか?」

「それはない。ここは大切な場所だ。瑠璃にとっても、私にとっても」

「そうですか……」

 まだ二度きただけだというのに、琥珀の言葉に安堵する自分を、結は不思議におもった。

「今度は私からたずねてもかまわないか?」

「なんでしょう」

「なぜアルバイトをさがしていた?」

「高校を卒業したら施設を出ていかないといけないんです。ひとりでくらすにはたくさんお金がいりますから、なるべくためておかないと」

「なるほど」

「でも、ほんとは……よくわからないんです。いくらあったら充分なのか、とか、ひとりでくらすってどんなことか、とか。施設の人にいわれたから、そうしなきゃっておもっただけで。わたしずっと施設にいるから、普通の暮らしってどんなのか、想像もつかなくって」

「備えあれば憂いなしとはいうが、なにが憂いかわからなければ、備えようもないか」

「なんか、そんな感じです。気持ちは、あせってるんですけど……。のこりの三年ってながいような気もしますし、みじかいような気もしますし」

「質だな、長さではなく。無為にすごす時など、いくらあっても無意味だ」

 試験の説明をきくような表情でうなずいた結に、琥珀が微笑みかける。

「まあ何にせよ、結が努力するのであれば、私たちはそれにこたえる。そういう店だ、ここは」

「あ、あの……、ありがとう、ございます……」

 それからしばらく、会話はとだえた。琥珀が手にした小さな網のようなネルフィルターでふくらんでいく、コーヒー豆のような沈黙だった。


「あああもう、肩が……がっきがき」

 そうこぼしながら瑠璃があらわれたときには、琥珀とおなじ名前の色の液体が三人分、サーバーに抽出されていた。

 店にいたふたりと挨拶をかわした彼女は、前日に琥珀がもっていたとうのバスケットをさげており、なかには束ねた糸が入っているのがみえた。

 瑠璃が結の左どなりに腰をおろすと、三人でカップを口に運ぶ。ゆたかなのに雑味がなく、すっきりとした後口のコーヒーは、結の心にわだかまっていたふるい記憶の苦みをまるくした。

 結は銀のペンダントを差しだす。

「瑠璃さん。あのこれ、ありがとうございました」

「落ちついて入学式にでられた?」

「はい。おかげさまで」

「ならよかったわ。こわかった? やっぱり」

「……はい」

「そうよね。――あ、そうそう。ちょっとここ、みてくれる?」

 瑠璃が自分の左手を指さした。わずかな指先の動き、なにもなかった手のなかに、一枚のカードがあった。

「え……?」

 結が声をもらしたのが合図だった。カードは次から次へとあらわれ、あつめた手から反対の手に瞬間移動し、息を吹きかけると消滅し、ふたたび出現する。すぐとなりでみている結にすらどうなっているのかわからない、完璧なクロースアップマジックであった。

 表情がゆるんできた結に、瑠璃が微笑みかける。

「昨日ね、ちょっと強引に結ちゃんにアルバイトをお願いしたのは、理由があったからなの」

 瑠璃はコーヒーカップのしたから、カードを出した。赤い羽の天使のしたで、一組の男女が向きあっている絵柄だ。

「このカードがでたの。将来につながる人の訪れを意味するカード」

 それからもうひとつ、と瑠璃は結の襟に手をのばす。そこからもう一枚カードを取りだした。テーブルのおくにつえをもった人物がえがかれているが、上下がさかさまだ。

「その人は迷いのなかにいる」

 いつのまにか瑠璃は静謐せいひつな気配をまとっていた。名前とおなじ色の瞳から、目をそらすことができない。

「このお店は、迷ったものをあるべきところにみちびく。でも、そのあるべきところがどこなのかをきめるのは、迷ったもの自身。

 声がきこえるようになったってことは、結ちゃんの心が昨日おこったことを受けいれてるから。耳をすませて、自分の声をきいて」

「あの……わたし……」

「さて、あたしのお話はここまで。今日はあたしがお仕事だから、あとはよろしくね、琥珀」

 カウンターにおいていた籠をもつと、瑠璃はおくの扉のむこうに消えていった。


 手品からつづけたら胡散うさん臭さが増すだろうが、と琥珀がぼやく。

「とはいえ瑠璃がほとんど話してしまったしな」

「……あの、全然わかりませんでした」

「そうか。何がわからなかった?」

「じゃあ、えっと……。なんだったんですか? あの声って」

「結が昨日あった娘とおなじだな。見方をかえないとみえないものたち――化生のもの、と総称する」

「みんな迷子ってことですか?」

「そうではない。生まれついての化生もおおい」

「いっぱいいるんですか? たくさん声がきこえたんですけど」

「いるな。まあ、今朝は特別おおくあつまっただろうが」

「いまも、いますか……?」

 結はおびえた顔であたりを見まわした。

「店のなかにはいない。おかしな輩は入れないようにしてあるからな」

「じゃあいるんですか? ……そとに」

「視えてないか」

「みえてませんし、みたくありませんっ」

 結は必死に首をふる。

「こわいか?」

「こわいです」

 そうか、と顎に手をあてて思案したのちに、琥珀がいった。

「助けてくれるものがそばにいれば心丈夫か?」

「それは……もちろんですけど……」

「なら簡単だな」

 琥珀は結の斜めうしろにあるテーブルに呼びかけた。

「おい、お前の主人がおびえている。姿をみせてやれ」

「え?」

「いつまでもかくれているわけにもいくまい。いい加減でてこい」

「あ、あそこになにかいるんですか?」

「どうせ時間の問題だぞ? こういうことはあとになればなるほど――」

「――ちょ、ちょ、ちょっとっ。やめてくださいっ!」

 沈みゆく船の底にあいた穴をふさぐ勢いで、結は琥珀の口をおさえた。

「いや。あさ話したろう。お前の身辺警護だ」と、くぐもった声。

「……いるんですか? そこに」

 琥珀は結の手をどけて、

「いるな。おそらく結が赤ん坊のころからそばにいたはずだ」

「お店には入れないんじゃなかったんですか?」

「はいれて当然だ。おかしな輩ではないからな」

「どうしてわたしにはみえないんですか?」

「姿をみせないという契約なのだろう。結はどうだ? 見てみたくないか?」

「……相手によります」

 ああ、と合点のいった表情になった琥珀は、

「懸念は必要ないとおもうぞ? 娘うけはいい方だろう」

「本当、ですか……?」

「疑りぶかいな。まず見てみたらどうだ」

「で、でも……こわいのだったりしたら……」

 腕ぐみした琥珀が、カウンターから出てきて結のまえにたった。

「結」

「はい?」

「強制執行だ」

 かるがると結を担ぎあげると、琥珀は問題のテーブルへと歩いていく。唖然あぜんとした結だが、琥珀から薫った華やかさとするどさを併せもつ香りで我にかえった。

「ちょ、ちょっとまってくださいっ! 心のっ、心の準備がっ!!」

「観念しろ。時間の無駄だ」

「で、でで、でもっ!」

「躊躇している暇などない。いいか、人生とはつねに、決断の連続だ」

 すとん、と椅子にすわらせられた結は、すがるように琥珀を見あげた。琥珀は、人参だけよけてカレーをたべた子どもを相手にするようにいう。

「みとめられることもないまま、ずっと結に仕えてきたのだ。労いのひとつでもいってやれ」

「うう……」

「結がいままで、怪我や病気をしなかったのも、そやつのおかげだぞ?」

「そう、いわれると……。どうすればいいんですか?」

「出てこいと一言いえばいい」

「わ、わかりました」と何度かせきばらいした結は、

「あのー、出てきてもらっても……いいですか?」

「実に威厳に欠ける命令だな」

「だって……」

 結の視覚は、突然それを認識した。隠し絵の、べつの見方に気づいたときのような感覚であった。

 驚き、そして少々まのぬけた声がつづく。

「えっと、これって……?」

「雷獣だな。雷神の眷属だ」

 丸顔にまるい耳とつぶらな瞳。手足はみじかく、三十センチメートルほどの細ながい体をおおった体毛は白色で、尾の先端が黒い。

 テーブルのうえには、琥珀のいかめしい解説とは程とおい、愛くるしい姿があった。

「オコジョ……ですよね?」

「そういう呼びかたもあるが、雷獣の方が通りはいい」

「この子がずっと、わたしのそばにいてくれるんですか?」

「『いた』、のだがな、ずっと。いやか?」

「……うれしいです、すごく」

「なら名づけてやれ。群れから個を区別するものが名だ。名でよぶとは、特別な存在だとしめすことに他ならない」

「いいんですか? わたしが名前をつけても」

「きいてみろ。きめるのは私ではない」

 うなずいた結は雷獣とよばれた動物を見つめる。

「いいの? ……わたしが名前をつけても」

 チチッとみじかい鳴き声。許可しているのだと理解した。

「じゃあ、あなたの名前は……――眞白」

 云いおえた瞬間、結はやわらかな風をかんじた。山にみちた空気のように清浄なのに、手をつないだときのようにあたたかな、不思議な温度であった。

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