桜の君

 結は、ため息をこぼした。

 見まわす必要もないほどせまい公園に、人の姿はない。念のために二階建てのちいさな展望台もたしかめてみたが、やはり誰もいなかった。からかわれたのだ、なさけない思いでベンチに座りこむ。

 やわらかな風がふいた。舞いちる薄紅をみて、桜が咲きほこっていたことに気づく。

 アルバイトをさがすのに必死で、桜をながめることも忘れていた、さきほどとはちがう吐息をもらしたとき、ふと思いだした。公園に着いたら必ずするようにといわれていたことがあったのだ。

 ばかばかしいとかんじながらも、あの二人にならもう一度くらいだまされてもいいかともおもえた。誰もいないなら恥ずかしくないという考えも、背中をおした。入念にあたりを確認してから、消しゴムに好きな男の子の名前をかくようなくすぐったさをこらえてつぶやく。

「こ、こんにちは、瑠璃琥珀堂です。お届けものをおもちしました。……ほら、やっぱりなにも――」

 トートバッグの鈴がなった。かすかな音であったはずなのに、清涼な響きは、たしかな輪郭をもって結の耳朶じだをうった。

「瑠璃琥珀堂さん?」

 声のした展望台の二階をみると、ひとりの少女の姿があった。

「ごめんなさい、気がつかなくって。瑠璃さんか琥珀さんがくるとおもってたから」

「い、いえあの。こちらこそごめんなさい。……アルバイトなんです」

「あのお店の?」

 階段をおりてきたのは、休み時間の教室がにあいそうな少女で結は安心する。私服なのではっきりしないが、年はちかそうだと検討をつけた。

「はい。今日から、……なんですけど」

「すごいね、あそこでアルバイトなんて」

「そう、なんですか?」

「あなたがはじめてじゃないかな。それで、お願いしてたものが見つかったのよね?」

「あ。は、はい。……これ、お届けものです」

 結はトートバッグからクラフト紙の袋をだして手わたす。あたたかな音をたてる紙袋から少女が取りだしたのは、唐草模様の入った銀のバレッタだった。

「これこれ。ずっとさがしてたの。ごめん、ちょっと持ってもらっていい?」

 結に紙袋をあずけた少女は、手ばやくバレッタで髪をまとめると、満足そうにいった。

「うん、やっぱりこうじゃないと。どうもありがとう」

「わたし、持ってきただけですから」

「瑠璃さんと琥珀さんがたのんだってことは、あなたが持ってくることに意味があったんだとおもうけど」

「意味、ですか?」

「うん。多分ね」

 ふたたび紙袋を受けとった少女は、同封されたカードをよんだあとにつぶやいた。

「ほら、やっぱりそうだった」

「え? な、なにがですか?」

「なんでもない。あのさ、おはなししていいかな、ちょっとだけ」

「はい。……すこしなら」

 ふたりは展望台のベンチにすわった。見おろした市街の中央には天守閣をいただいた小高い山があり、そのさきではリアス式海岸を形づくる岬が、うららかな日差しのそそぐ海にいだかれている。

「このバレッタね、友だちにもらったんだ。あなたにもいる? 一番の親友」

「いいえ。……昔は、いたんですけど……」

 とおい、もう手がとどかなくなった面影。かすかな痛みは、胸のおくを揺りうごかした。

「そっか。実はその子と連絡がとれなくなっちゃってさ。ずっと会ってないんだ」

「おんなじです、わたしもそう……」

「そのうえ、このバレッタまでなくしちゃって。ほんと最悪」

 でもさ、と少女はあかるい笑顔になる。

「まえにその子――いとちゃん、っていうんだけど、いとちゃんとここでお花見しようって約束しててさ。バレッタが見つかったら、また会えるんじゃないかなーっておもってね。それで、瑠璃さんと琥珀さんにお願いしてたんだ」

 結は胸のおくにきざした未知の感覚に気づいた。急激におおきくなったそれは、彼女をうながす。なにかをしなければならないのに、どうすればいいかわからない、うろたえた、はじめて羽をひろげた雛鳥ひなどりのように。体のあちこちに注意をむけてさぐる、はばたくべき翼はどこにあるのか。そうするあいだにもたかまる、切羽つまる、せつないほどに。突然ひらめいた。

「――また、会えます。……きっと」

 ああ、言葉だったのか、と結は理解する。普段つかうものとはまるでちがうそれは、ほとばしるように、波紋のように、世界にひろがっていったのがわかった。

 不思議な余韻にとまどっていると、少女がつぶやいた。

「うそ……」

 つられてその方向をみる。展望台の階段を駆けのぼってきた中年の女性と目が合った。

「あなた、いま誰かと話してなかった?」

 女性のあわてた声に結は首をかしげる。

「彼女ね、あたしがみえないんだ。だから気をつけて、へんな子だとおもわれちゃうよ?」

 実はあのいたずらは私です、と告白するように片目をとじると少女は立ちあがって、

「いとちゃん久しぶり。おとなに、なっちゃったね」

 目のまえの少女をぬかしてあたりを見まわした女性は、ため息をつくと結にいった。

「ごめんなさい。知りあいの声が、きこえた気がしたものだから」

「いえあの、……よかったらここ、どうですか?」

「ありがとう。すこしお邪魔させてもらうわね」

 おっとりした口調の女性がベンチにすわり、結をはさんでふたりがならぶ。席をすすめてみたものの、どうすればいいかわからず見おろした町のあちこちでも、桜が咲いていた。

「おどろいたでしょう。本当にごめんなさい。高校生のころの友だちがいるとおもっちゃったの」

「……そう、なんですか」

「その子ね、高校一年のときにあそこに入ったの」

 女性が指さしたさきには、コンクリート造りのおおきな建物があった。公立の総合病院だ。

 少女があかるくいった。

「でもさ、さみしくなかったよ。いとちゃんがきてくれたから」

「すぐ退院できるっていってたのに、なかなかそうならなくって」

「ごめん。いえなかったんだ、ほんとうのこと」

 風がふたりの声を舞わせる。けれども少女の言葉は一方通行だ。

「いつのまにか春になって、病室からみえたこの公園の桜が本当に綺麗でね」

「実はさ、あのときまで桜って好きじゃなかったんだ。なんかこわいでしょ? 夜とか」

「元気になったら一緒にこようねって約束したの」

「ありがと、いとちゃん。あの約束があったから、最後までがんばれたよ」

「でもかなわなくて……。桜が咲くたびに、彼女がまってるかもしれないっておもうのに、……つらくて、こられなかった……」

「泣かないで。充分だよ、こうしてきてくれたんだから」

「その人もいま、この桜をみてるとおもいます」

 女性が顔をあげた。結の言葉はとどく。少女の言葉はとどかない。展望台をおおうようにのびた枝から、薄紅は三人に降りつづける。

「そう……かしら」

「そうですよ、きっと」

「ありがとう」と、ふたつの声がかさなる。

 鼻のおくに走ったしびれをやりすごそうと見あげた桜は、空に手をのばそうとしているようで、結はつよく瞼をとじた。


 礼をいって女性がさったあと、琥珀が姿をみせた。展望台にのぼってきた彼女は、したしげに少女に話しかける。

「どうだ? うちのアルバイトは」

「びっくりしちゃった。すごいよ、ほんと」

「そうか、ならよかった。結、私は彼女とすこし話がある。申しわけないがさきにかえってくれるか?」

 琥珀のうかべた笑みは、瑠璃ともちがう美しさがあった。

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