ふたたび、瑠璃琥珀堂
瑠璃琥珀堂にもどった結は、カウンターにすわって瑠璃の手元をながめていた。
瑠璃は鼻歌を口ずさみながらティーポットとカップをあたため、陶器のキャニスターから茶葉をうつし、いきおいよく湯をそそぐ。
なれた手つきですすめられていく紅茶の支度をみながらも、結の頭のなかは公園の出来事でいっぱいだった。ききたいことは山ほどあった。だが口をひらきかけたとき、まずはひと息つくようにいわれたのだ。
「さて、それでは儀式です」
瑠璃の声で顔をあげた。ポットにうやうやしくティーコージーをかぶせながら、彼女が微笑む。
「お祈りしてください、美味しくなるように」
手を組みあわせて瞼をとじる仕草に、つられるようにしたがった。しずかな時間がみちる。出来上がりをつげられるころには、心は静けさを取りもどしていた。
紅茶が注ぎおえられるのと同時に、はかったように琥珀がドアチャイムをならした。
「瑠璃、これをたのむ」
琥珀が手わたした小ぶりな籐のバスケットには、綿花のようなものがはいっていた。
「きめたのね、彼女」
「ああ。結、ご苦労だったな。お前のおかげだ」
「は、はい」
そういわれても公園にいって話をきいただけだ、結は分数同士の割り算をおそわったときのような気分でたずねる。
「あの……、もうきいてもいいですか? あの子はなんだったんですか? どうしてあの女の人にはみえなかったんですか?」
「説明は瑠璃にゆずる。私はひと仕事おえたからな」
「仕方ないわね。でもお茶をのんでから」
瑠璃にうながされてティーカップを持ちあげた結が首をかしげた。
「あれ? これ紅茶ですよね。なんか色が……」
「日本茶みたいでしょ。春摘みなの、のんでみて」
「はい、いただきます」
猫舌なので用心しながら口をつける。さわやかな香りとともに、ここちよい苦味がひろがった。しっている紅茶とは随分とちがう味だったが、あたたかな吐息がもれる。
「なんだか不思議な感じですけど、美味しいです」
「ちょっぴりちがうけれど、これも紅茶。彼女もおなじよ、ただの人。すこしだけながく、ここにとどまっていたけれど」
「やっぱりそれって……幽霊、ってことですか?」
「そんなおどろおどろしいものにみえた?」
「普通の子だとおもいました」
「あなたの心が視たものを、大切にすればいいわ。それが最初の質問の答え。これでいいかしら」
「わかりました。なんとなく、ですけど」
やはり割る分数をさかさまにしてかけ算する理由はよくわからなかった。
「つぎのは簡単。さまよっているあいだにね、迷いこんでしまうことがあるの、みえにくいところに」
「どうして、わたしにはみえたんですか?」
「経験ない? どんなにさがしてもでてこなかったものを、べつの人が簡単に見つけちゃうってこと」
「ありますけど、それとこれとは……」
「おなじことよ。視点がちがうから視えるの」
「でもわたし、みたことないです。……その、お化け……とか」
「視えなくなってたのよ。琥珀が結ちゃんのことを、こんがらがってるっていったでしょう? それがすこしほどけたの、あたしたちと出会って」
「ほどけたって、なにがですか?」
「あなた自身。結ちゃんはしらなすぎるの、自分のことを」
わたしのこと、と繰りかえした結に琥珀がたずねる。
「質問時間はおわりか? ききたいことがあるのだが」
「え? あっ、はい。どうぞ……」
「かたくなるようなことではない。届けものはどうだった?」
「えっと、……うれしかったです」
うれしかった? と琥珀はわずかに眉根をよせる。
「あんなふうにお礼いってもらったの、はじめてでしたから」
「好印象だったと受けとっていいか?」
「はい。そうです」
「それはなによりだ。では、ここからが本題だ」
「な、なんでしょう……」
「この店のアルバイトを続けていく気はあるか?」
結は言葉につまった。今日こそはアルバイトをきめようと意気込んできたのに、勝手に面接を辞退された。仕事だという届けものではおかしなことが起こり、説明も荒唐無稽としかおもえないものだった。
それなのに、一連の出来事の元凶たるこのふたりの女性を、きらいになれないどころか惹かれてさえいる。できるだけおおくの蓄えをもちたいとかんがえているいま、提示された給金も魅力的だった。
顔をあげた結は息を吸いこむ。今日いちにち、何度も振りしぼった勇気を、もう一度奮いたたせるために。
★☆★☆★
とうに硝子などくだけ、枠だけになった窓から月光がさす。荒れ放題の室内は、スチールのデスクがかつての事務所としての面影をうかがわせるのみであった。
狩人としての習性か、夜は血をざわつかせる。散々もてあそび、
だが、やはりちがった。あれにくらべればまるで泥水だ。飢えよりも渇きに似た衝動をこらえかねて犯した同族
あのすがるような目と、弱々しい
思いもよらぬ食料に色めきたったが、それを喰らえば
うごけぬものにとどめをさす必要などない。いきたまま喰らった。甘美だった。身体のそこから震えがくるほどに。そして彼は、あらたな力をえた。
もう一度あれをあじわいたい、喉をならした彼は、ふと動きをとめて耳をすませる。かすかな話し声、彼の聴力をもってしても、かすかにしか聞きとれなかったそれが、次第にちかづいてきた。
――つよい力をもつ人の子が、居るらしいぞ。
木の葉を
浮言、とよばれる化生のものたちだ。言葉からうまれる彼らは、源となった言葉を繰りかえしながら、風にふかれて町をわたっていく。
――その癖、己が力もわかっておらぬそうな。
――まこと奇怪よな。
死にかけた人間ですらあれほどであったのに、つよい力をもっているのであれば、いかほど美味であろうか。彼は、くるおしいほどの飢渇をおぼえた。
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