第4話 影が忍び寄る盛花祭

 はじまり

 

 その世界には、神様がいた。

 

 神様は人間に問題を与えた。

 

「私達の大切なものを盗めたら、新たな神様にしてあげましょう」と。

 

 人として知らぬ者のいないその問題に、多くの人間が挑んでいった。

 

 だが、今まで誰一人、神様の場所に辿り着くことすらできなかった。

 

 やがて人々が諦め、問題を知っていても無視するようになった時代。

 

 一人の女の子が問題を解いてしまった。

 

 しかも、神が一人死んでしまった。

 

 人々も、神様も揺れた。割れた。驚いた。

 

 なぜか――その女の子が事実を一切明かさずに姿をくらませたから。

 

 人々も、神様も、世界中が探し始めた。その女の子を。

 

 すべてを知ってる女の子を、それぞれの目的のために。

 

 これは、それを知りつつ旅をする一人の女の子の物語。

 

 

 花の都、ガデニア。そこは世界中全ての花が咲き誇るという、花の名所。

 全ての花が芽を出し、育まれ、そして花をつけるという。

 そこで、ある実験が成功した。コードは、トリコロール。

 ガデニアで年一回、春を目前に控えた味酒の月に開かれるコンベンション。祭の開催前に成功したその実験によって、新たな花が誕生した。

 その名は、リバムーク。花詞は「幻の愛」。

 その花詞の由来は、花の特性にある。リバムークは咲いた後も一夜経つごとに花の模様が変わるのだ。眠るごとに花の模様が変わるので、愛好家の間では次の日が楽しみになる花と前評判が高い。開発には7年もかかった苦労も一入の産物。それだけに、今年のガデニアワールドフラワーコンベンションの目玉でもあった。祭の大目玉として種子が限定発売されると発表され、多くの愛好家や専門家、それに山師がリバムークの種を狙ってガデニアを訪れていた。つまりは、そういうことである。

 ここガデニアに多くの人が集まっているのも。ミコ=R=フローレセンスがいるのも。

 全ては、花のため……。

 

 

「ちょ〜っと通りまーす」

 ミコは雑踏の間を器用に擦り抜け、蛇行しつつも前へ前へと、着実に進んでいた。

 全く、人混みは鬱陶しいったらない。とどのつまり、雑踏は障害物と同義なのだ。いや、障害物は物なだけマシかもしれない。だって、動かないから。相手に動かれると厄介である。それも一人ならまあ予想もつくし、対応も楽で済むのだが、今日のガデニアみたいに石畳道路1㎡の面積に三人も五人もいる密度ではそうはいかない。明らかに環境の方がおかしいのだ。古今東西森よりも雑踏を好む旅人なんていない――とミコは思う。まあ森は森、雑踏は雑踏なのだろう。森の癒しを好む人もいれば、雑踏の喧騒を好む人だっているだろう。コミュニケーションに飢えればそうもなろう。ミコは別だが。

 とにかく進まなければ。目的地まではまだかなりある。ミコは不退転の決意を胸に、雑踏くぐり抜け蛇行進を続けるのであった。

 

 

 ガデニア郊外、都市の外側の森の中にある花専用の秘密の埋葬場――通称、花の墓所。

 そこにはなにもない。土はあれども花はない。用済みとなった花を埋葬し土に還すのがこの墓所の存在意義であり、全てだ。だから荒涼としていて当然なのである。

 その花の墓所でただ一人、懸命に土を掘り返す一人の少女がいた。

 名はサクラ。この世界で花を祀る一族、花一族のメンバーであり、新参者。サクラの名を継承してからまだ日は浅く、ゆえに、任される仕事は他の一族メンバーの研究関連の雑用、労使がメインであった。一族の中核事業である新種開発に携わった経験はなく、そしてこの先も一生ない。なぜか? 彼女が理性ではなく、感性で花を見るからだ。

 サクラは深い愛情を持っている。聞くだけなら美徳のように思えるが、その対象は海のように広い。要は博愛精神である。サクラの慈愛は成功した花だけでなく、失敗した花にも向けられる。望まれる花を咲かせることに成功した一握りの花達への祝福もするが、それと並び花を咲かせることに失敗した幾千幾万もの花達への同情の念も忘れないのがサクラの特質。これが一族にとっては厄介だった。華々しい成功の裏には、こうした失敗があったのだと認めるようなものだから。一族の委員会は合議の結果、サクラをもっともその心理状態に適切な場所へと配置した。それがこの場所、花の墓所である。年端も行かない少女に、泣くことだけを強いる仕事を与えたのだ。

 だが、流されたサクラ本人は、そんな状況を半分泣き寝入りで、半分は理解して受け止めていた。墓所がある以上、誰かが泣いてあげる必要がある。ならば自分がその代表になろう。他の愛情に欠けた連中に任せるよりはマシ――小さな少女はそう決意し、今日も墓所の土の手入れに励んでいた。

 失敗と決めつけられた花達の哀しみを、母なる土に還してやるために――。

 この仕事は今日中に終わらせなくてはいけなかった。明日は祭のメインイベント、リバムークの発表・品評会がある。それにはサクラも出席するようにとの委員会からのお達しがあった。裏を返せば、それまでにこの埋葬作業を終わらせろということである。決してサボっていたわけじゃないが、何分サクラは感情移入が激しいので、埋葬作業にも時間がかかる。結果、後一日で仕上げるには、ちょっと厳しい状況に追い込まれていた。何分量が半端ではない。リバムークの失敗作だけで、240718個もの数があるのだから。今日までの一週間で全体の約8割の花を埋葬したが、後一日で残りを埋葬するのはかなりのヘヴィワークだ。でもやるしかない。

 だって、今ここで自分がやらなかったら、誰が愛を込めて埋葬してやると言うのか――その苛烈で強い愛情が、サクラを泣き言ひとつ言わさずに動かしていた。

「そうよ。わたしがやらなくちゃ、誰がやるのっ……ふっ」

 サクラは決意を固めた一人言で己を震わせながら、シャベルで土を掘り返す。心と身体が寸分違わず合致したときの人間は強い。サクラ程の強い気持ちを持った人間ともなればなおさらである。時刻は正午を通り過ぎ、もう夕暮れへ向かってのカウントダウンが始まっているが、これなら今日が終わる前には終われそうだ。元々自分流の愛情が招いた結果である。ただただ、励むのみ。そう開き直ってシャベルを土に刺そうとしたとき。

 唐突に自分を呼び止める声がした。聞き慣れない声。初めて聞く声に、サクラの動きは縛られた。振り向くと、そこには真っ黒な帽子を被り、白地に七色をあてがった服を着ていた女性が一人で、そこにいた。彼女はこっちに大声で話しかけていた。

「ねえ、ここって花の墓所よね! ちょっと欲しいものがあるんだけど! 話聞いてくれないかしら!」

 話は理解できたが、それ以上に問題なのは彼女が花一族のメンバーではないことだ。ここ花の墓所は花一族の最高機密の一角、裏を返せば暗部である。ここの存在を一族以外の人間に知られたら、他の人間達もここのことを知りかねない――サクラの行動は早かった。

 シャベルを土から持ち上げると、それを剣のように構えて見知らぬ女性に斬り掛かったのだ。ここの機密を守るため、口封じの必要があるから。疑問を挟む余地などない。これが委員会から命ぜられているマニュアル通りの対応なのだ。

「えぇーい!」サクラが大振りかぶってシャベルの先を相手の頭蓋骨真正面に喰らわそうとしたら、女性はそれよりも早く動いて、こともあろうに墓所の土の上へと動いて避けたのだ。その事実はさらにサクラを錯乱、慌てさせた。

「あ、あ……、あぁ……」

「あ、話聞いてくれる? そういえば自己紹介もまだだったわね。わたしはミコ――」

「今すぐここから立ち去れ部外者ぁ!」サクラは半ば発狂した声を出して、がむしゃらにシャベルで一撃与えるべく女性を襲う。しかし女性はひらりとサクラの攻撃を躱し、空を切った攻撃は受け手のないまま墓所の土に大当たりとなった。

「逃げるな、避けるな!」それでもめげずにサクラは女性にさらなる攻撃を繰り出していく。サクラは焦っていた。さっさと攻撃を当てて記憶を奪いたい。早く埋葬作業に戻りたい。その思いで幼いサクラの胸中はいっぱいだった。だから何度も攻撃するのだが、その度に相手の女性は躱し続け、シャベルは土を耕すだけ。そんな現状に我慢できず、サクラはさらに攻撃を繰り出すのだった。

 すると女性が両手で待って待ってとジェスチャーでストップをかけつつ口頭で話しかけてきた。

「よしてよ。わたしに子供と闘う趣味はないわ。それもあなたみたいな可愛い子と闘うなんて論外なの。だからお願い、ちょっとシャベルを降ろして話を聞いて……」

「だったら先にあなたがやられてよ! この、邪魔者ーっ!」

 サクラは女性の訴えも一刀両断にし、シャベルを振りかぶって女性を襲い続けた。だが女性は避けまくるので、相変わらず当たらなかった。段々当たらない現実にサクラは苛立ち始めていた。こんな詞が出るくらいだ。

「なんで避けるの! 当たりなさい! 一回と言わず、全部!」

「いや避けるでしょ? 当たったら頭潰れちゃうじゃないこの威力。もう少し手加減してくれるなら考えるけど……」

「だめだめダメーっ! 気絶させるくらいの攻撃じゃないと、わたしが怒られるんだから!」

「そんな滅茶苦茶な……」

 サクラは無茶を訴えつつさらにシャベルで攻撃を繰り出す。女性は滅茶苦茶だ、と言いつつ相変わらず避け続けていたが、やがてそのペースも遅くなってきた。回避行動のキレが鈍くなってきたのを、サクラは見逃さなかった。

(勝機! 動きが鈍くなってきた。このまま後ろの穴に追い込んで、仕留める!)

 サクラは今まで以上に大きく振りかぶって構えたシャベルを、目的地たる穴の逆サイドにわざと落として女性を穴の方へと移動するよう誘導する。女性は面白いようにうまく穴の方へと進んでいった。全て思惑通りである。

「この! この!」サクラは思惑などないかのように無我夢中を振る舞いつつ、内心ではワクワクドキドキを感じていた。このままいけば、今までの空振りをチャラにできるほどの勝ちがつく。脈は早まり、いやでも興奮する。その兆候を顔に出さないように、細心の注意を心掛ける――サクラは冷静だった。正常な思考回路に満足しつつ、じわじわと追い詰めていく。そしてとうとうその時が、来た!

「やっ! 足が、穴?」

 女性が後ろも見ずに後ずさりして遂に足を穴にすくわれた。女性の目も心も、全てが一瞬穴の方へ向く。完璧なチャンス、サクラは待ち続けたその好機を逃さなかった。

「えぇーい!」

「きゃっ!」

 女性がこっちを振り向いたがもう遅い。逆に言えばサクラの方が早い。事実そのとき初めて、サクラの攻撃が真っ黒な帽子越しで、女性の頭に直撃した。女性は続きの悲鳴を上げることもなく、すぐに土へと沈んだ。

「やったぁ! ……あれ? もしもし?」

 サクラは最初とうとう攻撃を当てた、その喜びに震えていたが、やがてそろそろ記憶改竄をしなくてはと思ったころ、女性が倒れた体勢のままピクリともしない事態に疑念を抱く。最初は気絶するということはそういうことだと思っていたのだが、目の前の女性を見ていると嫌な予感が掻き立てられる。やがて不安が募り募ってとうとう焦りだしたサクラはシャベルを捨てて女性に駆け寄り、息を確かめる……が、遅かった。

 女性は息をしていなかった。脈もない。身体は重く、急速に冷えていた。死んでいたのだ。

「えっ、まさか……殺した? きゃあっ!」

 どうしようどうしようと途端にサクラは死体から飛び退き、小さな頭は大パニックになる。墓所に近づくものを排除しろ、墓所を見たものの記憶は奪えと命ぜられてきたから気絶させて記憶を自分が持つ花一族特有の力で奪うつもりだった。だがもう記憶がどうのこうとか言っていられなくなった。だってこの女性は死んだのである。殺したということだ。

 それは、サクラにとって初めてのことだった。人を殺したことなんて、今までなかったから――右往左往は当然の結末だ。

「どうしよう……どうしよう。とりあえずは死体の隠滅を……。幸いここなら一族以外は誰も知らない……。一族? そうだ!」

 サクラは携帯電話を取り出して直属の上司に電話をかけた。自分をいつも可愛がってくれた花一族の委員会委員、ツバキならアドバイスをくれるはず……そう信じられた。

 なにせツバキは花一族の対外戦闘部隊の元隊長だ。気象一族や自然学派との戦闘も経験し、戦果を挙げたこともある。彼は幼いサクラにも堂々と語っていた。相手を殺したこともあると――。その経験を持ち、今はサクラの上司として死んだ花の取扱いを一手に取り仕切るツバキなら、なにかアドバイスをくれるはずだと――サクラはそう思っていた。果たしてトゥルル……、電話が繋がった。

『ああ、サクラ? すぐに電話に出ずにゴメンな。言い訳じみてるけど、こっちはかなり忙しくてね。そっちは終わりそうか? なんなら何人か送ることも……』

「ツバキ兄さん! そうじゃないの! あの……、わたし……」

『うん? どうしたんだ? サクラ?』

 サクラはここで息が詰まって詞がなかなか出なかった。でも言わなきゃ。その思いを振り絞って告白した。見知らぬ誰かが秘密の墓所に来たこと、その人を迎撃行為の上最終的に殺したことを。だがツバキは落ち着いた態度でそれを聞き留めていてくれた。話している最中はサクラもありがたく感じていたが、話した後はそのまま神妙に黙られてしまい、どうしようもなく不安に駆られた。

 それだけに、次にツバキが告げた内容は、予想外のものだった。

『悪い、サクラ。ひょっとしたら俺かもしれない。対外戦争で闘っていたときに墓所のことを口から滑らせたことがある。俺……いや、俺の部隊員全員が』

「え……? じゃあ……この人は、兄さんの知り合い?」

『そうかもなあ……ああ、多分そうだろうな。あれは気象一族一流の計略に乗せられてなあ……。墓所のことを一族外の他人に話すことのある仕事なんて、本当に俺達対外戦争部隊か対外交渉部隊の交渉人連中ぐらいだから……。つまりアレだ、お前が侵入を許したとかを気に病むことはないんだ。俺がうまく処理してやる。確認したいから、そいつの特徴を教えてくれるか』

「ああ……はい。外見の特徴ね……えっ? ええっ! きゃあ!」

『どうした! サクラ……』

 サクラは振り向いた途端腰を抜かしてしまい、携帯を放り投げてしまったのでそれ以上の通話はできなかった。なぜなら――。

 殺したと思ったはずの女性が、事実脈も息も停まっていたはずの女性が、すぐ傍すぐ真下で体育座りしながらコソコソ聞き耳を立てていたのだ。驚かない方がおかしい。生きていたのか。もしかしてお化けじゃないだろうか?

 だが電話の向こうにいるツバキはそんなこと知る由もない。それに気付いたサクラはびくつきながらも抜けた腰を起き上がらせて立ち上がろうとした、が。

 体育座りからサクラよりも早く立ち上がったその女性――足があるのでお化けではないみたい――に手でストップをかけられて、そのまま再び座ってしまった。でも携帯が――そう言ったらその女性は真っ黒い帽子のがま口チャックを開けると、そこから黒い腕を取り出し、落ちていた携帯を腕の先っぽにある黒い手でキャッチ、自分の耳元に持っていった。

「もしもしツバキ? わたし、ミコ=R=フローレセンス。ああ、元の名前の方がいいか……元気象一族のレインだけど、わかる?」

 ――気象一族の、レイン?

 その詞を耳が聞き、頭が理解したとき、サクラの許容量が吹っ飛んだ。腰を抜かしたままぞぞぞっと後ずさりして距離をとった。

「えぇぇっ! この人が、一族最大の強敵と呼ばれた、気象一族のレイン!」

「呼び捨て……まあ驚かないけど。それより今はミコって名乗っているから、その名前で呼び捨ててもらいたいんだけどな〜」

 電話口正面口で女性は二人に向かって言った。電話越しのツバキと、口先正面にいるサクラにだ。サクラはなにも言えなかったが、電話越しに会話していたツバキは、思い当たる節でもあったのか、『あ、ああ。あ〜』と頷くかのような間延びした声を上げた。ミコ――レインと名乗った女性がスピーカーホンを押したので、電話を持つ女性から遠ざかったサクラにもその声ははっきり聞こえた。

『思い出した! カゲナシのレインだろ。ほとんど自分の身体では闘わずにいて、それでいて強くてユーモアと頭の回転も一級品だったあのレイン! 気象一族を抜けたって噂は聞いてたけどなあ、ミコって改名したのは初耳だよ。これからは気象一族のレインじゃなく、ミコ=なんたらとして生きていくってことなのか?』

「半分正解半分保留。気象一族の役割はまだ放棄したわけじゃないわ。あなた達花一族と一緒よ。この名前が受け持つ役割って、受け継がせるまでは死んでも離れないものだしね。まだその線は考えていないわ。……ただね、ちょっとした経験をしてさ、自分の宿命っていうのを知っちゃったから次のステージへ進むことを決意したまでよ。その一環として気象一族は離脱、ミコ=R=フローレセンスに改名ってわけ。それよりわたしだってわかったんなら説明してあげて。ここで腰抜かしている墓守のサクラちゃんに、わたしがここの秘密を知っていていい理由とか全部。1から1まで」

『わかった。じゃあサクラに代わってくれ』電話口からツバキの召喚呪文が聞こえた。サクラとしても女性に見られ視線で促されるまでもなく、兄の指示があった時点で意図を理解し、動くつもりだった……けど、産まれて初めて抜かした腰は結構重傷で、てんで立ち上がることができなかった。足に力が入らないのだ。まさに八方ふさがりである。

 すると女性はふふふと笑った。何がおかしいのと文句を言うと、女性は優雅な身のこなしで踊るようにこっちを身体の軸を向けると、帽子からもうひとつ、巨大な黒い腕を出してこっちへと向かわせ、襲いかからせてきた。

「へっ? やっ……きゃあっ!」

 サクラは思わず目を瞑り、頭を腕で抱えてガッチガチに身を守るが、腕の目的はサクラを痛めつけることではなかった。むしろ親切だったと言ってもいい。その黒い腕、黒い手は、サクラの来ている服、その襟を掴んで持ち上げると、サクラの身体を女性のもとへ、もっと正確を期するともうひとつの黒い腕=携帯のもとへと引き寄せたのだ。

 サクラが身体を持ち上げられた事実に気付いて、おそるおそる目を開けると、目の前にはミコと名乗った女性の顔、その横にもうひとつの黒い腕が持っているサクラの携帯が存在していた。

「怯えられるのは慣れているけど……サクラちゃん、さっきまでのガッツはどうしたの? わたしを部外者と断定して元気に追いかけ回した、あのサクラちゃんはどこへ行ったの?  元気は大切なのよ? 元気がない人間なんて電気のない雷のようなものなんだから」

「意味がわかんない」サクラが初めて女性と会話を成り立たせた瞬間だった。今までずっと警戒していたので話すことさえ遠慮していたが、電話越しの兄貴分ツバキと屈託もなく(また確執もなく)会話しているところ、そして会話の内容から察するに、ツバキとこの女性の間には繋がりがあるように見て取れた。一族の名は違えども、世間話するくらいの交流はあるレベル……だったら、サクラもボロを出さない程度にだったら、会話してやってもいいはずだと。その結論に達した。

「お? 初めて会話が成立したわ」女性もサクラと同じ感想を抱いたようだ。だからなんだという話である。サクラには全く関係のないこと。無視してそそくさと電話を黒い手から受け取り、サクラはスピーカーホンのまま、両手持ちでツバキと話しだした。

「もしもし兄さん? サクラです。腰抜かしちゃって……その、ゴメンなさい」

『気にすることはない。可愛いお前が殺人をしていなかったという事実だけで上出来だ。そもそもそこにいるレインに墓所のこと話したのは俺だしな、責任を感じていたりする。ま、他の一族連中や委員会に漏れなければいいだけの話。サクラ、その女――レインのことは客として扱っていい。これ以上の失礼はないように。かといって必要以上にもてはやさないようにな』

「わかったわ兄さん。了解です。これ以後わたしはこの人を客として扱えばいいんですね。ここへ来たのも兄さんのせい……ってことだよね?」

『ああそうだ。昔そこの話を聞かせた時から、こいつはそこに行きたがっていた。気象一族を抜けただので色々寄り道した末にようやく来れるようになったんだろう。精々観光させてやるといい』

 ツバキの指示がサクラの身体と心に染み渡っている中、かたわらで漏れた音を拾っていた女性が割り込んできた。ツバキの詞に反応したようだ。

「寄り道だなんて……失礼ね。この時期が祭の時期にリンクして一番捨てるもの多いから墓所の見所って言ったのは誰だっけかな〜?」

『あっ! お前そんなこと言うのか!』

 ツバキもいい耳をしている。電話越しに真っ向から反駁した。

「誘ってたくせに」

『誘ってねえよ! 墓守の苦労をしみじみ告白しただけだ。それを曲解すんなよな!』

「はいはい、わかってますよ。あ、そうだ。ここで見るもの探すもの終わったらそっちの研究室借りたいんだけど。できる?」

『は? お前研究室まで借りる気なのか?』

「旅人は根無し草だからね。たまには設備の整った部屋で寝泊まりしたいのよ」

『俺の部屋だったら貸せる。ただ入るのだけでも難しいぞ。ゲストじゃ長居は出来ない。まして徹夜とかになると……』

「大丈夫よ。考えも手もあるから。そこはわたしに任せておいて」

『ふむ……なら俺がこれから研究室に行くから用事が済んだらサクラを連れて寄ってくれ』

「わかったわ。じゃ、サクラちゃんに代わる」

『おう。サクラ、そういうわけだ。レインの用事とお前の仕事が済んだらレインを俺の研究所まで連れてこい。いいな?』

 念を押すツバキの命令に、サクラはその場で頷いた。

「わかったわ兄さん。この人の対応とわたし自身の仕事、ちゃんと遂行いたします。任せてよ。わたしだって、仕事できるんだから」

『そうだな。信じているぞ。じゃな』

 プツッ。ツー、ツー。電話が切れた。

 

 

 サクラは通話が切れた携帯を懐にしまって、女性=ミコに振り向いた。

「命令を受理しましたレインさん……いえ、ミコさんですね。ここからはわたしがあなたのお世話をします。言い換えれば監督です。ちゃんとわたしの指示に従ってくださいね。とりあえず、まずは降ろしてください。もう腰も足も大丈夫ですから」

「ええ。わかったわ、サクラちゃん」

 初めて名前で読んでくれたわね。しかもミコって――そう言いながらなぜか感慨深い表情を浮かべたミコはいわれるままに帽子から生やした腕を動かし、サクラの身体を足が地に着く位置まで降ろした。サクラは事前に足を動かしてみる。やはり勘は正しいもの、手応えがあったのでそのまま地面へと足を伸ばして重心移動、大地に立った。腰を抜かしてから初めて立った台地の感触が、足を通して体中に電流として駆け巡る。母なる大地の息吹を感じたのだ――サクラは直感した。これは気のせいなんかじゃない。

 サクラは両手を横に広げて目を瞑り、深呼吸する。都のはずれにある静かな花の墓所、サクラがいる場所はそこである。だが目を閉じて心を手足から開放すると周りの音が聴こえてきた。それは大自然の営みの音……。生きとし生けるものたちの奏でる、替えの利かない、唯一無二のメロディ。

 その旋律を聞き終えたサクラは、待たせていたミコに話しかけた。

「はい、お待たせしましたミコさん。早速おもてなしさせていただきます。なにしてほしいですか? あるんですよね? してほしいこと」

 サクラが目を開けそう告げて振り向く。ミコのいる場所いるはずの場所に。

 が。

 ミコはそこにはいなかった。どこにいった? 慌てて振り向き周りを見回してみると、ミコは墓所行き廃棄処分の花の山が積まれていた荷台の上にいて、勝手に花の山の中に頭突っ込んで中を漁っていたのである。

「ちょっ! ちょっと何やっているんですかミコさーん!」

 サクラはさっきまでの感動的シークエンスから一転、福笑いみたいな顔をして大慌てで駆け寄った。全くもって予想外だっただけに、顔の崩れ方は半端じゃなかった。

 それでもなんとか走っている最中に真面目モードを心掛けて、サクラは荷台に飛び乗り、ミコの足を抱えて引っぱり、埋めた身体を引きずり出した。折角のオシャレな服が絡まった草花で原型無惨となっているのだ。放っておけない。女の子として。

「ぷひゃあ〜。なんか引っ張られたわ。なんで……? って、サクラちゃん?」

「も〜ミコさん、何やっているんですか。服こんなにして。というかわたしの感動体験が泡と消えました。代償を請求します」

「え〜なにそれ? 大方環境のオーケストラを感じ取っていたってことでしょう? それなら心掛けていればいつだって聴けるわ。わたしは一人旅だから、道中いつもそうしているわよ。そうでもしないと、かなり寂しいしね。よって請求は取り下げます。時は金なり。わたしは最初からこれだけが目当てで墓所(ここ)に来たんだから」

 そう言ってミコが山の中から取り出した手には、ふたつの萎びた花が握られていた。

 サクラはそれを見て、目を見開く。意表を突かれたから。

「リバムーク・プロトタイプにキャッシャー?」

「おお。さすがは枯れても花一族ね」

「枯れてませんから」ミコのブラックユーモアをサクラは一刀両断にする。自分はこれからが旬の若手である。老いぼれ達と一緒にされるのは心外なのだ。

 さらにその花を知らぬものと思われていたことにも我慢がならなかった。新人の下っ端とは言えれっきとした花一族、それも名前は由緒正しいサクラである。新種開発が是とされる一族の事業からは遠い位置にいるけれど、開発した花の情報は一族共有の財産である。なにがどの花かくらい、知らされているし見分けられる。

 それをミコにわからせてやるため、サクラは知りうる知識を披露しつつミコの真意を問うてみた。嫌味にならない程度に。でもインテリを気取って。

「我が花一族が主催するコンベンションの今年の目玉、『幻の愛』リバムークを開発する途中で造られた兄妹花とクローンコピーに使う万能受粉花キャッシャー。このふたつがあなたの目的ですか? なんのために?」

「咲かせるため」ミコは即答した。

「?」だがサクラにはその言質が読み取れなかった。咲かす? 何を言っているのだこの女性は。役目を終えた花を咲かせてなんになると言うのだ。

 なのできちんと問い質す。有耶無耶で終わらせるには不可解すぎたから。

「ちょっと待ってくださいミコさん。その花は両方とも埋葬する用済みの花ですよ。それを咲かす? なんで? どうして?」

 なにひとつ曇りなき瞳で訴えるサクラ。が、その目と質問を受け取ったミコは心底意外と、びっくりした顔を見せた。

 しかし、それも一瞬の隙。ミコはやがてサクラの真意に勘付いたようで、あからさまに同情するような憐れみの目を見せ、手に持った二つのしぼんだ花を指で摘んだ茎の部分で回しながら不敵に答える。

「用済み? 冗談。これは系統学的にはれっきとしたリバムーク。サクラちゃんだって言っていたじゃない。リバムーク・プロトタイプって。そりゃあなたたち花一族の要求を満たしちゃいないでしょうけど……でもね、いくら水準を満たしてないからって、造った生命にチャンスもやらないまま根絶やしにして土被せちゃうなんてどうなのよ? わたしツバキの奴にここの話聞いてからずーっとそう思っていたのよ。失敗作だって生命なのよ? なにかを残すこともできずにその一生を他人に終わらせられちゃあ、いくらなんでも可哀想だわ。このプロトタイプには花粉があるし、キャッシャーは生命力が強いからこの状態でも受粉は十分可能。あなたたち一族の使う秘伝の肥料液に浸けてやれば種をつけるまで十分もつわ。あとはできた種をわたしが旅の過程でどこかに巻く。それだけよ」

 そう述べるミコの手中、リバムーク・プロトタイプの花弁には確かに少量の花粉があった。それを見つけたサクラが、胸中に存外意外の念を抱きつつ再度訊き直す。

「つまりアレですか? その廃棄処分される運命の血統を残したいと。そういうことですね?」

 するとミコは先程とは一変、可愛く柔らかな微笑みを見せると、頷き、そして続けた。

「ええ、その通り。この子はあなたたちにとっては完成とはいい難い失敗作かもしれない。でも決して人の都合人の手で滅んでいいようなものではないとわたしは思うのよ。チューリップだって、病持ちが人から見て美しい花を咲かすでしょう? だったらこの子だって、将来の突然変異で思わぬ美を花咲かせるかもしれないじゃない。そういうのが、愛でる側にとっては楽しみなんじゃないかしら?」

 サクラは返事も応答も、呻くこともできなかった。ミコの話に、吸い込まれたからだ。飾り気のない、本当の気持ちをさらさらと話すミコの語りは歌のようだった。聞き入ってしまったのだ。幼いだけに。そしてその解釈は、ただただ泣いてあげるだけ、哀れんであげるだけの愛しか持っていなかった自分にとって、全く新しい愛の在り方だった。花一族の中で一番の博愛精神の持ち主とかいわれていた自分でさえ、その愛の概念が根本からひっくり返されたのである。他のメンバーが聞いたらカルチャーショックでは済まないだろう。

 ミコの真意――ここへ来た理由はそんな単純にしてピュアな思いだったのかと、遂にサクラも理解したのである。

 そうなると、応援したくなる。援助したくなる。接待役としても。一人の花好きな女の子としても。

 サクラはミコの詞を聞いていた間、呆然として緩みきっていた自分の身体に喝を入れると、意を決した快活な顔でミコに宣言した。

「待っててくださいミコさん。すぐにでもツバキ兄さんの研究室に連れて行きますから。そのためにさっささささっと自分の仕事、終わらせます」

 サクラが決意をミコに伝え、いざ埋葬作業に戻ろうとしてミコに背を向けた。そのとき――。

 背中に被さるものを感じてサクラの動きは止まった。否、止められた。ミコがサクラの背を抱きとめていたのだ。優しい感触が服越しに染み渡ってくる。

「み、ミコさん……?」

 なぜこんなことを――サクラがそう問うよりも早く、ミコがある提案を持ち出した。

「あとの作業はわたしがやってあげる。サクラちゃん、任せてくれない?」

「ええ! そんなことできませんよ。この仕事は他人に譲れるものじゃないんです。特に一族以外の誰かにやらせたなんてことがバレたら、わたし立つ瀬がなくなります」

 とんでもない話だったので反射的に拒否するが、サクラの刹那の反論に対し、ミコは穏やかに、しかし強かにサクラの心を揺さぶってきた。

 サクラの手――スコップを握っていた手をミコは自分の手で掴んで二人の目の前まで持ってくる。そしてその手を包んでいた手袋を取ると「やっぱり……」と呟きこう語りかけてきた。

「サクラちゃんの手、マメだらけじゃないの。いくら一族誉れの仕事だからって、育ち盛りの若い子にこれ以上の仕事は苦役よ。女の子なんだから、肌のケアは若いうちからしとかなきゃダメよ? こんなに手を血だらけにしちゃって……」

「ミコさん……」サクラは自分で誇ることでしか慰められなかった傷を労られ、ちょっと心が震える。

「それに、委員会の連中なんてすぐ買収できるからねー」続け様にそう言ってミコはぴゅーっと口笛。しかしまだ純粋無垢な年頃のサクラにはその詞は苦かった。我が花一族はそんなにも汚れているというのか。信じたくない大人の世界。だけど否定するだけの根拠もない。大人になることはそういうことだと、少女サクラも知っていたから。

(それならわたしも。一足先に大人の階段を上ろうかしら……)

 ミコの誘いに乗ることは多分そういうことなのだろう――そうサクラは解釈してズルい大人への一歩を踏み出すことにした。手が痛いのは事実だったし、この人が埋葬に向ける愛情は自分に勝るとも劣らないものだと知っていたから。なら、ちょっと任せてみよう。

 ただしタダでは渡さない。負荷とは言え仕事なので、プレッシャーも同時に与える。

「わかりました。元気象一族のレインたるミコさんのお手並み拝見させていただきます。ただ、この仕事はなるべく早く終わらせないとわたしの株が下がっちゃうんですよ。ほら、明日はリバムークの発表が控えているじゃないですか? それに間に合わせるのも含めて夕暮れまでには終わらせていただかないとー。ちょっとー。もしかしたら二人掛かりになっちゃうかもしれませんよー?」

「なんですって! それは大変。急がなきゃ!」

 ミコはそう言って抱擁を解除しサクラの後ろから右横を通り過ぎる形でサクラの前に躍り出る。いや、踊り出ると言った方がいいかもしれないとサクラは思った。先の発言はサクラの思惑通り、えらく焦り火急の状況を感じさせるものだったのに、前に出てきたときのステップは、踊っているように軽やかなで流麗なものだったからだ。その洗練された動きに、サクラは思わず見惚れてしまう。

 そしてミコが前に出たことで初めて見えたミコの背中と、横を通り過ぎる過程で見えた桜色の髪にも……。

(ミコさんの髪……ソフトトーンの橙色だと思ってたけど、桜色?)

 夕日で赤みを増していたその髪の本当の色が自分の名の花の色だと知り、サクラは胸がときめいた。こんな偶然ってあるものなのかと、いるはずの神に訊いてみたくなる。

 夕日の光でちょっと橙に染まったその髪を靡かせつつ、ミコは両手を振りかざす。その挙動もあいまって、背中がとても大きく印象的に見えた。これが気象一族のレインとしてわたしたち花一族や自然学派、伝承楽団との闘いを経験した歴戦の勇姿というものなのか――サクラはその背中に思わず気圧され、仰け反ってしまう。

 すると、チャックが開く音がした。目には見えない。当然だろう。チャックらしきものはミコの正面、影帽子の正面についていたものなのだから。

 だが、そこからは違った。見えたのだ。影帽子から飛び出した、幾多数多の黒い腕が。

「さあ仕事よ。愛を注ぎて……埋葬作業、開始!」

 ミコの宣誓とともに、その腕達は一斉に動いた。

 ひとつの黒い腕が「あの一件」以来、サクラが放り投げてそのままにしていたシャベルを手に取ると他の手にも一斉に黒いシャベルが現れ、握られる。総勢40を超える腕が耕耘機をも上回る猛烈なスピードで土を掘り起こし、墓所を整え作っていく。そしてあっという間に掘削作業を終えた黒い腕の大群は閑話休題小休止。オリジナルのシャベルを持っていた腕がミコにそれを渡すと同時に、残りの腕達が持っていた黒いシャベルが霞んで消えた。ミコは受け取ったそのシャベルを手首で回して少々持て余すと、そのシャベルの先を埋葬する花達が載せられた荷台に向ける。すると手持ちぶさたと休んでいた黒い腕達は、一目散に荷台の花を掬い上げ、次々と墓所に寝かせては土を被せていくのである。圧倒的な光景――その中でもとりわけサクラの胸を打ったのは花を掴む動作に腕を二本、すなわち両手を使っているところだった。片手で鷲掴みにするのではなく、二本の手で包み込むように取っている丁寧さに、サクラはミコの愛を感じた。

 そしてその感慨に浸る余韻もないまま、埋葬作業は終わりを告げた。全ての花が土の中に隠れ、来世までの眠りにつき、仕事を終えた黒い腕達がミコの被っている黒い影帽子へと戻っていく。最後の腕が戻ると同時に、チャックが閉まる音がした。それは仕事の完了を告げる、祈りの音。

 そして振り向いたミコはニカリと自信たっぷりの笑みを見せ、「どんなもんよ?」と言ってきたのだ。サクラはただただ、脱帽のポーズ。マメだらけの手で、乾いた拍手を奏でる。

「参りました。これが我が一族にも広く知られた脅威、気象一族がレインの誇る影の秘術の実力ですか」

「まあね。わたし、カゲナシだもの」そう言って笑うミコの顔には影がない。あるのは影ではなく、黒。本当なら怖さ倍増のヴィジョンだろうが、不思議と怖さより親しみがもてる。あの背中といい、ミコという人間が持つ印象はそういう類ではないらしい。

(こんな人を敵に回せば、そりゃ負けるかもね……)

 サクラは花一族の人材不足を子供勝手に嘆きつつ、また一族がかつての戦争で決して勝てなかった理由もどことなーく感じ取った。そんな人と今こうして一緒にいることが、とても不思議で、とても素敵に思えた。

「お疲れさまでした。じゃ、ツバキ兄さんの研究室まで行きましょう。ミコさん」

「ええ、サクラちゃん。案内よろしくね。あ、これは影帽子の中に入れちゃおっか。手ぶらが一番、これは旅の真理なんだって」

 二人がそんな感じにやりとりすると、ミコは今一度影帽子のがま口チャックを開き、中から黒い舌を出して残った荷台を絡め取って持ち上げ、舌ごとその口のその帽子の中へ取り込んだ。ご丁寧にげっぷまで出す影帽子の人間臭さ。そしてお互いミコの勧める手持ちぶさたの手ぶら姿になると、何もかも土に還し殺風景にした花の墓所を後にした。中に還った花達への最後の贈詞を呟きながら、墓所の土を踏みしだいていく。そうして墓所の外へ出て、都ガデニアへと続く細い一本道を二人並んで夕日を背に、その沈みゆく音を追い風にして歩いていくミコとサクラ。夜の訪れよりも早く、二人の姿は森の闇に消えた。

 

 

 夜。祭はまだ終わらず、街はまだまだ眠らない。空からは太陽が消え、遠くで輝く星々と逆光に照らされた雲の群れが夜天を飾る時間帯、ミコとサクラはようやくガデニアの街に戻ってきた。都を支配する花一族の最高機密のひとつだけに、花の墓所、結構街から遠いのだ。

 さすがに昼間ミコが辟易したほどの人出ではなかったが、それでも街のにぎわいは他の都のそれを凌駕していると言えた。やはり年に一度のコンベンション期間なので、住民も訪問者も興奮気味だ。路上に並ぶテーブルやビルの屋上に設けられたビヤガーデンで酒盛りが始まっている。こりゃ徹夜もんもいるのだろう。

「ひゅー。祭って感じね。でもウキウキじゃなくてドキドキって感じるとこからして、わたしも歳を取ったわねー」

「それは仕事をして疲れているからじゃないですか、ミコさん? わたしも似たような感情を抱いているんですよ、今まさに。ミコさんはわたしが年寄りだと?」

「えっ! じゃあ違うわね。このドキドキはわたしたち純真無垢な女の子たちが等しく抱くときめきね!」

「女の子って……ミコさーん?」

 あなた何歳ですか、自分を女の子だと思っているんですかというツッコミをサクラは寸でのところ……でもない、胃袋心臓あたり――いわゆる余裕の位置で飲み込んだ。この人にツッコミしても意味ない気がすると、なぜかそう感じられたから。

 そうなるとサクラの対応は早く、より洗練されたものになる。ミコの手――ではなく手首のところの長袖の裾をつまんで引っぱり目的地、花一族の本拠地「栄華会館」へと黙々と先導していくのだ。脇見ふらふら即NG。隙も与えずミコを引っぱる。そんな自分が、ちょっと誇らしかった。

 ほら、行きますよーと前を見たまま意識を自分に向けさせてみると、ミコの方も迷子は嫌〜とかわいこぶった声で応える。甘ったるいわとバッサリ切り捨て二人は人と明かりで賑わうガデニアの通りを歩いていた。

 と、そんな風に歩いていた二人に投げかけられる声と、訪れる一陣のつむじ風。

「サクラちゃーん! おーい! おーい!」

「あ、萌枝ちゃん?」

「ん? 萌ちゃん?」

 サクラが先んじて声のする方向に振り向き、ミコもそれに倣いその方角に顔を向ける。するとこっちに手を振り流れるような長髪を靡かせながら駆け寄ってくるサクラと同じくらいの背の女の子――よく知っている女の子の姿が確認できた。その子はサクラとの間合いを縮めると、大胆不敵にもサクラに飛びつき抱きついたのだ。当然サクラは吃驚仰天。抱きつかれた衝撃と対応の余波でサクラとミコの繋がりは断たれた。なんとか受け止めようとするサクラだが、ほぼ死角からのタックルに対応するには条件が悪すぎた。足で踏ん張ることもできずに倒れようとする身体。だが。

「っとと」

 サクラに引っぱられることのなくなった――フリーになったミコが気を利かせてサクラの背後に回り込み、その背中を支えてくれたおかげでサクラは倒れ込まずに済んだ。背中には、あの暖かい感触が再び。

「ありがとうございます、ミコさん」

「どういたしまして。その子、お友達?」

「はい! 花一族のサクラ一番の親友、柿之本萌枝ちゃんです!」

「かきのもと、もえ……?」

 ミコが含みをもたせた声でその名前を復唱すると、言われた当人が元気よく返事をした。

「そうです! わたしは柿之本萌枝。42代続く由緒正しき柿之本家八人兄弟の末っ子です」

 へえ〜。サクラが背後のミコを見上げてみると、彼女は意外にも、虚を衝かれたと言った感じの、ちょっと呆けた顔を見せた。おお、ミコさんもこういう顔するんだ――サクラは初めて見たミコの新たな一面に、新鮮な気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。

 ところが、そんな感傷に浸ってもいられなかった。ミコの方にかまけてばっかで自分がおざなり二の次にされていると気付いた萌枝が、サクラの身体に巻き付けた腕をきつく締め上げだしたのだ。

「痛い痛い痛い! ご、ゴメンて萌枝ちゃん!」

「もー。サクラちゃんまた気移り? わたしという親友がいながらどうして満足できないの?」

「そんなんじゃないって萌枝ちゃん。この人はミコさんっていってわたしたち花一族のお客様なの」

「え?」その詞を聞いた萌枝は目を見開きキョトンとする。初めて知ったよその事実という顔は子猫のように愛くるしい。

 その愛らしさはミコにも通じたようで、「可愛い〜」とときめいたような嬌声をサクラの後ろで上げていた。が、その顔を拝むことは叶わぬ夢。今サクラにとってもっとも大事なのは前後から拘束されている状態からの脱出だから。

 その意図を込める意味でも、サクラはおしりを後ろに突き出してミコの身体、腿あたりに当てるとそこを土台に踏ん張った。ミコを壁代わりにしたのだ。

 目論見は成功。ミコは反作用で押し退けられ、前へと踏ん張ったサクラは抱きついていた萌枝を抱える格好で自立体勢を取り戻したのだ。そしてこの行為は、ミコではなく、萌枝の方を選んだとアピールする意味合いも兼ねていた。

「ほら。今わたしにくっついているのは萌枝ちゃんだけじゃん?」

「ほんとだ……萌枝嬉しいっ!」

 安い小芝居を挟んで抱き合うサクラと萌枝。三文芝居だと自分でもわかっているが、そんなんでわだかまりが解消されるのなら安いもん(文字通り)だと、サクラは自己評価を下す。この事実、知りたるは自分ばかりなりと思っていたが、背後からのミコのおお〜という歓声と拍手がわずかながら慰めになった。ひょっとしたら……とも思ったが、訊かなかった。無粋だから。

 サクラは萌枝との抱擁を解くと、萌枝と共にミコの方を振り向く。そしてミコを紹介した。

「というわけで紹介するね、萌枝ちゃん。この人ミコ=R=フローレセンスさん」

「ミコさん、ですか……。はじめまして。柿之本萌枝です。『萌枝』は萌芽の『萌』に『枝』と書きます。漢字ですよ。わかりますか?」

サクラの腕をしっかり掴んで下から見上げる萌枝に対し、ミコも安心感を与える柔らかい笑顔で応える。

「ええ、わかるわよ。萌枝ちゃんか……いい名前。漢字はわたしも昔学都スコラテスで勉強していたから読み書きできるし、実はわたしのミコって名前もね、本当は漢字表記なの」

「ええ!」サクラと萌枝は顔を揃えて驚いたという表情をする。するとミコはちょっとイジワルな笑みに顔を変えて影帽子のがま口チャックを展開。中から飛び出た手帳を取ると、その氏名欄を二人に見せてきた。そこにはミコの名前がちゃんと、漢字混じりで書かれていた。

 

 巫=R=フローレセンス――と。

 

 初めて文字で、ミコ本人の筆跡で見るミコの本当の氏名表記。そのインパクトもさることながら、サクラはその筆致の美しさに目を奪われた。隣の萌枝も感心しているのが間違いではないその証拠だろう。萌枝は書の道を嗜んでいるから、サクラよりも書の美が何たるかを知っているのだ。その萌枝が無言で魅入っているのである。サクラが感心するのも然り、当然であろう。

「ほんとだ……わたしとおんなじ漢字の名前!」萌枝が興奮した口調ではしゃぐ。無理もないこと、第一言語の文字とは言え、漢字は公共の場ではもう使われることはない。旧家の誇りと知識層の権威、そして書道家の表現美のためだけの用途にしかならない、今や廃れた文字なのだ。実際ここガデニア在住の市民で漢字の氏名を名乗っているのは柿之本家だけである。家族以外の漢字名を持つ人物と出会えたというのは、少なからず萌枝の心に響いただろう。それがこれから醸成される萌枝とミコの繋がりに善い方向に役立てばなお良い、サクラはそう密かに願った。

 実際願ったのは満更でもなく、萌枝はサクラを取られまいとミコに向けていた険しい態度をかなり軟化させたのだ。客人扱いとした紹介と名前の話題が萌枝に若干の余裕を持たせたのだろう。大いに結構な風向き――まさに順風満帆である。

「ふーん。漢字の名をもつお客様か。で、そのミコさんはどういったご用件で花一族のお客様になったのですか?」

「ああ、それはね……」ミコは萌枝の問いに答え、自分のガデニア訪問の目的からそのために取った行動、これからの予定などを包み隠さずすらすら語る。さすがに自分が元気象一族のレインであることは伏せていたが、それでも話す内容には寸分の狂いも違いもない。そしてその内容は、サクラにも増して無垢で好奇心旺盛な少女である萌枝の心を大きく揺さぶるには十分すぎた。むしろ大きすぎだったかもしれない。ミコの話を聞いた萌枝は群衆の中にも構わず、感涙を流していたのだから。

「いい話ですー。そんな愛情持ってるなんて、わたし感動しちゃいますー」

 素直に感情を顔に出すのが萌枝のいいところであり、サクラの親友たりえる美点なのだが、少々状況はよろしくない。おいおいと一目もはばからずなく萌枝の姿を周りが何事かと注目しだしたのだ。衆目を集める事態はできれば御免蒙りたい。ここでもサクラの対応は早かった。

「ほら、泣き止んで萌枝ちゃん。続きはウチでやりましょう。ミコさん、萌枝ちゃんも連れてきますから」

「わたしは全然OKだけど、萌枝ちゃんは大丈夫なの?」

 至極もっともなミコの指摘。だが、それはサクラにとっては杞憂というもの。

「大丈夫ですよ。この街を治める我ら花一族と旧家柿之本家は盟友関係にありますから。萌枝ちゃんは栄華会館フリーパス、VIP待遇なんです」

 ミコさんと違って――そう締めくくってニヤリとサクラが笑うと、ミコは感心したといった感じにおみそれしましたと述べて、さっささささとサクラの先導のもと、三人揃ってその場を後にした。

 実にあっさり、なにも残さず。

 風のように、雲隠れしたのだ。

 

 

 ところ変わってガデニアからかなり離れた高原の夜道。

 和気藹々と話しながら走る二人の女がいた。

 一人はフォーマルなシャツの上に紐ネクタイと二色配置のベストを着込み、短パンと言って差し支えないほぼ股しか隠さない短いズボンにそれを補うがごとくそこから下の素足をオーバーニーハイソックスで隠す、薄着っぽく見えながらも、ほとんどの肌を隠した、長い後ろ髪を黄色いリボンで一房にまとめた凛々しい女性。

 そしてもう片方の女は、どうみても移動には不向きな、パーティでも目立ちそうな赤い高級ドレスを着込み、ロングスカートを両手で持ち上げながら走っている場違いとも言えそうな女性。

 その二人が、高原の一本道を生物の域を超えたスピードで走りながら疲れる素振りも一切見せず、まるで座って喋っているかのように落ち着き払って道中話しているのである。

「この先が合流地点で間違いないのね? 巴(ともえ)」ドレスを着ている女が相方に話していたのは、そんな詞。すると訊かれたもう一人の女が微笑みながら答えた。

「ええ。この先7500km、大陸の向こう側にあるのが目的地ガデニアよ、萌(もえ)。走っていけば到着は明日。でもそうはならないでしょうね。道中休憩したりするし、その過程で他の神様仲間と合流する予定もあるしね。盗まれた組が多いんだっけかな?」

「わっかんないわよねー、あいつらの熱心さ。私達が盗まれなかった組だからなのかもしれないけど。あのレイン……いえ、ミコ=R=フローレセンスに設計図を盗まれた子達の彼女への執着は凄いわね」

「落なんて特によね。自分をコント勝負で負かしたからって漫才コンビの相方にしようと人一倍執着してるからね。ありゃ神様仲間といえど庇えないし愛せないなあ」

「うん。その一方で設計図の奪還に躍起になっている連中もいる。盗まれて調子の狂った湊や愛が見てられないからって。保護者気取りの連中がね。代表的な奴を挙げると……務(つとむ)や環(たまき)っちがそうかしら?」

「環っちは姉御肌で通っているし、務は湊と仲がいい上通り名が調停の神だものね。そりゃ熱心になるでしょうね。それにしても……」

「にしても?」途中で詞を切った巴の語尾を萌が繰り返し疑問符をつける。巴はひと呼吸おいて続きを語り出した。

「設計図を取られた組やそれに関わるみんなの盗り返そうって気持ちだけじゃなく、他の思惑があってあの娘を追いかけている神様もいるっていうのが、なんだかとても……不思議な感覚だわ」

「一致団結してないってことでしょう? 確かにそうね。私達は泉っちの死の真相を知りたいっていう、透(とおる)っちの提唱に賛同した神だけど、あの娘こそが泉っちを殺した犯人だって主張し追っかけているはぐれ神様もいる。落のように積極的に次の神にしようとする神様もいれば、あの娘を泉の仇と狙っている神様もいるし、整のようにその人間像に興味を示す輩あり、そもそもこの事態にもあまり積極的でない奴もいる。そして……」

「同じ神様仲間なのに、その心中が読めない者達がいる。さすがに冠詞5文字の設計図を持つ人達は違うわよね。四人全員、設計図を守りきったのだからね」

「そしてそれには及ばずとも匹敵し得る格を備えた神達がそれに同調している。私も正直怖いわね。不老不死を体得した神様ともあろう存在が、こんなにも一人の人間によって分割され、踊らされているのだから。でも仲間意識は失わず、情報共有及び共同歩調を保っている。そこが不思議だっていうんでしょう? 巴」

 萌がそう確認を取ると、巴は「ええ」と頷きまた続ける。

「奇妙な感覚。でもこんなかたちでも繋がりを破棄しないところは私達神々の誇り高い美徳であり、財産でしょうね。ま、その話はもういいわ。萌、さっきの会話の中で出てきた整関連の話でもうひとつ花を咲かせましょう」

「こうして移動する前、先月百敷の月に整、帳の情報探索班と合流したときのことでしょう? ええ、憶えてる。甘酒とはいえ飲みすぎて酔った整が暴露した、彼の真実」

「あの娘が整と対峙した際、整は躊躇うこともなくあの『狂活字獄』を喰らわせた。私達神様仲間をも狂い死にの一歩手前にまで追い込んだあの破滅兵器を。でも私達同様あの娘は耐え、そして整から『気味悪さの設計図』を戴いた。でも――」

「実際整が見た話では、あの娘はほとんど『狂活字獄』で苦しまなかった。もちろん受け止め受け入れ理解することは『狂活字獄』唯一の解法。だが整が見たところ、あの娘の肉体は最初こそ発症したものの、5秒も経たずに戻ったということ、だったわね」

 萌の説明に巴が頷く。

「信じ難いことだわ。最初から解法を知っていたとはとても思えない。私達神様仲間でさえ、『狂活字獄』を初めて知ったときはその新しさと異質さに戦いたほどなのだから。解法を導き出したのは実験で喰らわされて数時間も悶絶したあと。整からのヒントでようやくよ? それを彼女はたった5秒で解き放った。度し難い速さだわ。そこに整があの娘に執着する理由がある」

「あの娘の肉体そのものが人間達により造り出されたなんらかの秘術によるものではないかと……。心身一体、かつ心が完成されているのはミコ=R=フローレセンスにとってはもはや当然であり、さらに肉体になにか別の、私達でも知らない秘密があるのではと。整は酒の席でそう言っていたわね。それを俺は知りたいとも」

「そうして実際調べを進めるうち、整と帳の二人はまた面白い情報を寄越してくれたわね。あの娘は、気象一族最高のレインとして、一族次代の担い手を産ませるための母体として、気象一族の益荒男二名に身柄を狙われているとも」

「シャインとクラウドだったっけ? 目的は違えど、見るものは一緒ってことよね。奈落の神整=キャパシティブレイクはその肉体を知りたい。気象一族の種馬共はその肉体が欲しいと。どうして私達神様と違って人間ってこうも下賎な欲望しか持てないのかしら」

 萌の問いに、巴は控えめな苦笑でもって答える。

「ま、あの娘の策略によってその二名はしばらく様子見に入った――とも言っていたしね。全く……あの娘、ミコ=R=フローレセンスの力量には脱帽するわ。今に世界が彼女に踊らされるでしょうね。できればその前に捕まえたい。それが私達神々の総意」

「この先の目的地ガデニアに近く手がかりになり得る大きな出来事が起こるやも知れぬゆえ、来られる班は全て集結し潜入せよ――節目の神である茂(しげる)の発言となると、無下にできないわよね」

「ええ……さて、話に花も咲いたし、待たされたって文句いわれるのも面倒だわ。急ぎましょう」

「ええ。萌と巴、読みがほぼ同じと意気投合し、どちらが上でも下でもない、姉妹の契りを交わした私達ですもの。この絆、たとえ神様仲間といえども穢していいものではなくってよ!」

「じゃ、行くわよ」

「ええ。飛ばす!」

 そう言って話を打ち切った二人はさらに速度を上げ、夜道からその姿を消した。

 変異の神、巴=フラッグシップ。

 風流の神、萌=プリズムリリック。

 偶然にもミコのいるガデニアを目指していた二人の女神の神速に、ついてこれるものはいなかった。ただ、星の光が照らす彼女達の影の残像だけが、そのスピードの証明だった……。

 

 

 ガデニアの中枢を占める地区で一際目立つ、栄華会館。

 だだっ広い敷地を持っておきながら、建物の占有面積は大したことなく、また高さも四階建て、一階あたりの高さこそ4.12メートルと無駄なくらい高いものの、結局全高は20メートルにも満たない低さ。高層建築の多いガデニアを統べる花一族の本拠地とはとても思えない。質実剛健な造りで外装はそこそこではあるが。

 それでもここを初めて訪れたミコはやはり意表を突かれたようで「これが栄華会館?」と立ち尽くしてしまっていた。まあ当然ね――サクラと萌枝は頷き合う。と同時に、邪悪な笑みを見せ合いもする。目に見えるものが全てではない――そう、ミコが及びもつかないような秘密がこの栄華会館には備わっているのだ。

「さ、入りますよミコさん」

 サクラが音頭を取る。ミコはハッと気を取り戻し「え? ええ……」と頷いた。

 そこに前を見ていた萌枝が正面エントランスを指差して続ける。

「あっ、あそこにツバキさんいるよ」と。

 その指摘を受けたサクラはミコとほぼ同時に振り向き、目を凝らす。すると確かにそこにいた。黒い詰襟の委員会委員のみ着られる礼服を着込んだ金髪の上司――ツバキの姿が。

 サクラは兄貴分でもある彼の姿を確認するとまずは手を振った。彼は頼りがいのある笑顔でそれに応えたが、次の瞬間、突如その姿を消した。

 それと全く同じタイミングで、サクラと萌枝の後ろにいたミコの気配も消えた。萌枝はミコの消失跡を見て「どこ、どこ?」と顔をキョロキョロさせる。サクラも最初はその状態だったが、曲がりなりにも花一族、すぐに二人の気配を察知した。

「上!」サクラは上空を指差し、上を向く。

「上?」萌枝がサクラの叫びを鸚鵡返しに繰り返して、自分も上を見上げる。すると――いた。

 上空で一戦交えている、ツバキとミコ=R=フローレセンスが。

「って兄さん葉切剣ウーゾケルト抜いてる! 本気だわ!」

 元対外戦闘部隊、歴戦の勇士でもあるツバキは花一族有数の剣士として知られている。特に彼が使う植物の葉を使役し作り出す葉切剣ウーゾケルトは、花一族の最強剣と畏れられた名剣だ。それを遠慮なく使うのか――サクラはこれが戦場で知り合った二人なりの挨拶・戯れの儀式であると見抜いていたが、ツバキの意気込みを見誤っていたことを思い知らされ、少なからず震撼した。

 だが。ミコの方も負けていなかった。あの影帽子のがま口チャックから無数の黒い腕と足を展開し、六本の手による白刃取りや手づかみでウーゾケルトの斬撃を受けきり、そして足による蹴撃を全方角からお見舞いしたのだ。それをツバキは全身に枝骸装甲を纏って喰らう。

 一撃同士、撃って撃たれてを繰り出した二人はそのまま組んず解れつで地面に落下してくると、頃合いを見計らって離れ、着地した。ツバキは枝骸装甲で強化した自分の足でだったが、ミコは攻撃に使った多数の黒い足を蜘蛛のように使って着地。自分の足は使わなかった。そういうなにもかも影帽子任せなところが実にミコらしいとサクラは思えた。

 そして馴れ合いは終了。二人は武装を解除し、手持ちぶさたとなる。

「相変わらず影帽子頼みの戦法かいレイン……いや、ミコ=R=フローレセンスだったな」

「汎用性に富んでる上に、身体と違って使わないと感覚と技術が鈍るからね。ツバキ、葉切剣ウーゾケルトでの挨拶、久しぶりにお姉さん震えたわよ」

「どうも。ともかくよく来た我が好敵手よ。今宵は客人として歓待しよう。ほれ」

 そう言ってツバキはミコにプレートらしきものを投げ渡す。もう危険はないわね――そう判断したサクラは事の顛末を固まって凝視していた萌枝の手を取り、ミコの隣へと二人して駆け寄る。そして覗き込んでみると、それは紛れもなく、栄華会館の施設、設備使用を許可する、特別ゲスト用のキープレートであった。萌枝のゲスト用キープレートより使える代物である。

 まじまじと眺める三人に、ツバキが説明をしてくれた。

「委員会にフリーランスになったレインが来るぞって伝えたんだよ。そしたら緊急会議になってな。議論は紛糾、でも最終的には貸しを作って利用してやろうってことで話はまとまり、その大盤振る舞いだ。全く……昔からお前の演算は外れないな、ミコ」

「ミコって呼んでくれるのね……気象一族の元お仲間達にも見習ってほしいわよ、ほんと。それにしても買収も偽装工作もせずに済むとは……わたし自身ちょっぴりびっくり。この借りはちゃんと返すとしましょう」

 ミコはそう言ってキープレートを指先で角ひとつを乗っけるかたちでくるくる器用に回してみせるとしばらくそのまま遊んでいたが、やがて指二本で挟み保持する。そのタイミングでツバキが踵を返して告げた。

「じゃあついてこい。俺の研究室に案内してやる」

「ええ。わたしはあなたについていく。今だけね」

「待ってくださーい。ほら、萌枝ちゃん」

「サクラちゃん。わたしも一緒に入れて」

 三者三様――一人多くて四者四様のかけあいを見せた四人は結局一丸となって正面エントランスを通過した。もっとも、一人ずつキープレートを認証しなければ入れなかったが。

 中に入るとそこはさらに広い四階まで吹き抜けのエントランスホール。前にはデカいエレベータが12基、横一列に並んでいる。

「よし、行くぞ」ツバキが手を前に振って合図する。そこにミコの質問が入る。

「あんたの研究室って何階なの?」と。こりゃわかってない。サクラは確信した。

 するとツバキは澄ました顔で、ミコの方も振り向かずに、

「地下77階だぜ」と答えたのだ。

 サクラは決定的瞬間を目撃すべく萌枝の手をかなりの力で握りしめながらミコの顔を見上げていた。手を握られていた萌枝も一緒になってやはりミコの顔を見ていた。彼女もわかっていたのだ。力を込められたのは二人揃ってベストシーンを見ようという声にできないサクラの合図だと。二人して見上げる先にあるミコの顔。その顔は――。

 ぼーぜんと、間抜け100点満点の、顔の芯まで抜け落ちた面白顔でした。

(はい! いいモン見させていただきました!)サクラと萌枝は脇の下で親指立てた拳をこつんとぶつけてガッツポーズの代わりとした。こういうのは当人の知らぬところでひっそりと楽しむものですから――いまどきのエンジョイマナー、サクラも柿之本萌枝もそのマナーを修得している人間なのである。

「地下があるの……ここ?」

 知らぬはレインばかりなり。レインことミコがようやく我を取り戻して放った第一声がこれ。ハハハ、やはりわかっていなかったのね。サクラは自由の利く片手でポンとミコの背中を叩く。ミコは柄にもなく「ひゃっ!」と怖じ気づいたような悲鳴を上げる。そのリアクションがますます面白い――ついにサクラと萌枝、そして顔を向けなかったツバキの三者は声を出して笑い出した。はははははと。

「おいおいミコ、仮にも都を統べる一族の本拠地が四階建てで十分だと思ったかい? 俺はそうとは一言もいってねえぞ。なあサクラ、萌枝」

「うん」「そうですね」サクラと萌枝がツバキよろしく澄ました顔で続く。ここに至って初めてミコは、自分が無知であったことを知らされ羞恥にその身を悶えさせた。

「あーっ、やられた! 騙された! 敷地が広いから花用の庭にしてんだろとか狭くても上手く使ってんだろとか別館でもあるんだろとかって勝手に納得しちゃってた。悔しぃ〜」

「勝ったぞ……サクラ、萌枝。俺達はあの気象一族のレインことミコ=R=フローレセンスに勝ったんだあー!」

 雄叫びを上げて豪快に拳を突き上げ、ガッツポーズをとるツバキ。サクラと萌枝もそれに続く。相手に気を使うこともなく盛り上がれるときはとことん行け――エンジョイマナー第五条――を三人はこの身この心で実践していたのだ。そしてミコはその拍子に崩れ落ちる。悔しいだろうと同情する気持ちもなきにしもあらずだったが、九割九分はミコの自業自得。なのでほっとく。歓喜の瞬間とは悲哀の瞬間と並び人生の道の中で遭遇することが稀なイベントなのだ。ミコには悪いが楽しもう。とことん笑ってやるのも礼儀である。

 そんな構図がしばらく続いたが、楽しい時間は短く過ぎる。1分もせずに四人は冷めてしまい、落ち着きを取り戻し元に戻る。盛り上がっていたツバキ、サクラ、萌枝の三人も。落ち込んでいたミコの方も。

「じゃ、今度こそ行くぞ」ツバキが先導するとサクラ達は素直に、犬のようについていく。ツバキが入ったエレベータにこそこそそそくさと入り込み、地下77階を指定するツバキの様子を信頼して見守る。まもなくしてミコが沈黙状態を破り、質問という名の口火を切った。

「この栄華会館って、地下埋没型の建物だったのね、ツバキ」

「ああそうだ。だが厳密には建物じゃないな。球体状の空間を地下にいくつも掘り続け、その心柱として栄華会館のビル棟が貫かれているわけだ。地下階層は365階まであるぞ」

「深いわね。地震の起きないこのご時世でこそできる御業だわ」

「ふふ……気象一族として地震を司るクエイクを知っているお前が言うと詞の重みが違うな。サクラ、萌枝。こいつの元いた気象一族にはな、クエイクっていう地震を使う奴がいるんだぜ」

「えっ……どういうこと、サクラちゃん?」気象一族の事情など露程も知らない萌枝がサクラに尋ねるが、戦争を知らないサクラも詳しくは知らない。なので視線をミコに泳がす。元気象一族のメンバーに話を振った方が、有意義と幼いながらに判断したのだ。

 ミコもその視線を受け取り、サクラの頭に手をのせ「いい判断ね」とサクラを褒めてから語り出した。

「わたしのいた気象一族ってのはね、気象だけに留まらず、地震っていう大地の振動災害や津波っていう山まで飲み込む水害災害といった、古代天災と呼んだ広義の自然現象を契約か封印によってその身に宿す『端末』達の集まりなのよ。端末には2タイプある。先にも述べた契約型と封印型ね。わたし、レインや他の気象現象の大部分は契約型端末。適性を持って契約することで自分の意思でその自然現象を行使するタイプ。で、もうひとつが封印型端末。起こりうる自然現象を適性という名の器でもって全てその身に封印し、その現象を必要時に解放するタイプ。クエイクはまさにそれ。この人間・生命世界で地震が古文書や歴史の教科書でしか知られていないのは気象一族に属した歴代のクエイクがそのエネルギーを全てその身に封印し続けてきたからなの。それだけにその力は代を経るごとに増してく一方でね。しかも当初は契約型だったのを封印型に切り替えたという曰く付き。文明そのものをリセットできる力を持つがゆえ、古来より決して実戦では使われなかった、されど気象一族の抑止力としての役割を担ってきた、ヒストリークラスの強者よ。でもね、歴代のクエイクが封印型でもってその端末に地震を封じ込めてきたからこそ、今の時代に地震はなく、こうして地下の名城栄華会館は成り立っているんじゃないかって、そういう話だったのよ」

「なるほどですー」萌枝がその意を得たりといった返事をする。詞にはしなかったが、サクラもまたミコの話に聞き入っていた。契約型と封印型などいう分類から端末、ヒストリークラスといった用語まで、初めて聞くことが目白押しだったからだ。聞いていて思ったのは花一族と似ているようでやはり似て非なるものであるということ。その力を求め得たところは対象が自然現象と植物という違いこそあれ、サクラの属する花一族と気象一族、その成り立ちはほぼ同質だと思えた。でも対象が違うだけに、その力の源泉や力の扱い方には差異が多いとサクラは結論する。自分達のことを『人基』と呼ぶサクラ達花一族にとって、気象一族の『端末』という単語はその最たるものに思えた。似て非なる存在――サクラの脳裏にそんな表現がよぎる。

 と、そこまで考えきるとエレベータの下降に伴う無重力感覚が消える。と同時にツバキの詞。

「着いたぜ。降りるぞ」

 ミコの長い口上を聞いている間に、サクラ達の乗ったエレベータはツバキの研究室がある地下77階に到着していたのだった。再びツバキの先導し、サクラ達はその後をてくてくぽてぽてと辿る。

 目に入ってくるのは、一面開けたビオトープ。遠目に見えるガラス張りの窓が、ここがまだ建物の中であることを改めて認識させる。その先に広がるアンダースフィアのカラーが夜を告げる黒なので、ビオトープを照らす室内の明かりが際立つのだ。

「すごいわね……地下の球体空間に心柱のビル、しかもなにここ? 外とほとんど変わりないビオトープじゃない。研究室とは思えないわ」

 ミコが心底感心したと言った感じの口調で、心を震わせた声で感嘆する。その様子を見ていたサクラはなんだか嬉しくなり、威張って胸を張る。

「どうですか? 花一族の栄華会館は」などとのたまってもみる。隣の萌枝まで真似している。その様子をツバキは微笑ましげに見守ってくれていた。

 そして、ミコもわかっていてくれていた。サクラと萌枝の遊び心……無邪気な子供心を。

 ミコは両の手をサクラと萌枝、二人の頭に載せて優しく、しかし力強く撫でてやると、二人と同じ位置まで進み出て、そして駆け抜け追い抜いていく。残されたサクラ達が振り向くと、大きな背中が眼に入ってくる。

 

 それはこのアンダースフィアよりも大きいのではないかと、そう思わせるくらいに――。

 

「で? お前は俺の研究室でなにがしたいんだ」

 ツバキがいまさらにミコの目的を問う。ミコはそれに応えるように影帽子の中から花の墓所で収納した荷物を吐き出した。

 サクラが使っていた荷台にリバムーク・プロトタイプとキャッシャー。

 荷台を横に置き、二本の花を自分自身の『手』で取ったミコがかくかくしかじか説明すると、ツバキはプッと吹き出し爆笑。そんなこと考えんのはお前だけだぜ〜と笑い転げる。しかしすぐに起き上がり、ま、この世の果てまで旅する前なら見つけられんだろうなとも呟き、こっちだと踵を返した。ミコもそっちへついていく。その様子を見届けていたサクラと萌枝も目を合わせ、頷き合い、後に続いた。

 程なくして着いたツバキの研究室。ビオトープの中にある、ガラス張りの天候調整室。

 その中に皆が入ると、ツバキが空いている机を指差す。

「あそこで待て。受粉に必要な道具は俺達が取ってくる。サクラ、萌枝、手伝え」

「はい」「わかりました」二人も神妙に頷き、迅速機敏に行動する。三者三様の上、それぞれの動きが速い。結果? 言うまでもない。20秒もかからずに、ミコの待っている机の上に必要な機材が揃った。

「ありがと。みんな」ミコが三人の方をいちいち振り向きながら目でも礼を言う。素直な感謝――それだけに心を強く震わせる。サクラはこの上なく満ち足りていた。

「このキットがあれば受粉作業もそれまでキャッシャーを保たせるのも十分ね」

「そうとも言えねーぞ。問題は時間だ。特注の肥料液を用意してやったが、受粉した後種ができるまでは最短でも1週間はかかる。それまでお前をここに泊めておけるかどうかは委員会次第だ。とりあえず一泊ってことでしか、そのキープレートは記録してないからな」

 ツバキの冷静な指摘は、別の一族に厄介になる苦労の話。確かに、一族の中枢に一族外の者を一週間も留まらせるほど花一族は機密意識が低くない。協力関係者でゲスト用プレートを持つ萌枝でさえ、2日とここにはいられない。

 だがミコはここであの不敵な自信を持った笑みを浮かべる。

「十分じゃない。忘れてない? わたしは元気象一族。そして今でもレインなのよ。雨に加速信号を組み込み降らせれば、この子は翌朝には種をつけるわ」

「あ……そっか」ツバキは一瞬ぽかんとしたが、すぐに合点がいったという顔になる。

 一方そうならないのはサクラと萌枝である。加速信号? なにそれ……と頭の中は疑問符だらけだ。だがミコはもう綿棒を手に取り、受粉作業に取り掛かっていた。

 丹念にリバムーク・プロトタイプの花粉を綿棒に纏わせ、キャッシャーのめしべに塗り付けていく。そしてそれを終えると、そっとキャッシャーを肥料液のビーカーにつけてやり、手を放す。そして――。

 その掌を天井に翳し、何度かくるくる回したのだった。

「来たな」ツバキが懐から携帯電話を取り出すと、なにやらコマンドを打ち込んで電波を飛ばす。すると研究室の上空に光紙ディスプレイが現れ、外の様子を映し出す。

「見てみな。サクラ、萌枝。これがこいつの、レインと呼ばれた女の力だ」

 ツバキに言われるまま、サクラと萌枝が外の様子を見る、と――。

 雨が降っていた。荒ぶることない優しい雨が、空から地面に降り注いでいた。

「まさか……これ、ミコさんが?」サクラは様々な思考が巡り巡って混乱していた。が、言いたいことは頭で理解するよりも先んじて出た。気象一族のレイン、なら雨を降らせることもできるはず――そういう結論に。

 そして事実それは正しかった。手の空いたミコがサクラの仮説を肯定してくれたのだ。

「そうよ。雨を知り、雨を呼び、雨を使う。それがレインの名と属性を持つものの力。今わたしはここガデニアに雨を降らせたわ。特殊な信号――加速信号を混ぜた雨をね」

「加速信号っていうのはなんですか?」今度は萌枝が口を開く。好奇心の塊である萌枝にとって、はじめて見る気象一族の力は絶好の興味対象なのだ。

「雨に直接触れるもの……または雨音や雨の匂いといった雨のもたらす五感影響でもって雨の降る範囲内での時間の経過速度を早めることよ。受粉させてから種ができるまで7日間、ならそれを1日以内で済むように加速させようって話」

「な、なるほどです」

「もっともこの加速信号は雨の範囲次第で無差別に他の人とか巻き込みかねないから、この夜だけにしておくつもりよ。夜に雨が降れば、祭で騒いでいる街の人達も家に帰って寝るでしょうしね。注意して今回の加速信号は寝る人達とかは加速対象外にしてあるから。手を抜いた果てに他の人巻き込んで歳取らせやがってとか言われたくないし」

「ハハ……違えねえ。作業も済んだし、後は時間の問題だ。もう寝るぞ。サクラ、萌枝」

「えっ?」サクラは指示を出したツバキの方を見る。それはミコだけじゃなく、成り行きでついてきた萌枝も泊めるということなのだろうか?

 サクラがその旨をツバキに問うと、ツバキは首肯した。

「聞いてなかったか? この雨は起きている奴は加速させちまうんだ。ならもう外に出して帰らせることはできないだろ。元々れっきとしたゲストなんだ。今日一日泊めるくらいわけないことさ。家には俺が連絡入れといてやるよ」

「そっか……。だってさ、萌枝ちゃん。また3日ぶりだけど、泊まってく?」

「もちろん! でもツバキさん、わたしお風呂には入りたいです」

「当然だな。それがレディの嗜みだ。来い、こっちだ。サクラも一緒に入れ」

「はーい。今日は疲れましたー」

「俺は別の風呂場を使って寝る。今日の仕事はもう終わったからな。ミコ、お前はどうする?」

「うん、お世話になるわ。ここでハンモックでも張って寝るわよ。お風呂もね。それにしても……」

「ん?」最後にミコと話していたツバキが突如会話を打ち切ったミコを訝しげに見つめる。

 ミコはツバキの方を見ていなかった。視線の先には――萌枝がいた。

「萌枝ちゃん」

「え? は、はい……どうかしましたか?」

「ううん、他愛もないことなんだけどね……漢字こそ違うとは言え、その名前をもう一度聞くことになろうとはねって、ちょっと感慨に浸ってたんだあ」

「え? それって……」萌枝はそれ以上口を挟めなかった。口上に詰まってしまったのだ。

 だが、それを見かねたサクラが萌枝の手を取り、隣に寄り添ってミコに訊く。

「つまりミコさんは『もえ』って名前の人と、前に会ったことがあると?」

「サクラちゃん……」

「フン」寄り添う体勢から寄りかかり隠れる体勢に変わる萌枝を庇うようにして、サクラは警戒を隠さない態度でミコに相対する。決して敵意があって対峙しているわけではないが、本当のことを確認するまではこのままのつもりだ。

 だが、ミコはプッと笑い出すと、ごめんごめんと涙を拭いながらその通りよと肯定した。

「そう。ここに来る前、こことは別の場所で会ったことがあるのよ。その名前を持つ、とても高貴な方にね。どんな場所でも高そうなドレスを汚すこと前提で着る方だったから、ここがしっかりと憶えているのよ。その記憶が同じ読みである萌枝ちゃんをきっかけに思いだされたわけ。笑っちゃってゴメン。でも……だからかな。ほんと、旅はやめられないわ」

「ミコさん……」サクラは後ろに隠れた萌枝と頷き合うと、警戒態勢を解いた。だがすぐに背を向け、二人して風呂場のひとつへと向かったのであった。後に大人二人を残して。

 

 

「ありゃりゃ、嫌われちゃった? それとも変な趣味持ってるとか勘違いされたかしら? だとしたら悲しいわねー。旅人は一期一会にして短期滞在が基本。ここを去るまでに誤解、解けるかしら……」

 ミコは絶賛反省中であった。自分が萌枝の名をきっかけに風流の神、萌=プリズムリリックを思いだして色々思いだしたり結びつけたりで一人妄想に飛んでいたことに。

 その状態で対応してしまったら結果は先の通り、案の定だ。サクラと萌枝には警戒され、いらぬ疑念を植え付けてしまった。そう、疑念という名の種を。

 それもこれもあれもどれもと全部津々浦々と呟いていると、傍らから肩に載せられる手。誰かはわかっているがミコは振り向く。そこには当然、残った最後の一人であるツバキの顔があった。

 彼はやれやれという顔で顔を横に動かすと、気にすることはないと慰めの詞を語り聞かせてきた。

「あいつらはまだ子供だ。片方は花一族であり、もう片方は旧家柿之本家の令嬢である。それは確かだ。覆しようのない真実だ。だがなミコ、それ以前にあいつらは子供なんだよ。まだ十分に学ばす、精神の成長を知らず、善も悪も碌に経験していない幼子だ。そんな子供相手にどんだけ本気なんだお前? 少々熱が入り過ぎだぞ」

 ツバキの指摘はもっともだった。が、ミコの有り様に投じる一石としては脆すぎた。その指摘を受け入れて変わるほどミコ=R=フローレセンスは柔軟ではない。自分はもう突っ走るしかないのだ。神様の問題を解き、嘘の神泉=ハートの消還を見届け、自分の宿命を知った自分は、その自分を曲げずに生き抜くしかないのだ。ツバキの詞は一石として心の水面に当たったが、沈むこともなく浮かぶこともなく弾けて粉砕されただけだ。

 しかし、当たったということは波紋を残したということ。それは揺らぎようのない事実。事実ツバキの詞を受けて、ミコは気持ちが軽くなっていた。なのでその返礼としてミコはツバキに自分の道を示す。

「子供だからって侮っていると、今に下克上されるわよ。確かに、わたしから見てもあの子たちはまだ子供。でもそれ以上に立派に生きている生命じゃない。だったらわたしはその眼その道その背中としっかり向き合いたいの。そこには子供も大人もない。等しくこの俗世にいる相手のみ。あの子たちはその相手にふさわしいと思った。わたしの見立てではそうなった。だからわたしは反省するし、動揺もするし、後悔だってする。子供相手にだって真摯に本気で向き合う。その後変えていけばいい――それが今のわたしの有り様、生き方なのよ」

「わざわざ苦労を背負い込むやり方を押し通すとは……人生損するぜ、今に。ま、他人の生き様にどうこう言う資格なんてのは親にも正義にもないからな。せいぜい見届けさせてもらおうか。お前のやり方であの二人とどういう関係に落ち着くのか」

 ツバキはそう言って手を離した。ミコのその動作の意味を察する。頭を切り替え、進み出す。目指すは風呂場だ。

「わたしが使える風呂場はどこ? あの子たちが使ってるところ以外にもあるんでしょ?」

「ああ、風呂場はこの階だけで12ある。こっちだ」

 急がなくていい。その想いを秘めてミコは一日の清算をするべく、風呂場に向かう。

 

 

 サクラと萌枝は栄華会館地下77階に12ある風呂のひとつに入り、身体を洗い終えて湯舟につかっていた。花の墓所で仕事していたときにはマメだらけだったサクラの手も、回復用の体樹液を手に集中的に分泌させていたおかげでもう痛みは感じない。むしろ皮膚は硬く、丈夫になったのだから喜ばしいことだろう。その安堵に加え、温泉の素を入れている湯舟に浸かっている心地よさが、極楽気分をもたらしていた。

「うーん。仕事の後のお風呂は気持ちがいいわねー」

「サクラちゃんは働いて糧を得る勤め人だもんねー。同い年なのにわたしは家で家庭教師にお勉強や習い事、たまに稽古場で武術のお稽古……。全然働いてない」

「なに言ってるの萌枝ちゃん。今の時代、この歳で働くなんてことの方が異常なのよ? わたしだって毎日働いているわけじゃないわ。仕事は週3日、残りは2日鍛えて、休日2日のスケジュール。仕事しているより、してない日の方が多いわ。ただ、花一族にとって由緒正しきサクラの名を持っているからこそ、ただ遊ばせておくにはいかないって委員会の期待を背負って仕事を与えられてるの。だったらその期待には応えなくっちゃ」

 サクラが自分のシフトと一族の事情を説明するが、それでも萌枝は「それが羨ましいの!」と頑固一貫に主張した。

「友達のサクラちゃんがどういう形であれ働いてるならわたしも一緒じゃなくちゃイヤ! そうじゃないと、本当の親友じゃないって……本に書いてあった」

 ブクブクブク……。サクラは顔を湯舟に俯け沈めて気泡を吐く。本の内容に影響受けまくりの親友の単純な思考回路にしてやられたのだ。そして、自分でさえ判断できる、子供っぽさにも。

(こりゃ話せば話すほど泥沼だよ……どうしよ)

 顔を湯につけて考えるサクラ。もっとも時間はあまりない。息がもたないから。それなのになにも考えつかない無能ぶり。苦し紛れに残りの息を全部湯にぶちまけると、ひとつ思いだしたことがあった。顔を持ち上げ、湯で軽く洗ってから話を再会した。

「大丈夫よ。萌枝ちゃんはどんなでもわたしの親友。これは間違いようのない真実だし、決定よ」

「サクラちゃん……」

「ほら、ミコさんに萌枝ちゃんを紹介した時のセリフ、憶えてる。わたしはミコさんに萌枝ちゃんのこと、『花一族のサクラ一番の親友』って紹介したじゃん。だから大丈夫。対等じゃなくても、親友にはなれるって」

「そう……かな?」

「萌枝ちゃんはわたしと本と、どっちを信じるのさ?」

「あっ……」萌枝の表情が止まる。それは大事なことに気付き、彼女の時間が止まったから。こじつけじみた説得だったが、うまく効いてくれたようだと、サクラは胸中ホッとする。

 そして再起動した萌枝は、ハッキリと意気込んだ声で答えた。

「うん、わたしはサクラちゃんを信じる! だからわたしたちは親友だ!」

「そういうこと……ふぅ」

 善き結末を迎えられたことに安堵し、サクラは再度身体を沈め、口まで湯に浸けブクブクと気泡を出して遊ぶ。癒しのお湯に包まれながら、今日一日を思い返す。

 いつもの数日分にも匹敵する、色んなことがあった気がする。その中心にいるのは、やはりあの女、ミコ=R=フローレセンスだった。

(カゲナシのレイン……そして、気象一族を抜けた女)

 かつて我が花一族と闘った女。フリーランスになったことで、委員会も利用できると判断するほどの『力』を持った女。その力の一端はサクラも垣間見たが、あの女性の底力は、もっと広く、もっと深い気がしてならない。それこそなにか、ヒントは与えられている気がするのだが、解答はまるで見えてこない。霧に隠れて見えないのではなく、そもそも答えそのものが、透明で不可視であるかのようなのだ。

 わたしはあの人に興味を持っている――サクラは自分の心の動きを把握した。

 ならば行動あるのみだろう。サクラは長らく浸かっていた湯舟から立ち上がり、萌枝に手を差し出す。

「サクラちゃん?」

「もう出よう。萌枝ちゃんも。早く寝ないと他人より老けちゃう」

「わかった」

 萌枝が伸ばした手を掴み、引っぱり上げたサクラはバスタオルを身に纏うと二人で浴室を後にした。

 風呂から出た後は髪の水気を丹念に拭き取り、簡素なバスローブに身を包んで元の場所に帰る。おやすみなさいを言うためだ。上司として世話を焼いてくれたツバキや、今日のスペシャルゲストであるミコになにも言わずに寝たのでは体裁が悪い。だから彼等――特にミコに会うべくサクラと萌枝の二人は研究室に戻って来ていた。サクラは憶えていた。ミコが「ここで寝る」と研究室の会話で言っていたことを。実際、この研究室にはハンモックを張れるだけの木々もある。また一階丸ごとビオトープとなっているこの地下77階で「寝れる」部屋と言ったらログハウス以外はあの研究室しかない。ここのはず――ガラス張りの研究室の入口で、サクラは確信していた。

 もっとも、すぐにおやすみを言えるとは最初から思っていない。自分達が一番に風呂に入っていたから、中でしばらく待つことになるとも予想はついていた。風呂に浸かってリフレッシュした頭が先の先まで読ませていたのだ。

 だから期待せずに何気なくスライドドアを開けたサクラと萌枝は――度肝を抜かれ、声を失った。

 中に入った途端、ハンモックの中で寝ているミコ=R=フローレセンスの姿を見たのだから。

 しかもその近くの机には寝間着姿のツバキまでいた。なんで?――考えてもわからない。(わたしたちが風呂場で結構話し込んでいたから? でもお風呂にいたのは9分よ。決して長過ぎとは言えないはず。なのにミコさんは風呂に入って、挙句もう寝てるっていうの?)

 思考の迷宮に迷い込みかけたサクラだが、その危機は間一髪で回避された。待ち構えていたツバキが二人に話しかけてきたからだ。しかもその内容がまた痛快。

「長かったな。サクラ、萌枝。風呂場で遊びたい年頃なのか」

 図星を指された上に茶化された――受けたショックはこの上なく大きい。

 だから質さずにはいられなかった。サクラはぐうの音も出ない息を呑み込んでから反論の質問としてぶちまけた。

「兄さん、兄さんとミコさんがお風呂に入ったのはわたしたちよりも後ですよね?」

「ん? おお、そうだったな。もっとも、お前達に嫌われたって悶えているあいつを風呂に行かせるのに結構時間喰ったけどな」

「なのに兄さんもミコさんもわたしたちより早く出たんですか? しかもミコさんもう寝ちゃってるし」

 サクラの問いかけが終わる。ツバキは苦笑しながら答える。

「大人は時間の使い方がうまいんだよ。少ない時間も無駄にしないのさ。俺も、あいつも。お前達にもいずれ教えてやる。できる大人になるためにはこれくらいの芸がないとやってけないからな。で、ミコの奴はもう寝ちまったわけ。俺におやすみって自分の分も言っといてくれだと。全く、マイペースなところは変わってねえぜ」

「そう……なんですか」

 サクラはツバキの説明を鵜呑みにすることさえできなかったが、とりあえず憶えることで落としどころとした。自分達子供の知らない大人の芸。ならこれから年月を重ねて大人に近づいていけば、おのずと理解できるのだろうと、「自分の今」を把握することだけはできたから。

(それにしても、ミコさんは……)

 サクラは萌枝と一緒にハンモックで寝ているミコの方へ忍び寄った。ツバキはそれを生暖かく見守ってくれている。抜き足差し足忍び足。起こさないようにそーっと近寄り、二人でミコの寝顔を覗き込む。見えてきたのは……安らかという形容がまさにふさわしい、満ち足りた、その上安心感をこっちにまで与えてくれる、穏やかで、静かな寝顔。

 肌身離さず被っていた影帽子をちょっとずらして頭の上においてあるところなんか、ほんとミコらしくて笑ってしまうが、それ以上にその寝顔の造形美・印象美にサクラと萌枝は心奪われた。一体どういう人生を送ればこんな安らかな眠りにつけるのか、教えてほしいくらいだった。

 が、もうそのチャンスは過ぎ去った。チャンスはもう、明日に繰り越されている。

 ならば最初の目的通り、おやすみなさいを言って去ろう――サクラと萌枝は顔を見合わせ、無言で頷き合うと、ミコの耳元に口を近づけ、囁くような小声で告げた。

「おやすみなさい、ミコさん。また明日」と。

 あいさつが終わると、サクラ達の動きは速い。ミコの寝顔に背を向けて自分達の寝屋へと引き返す。研究室の入口はもう開いていた。一部始終を目撃していたツバキが小さな親切を取り計らい、先回りしていてくれたのだ。

「お前達、今日はこの階で寝るのか?」

 ツバキの問いかけ、二人は肯定した。

「はい。わたしたちも明日の朝、できた種を見たいですから」

「それに、ミコさんのリアクションもね。サクラちゃん」

 萌枝の補完を受けてサクラはそうそうと同意する。その様子もまたツバキは微笑ましげに見ていてくれていた。

「そうだな。あいつは滅多にいない奴だ。どっちに転ぶかわからないが、きっと実りを得られるだろう。それは貴重な経験だ。存分に貪りつくしてやるといい」

 思いもよらないツバキの激励。サクラと萌枝は一瞬その詞に呆然となるが、その意味に気付き、「はい!」と宣言した。

 そうして眠る客人を残し、サクラ達は研究室を後にした。

 

 

 深夜。栄華会館地下最下層、地下365階。大宝庭と呼ばれる、花一族の宝を保管する最強金庫室。

 そこに現れる七つの怪しい影。一人が前に進み出ると金庫の蓋となっている巨大な扉に備え付けられたコンソールパネルを慣れた手つきで操作し、あっという間にロックを開ける。扉が開き、七人全員が中に侵入し、たくさんある保管庫のひとつ、リバムークを保護しているものの前に駆け寄った。そこにまた、先程金庫のロックを開けた者がプレートを差し込み、パスコードを入力する。程なくして保管庫のロックも解除され、蓋が開き、眠るリバムークの花とその種が姿を現した。

「これがリバムーク。幻の愛か」七人いる影の一人が呟く。

「そうだ。花一族にとっては久々の至宝、金の卵となる花だ」別の影が答える。

「だが、あの女が持つ神々の設計図とやらに比べればやはり金にしかならないという点で劣る。故に、我らはこれを餌に、あの女――レインから設計図を奪い取る!」

 また別の影がそう告げると、その場にいた全員が頷いた。そしてその者達は、リバムークとその種をひとつ残らず回収すると、その場から消えた。

 

 

 翌日。夢から覚めたサクラと萌枝は起きた後の身支度を迅速に済ませると真っ先にミコのいる研究室へと走って行った。一緒に食べるための朝食を持って。

 高鳴る鼓動、逸る身体。その身体が研究室のドアを開けると――。

 ミコは既に起きていて、机に置かれていたビーカーとその中に浸けられた花に手を翳し、その様子を慈愛の眼差しで見守っていた。

 とても絵になるその光景に見とれるサクラと萌枝だが、経験は凄い。既に何度目にもなるその体験に、心も身体も慣れてきたのだ。すぐに本題を思いだすと、気持ちを切り替えミコに話しかける。まずは昨日できなかったあいさつから。

「おはようございます、ミコさん」二人揃っての合唱が響くと、ミコもこっちを向き、ニコリと微笑んだ。

「ええ、おはよう。サクラちゃん。萌枝ちゃん。昨日はちゃんと早く寝た? ツバキにおやすみの伝言、ちゃんと聞いた?」

「ええ。聞きましたしすぐ寝ました。ミコさんを見習って」

 サクラが皮肉たっぷりに返すとミコはくすくすと笑い、こっちへおいでと手招きした。

「朝食持って来てくれたんでしょう? 戴くわ。これでも見ながら食べましょうよ」

「できたんですね。リバムーク・プロトタイプの種」

 サクラは萌枝に目配せし、二人でミコのいる机まで駆け寄る。ビーカーの肥料液に浸けられたキャッシャーは花も葉も茎も萎びきっていた。全てを子に、種を作ることに生命を注いだ親の姿がそこにあった。

 そして、ビーカーの外側には、薬包紙の上に載せられた、瑠璃色の種が19個、並べられていた。それは紛れもなく、リバムーク・プロトタイプの種。

 本当に時間を加速させるとは――サクラはミコのレインとしての力に震えていた。それが感動からくるものなのか恐怖からくるものなのかはわからなかったが、とりあえずは朝食である。サクラは萌枝と一緒に持って来たバスケットを机の上に置き、中に詰め込んだ朝食を並べる。今日の朝食はサンドイッチをメインに、焼きベーコンなどのおかず、デザートにゼリーもある、結構豪華な一食である。実はサクラたちもこの朝食はちょっとカロリー高めじゃないかと思ったのだが、作ったツバキにもの申す暇もなかった。彼は要件もそこそこに、朝の委員会に出席すると言って地上階層に出かけてしまったのだ。今日はいよいよリバムークの発表会だけに、ツバキが急ぐのはしかたのないことなのだが、3人分にしては多い気がしてならなかった。

 だが、並べられた朝食を見たミコは、サクラたちの心配とは真逆のセリフを吐いたのだ。

「おいしそうね、さすがはツバキ、気が利くわ。ほら、サクラちゃんと萌枝ちゃんもたくさん食べなさい。あいつの料理は花一族でも一部の者しか知らない秘密のレシピで作った特別製よ。見かけよりもたくさん食べれてその上成長に必要な栄養がたっぷり入ってる、育ち盛りのあなたたちにうってつけの食事なの。さあ食べましょう。いただきます」

「い、いただきまーす」率先して手を合わせいただきますと言ったミコに倣い、遅れを取らないようにサクラと萌枝も半信半疑のまま挨拶を済ませ食事に入った。サクラは訝しげに手に取ったサンドイッチを口に入れてみる――その瞬間、歓喜の声が身体から発せられた!

「うまい!」お行儀が悪いと言われるのがわかっていても言わずにはいられないこの食の感動。栄華会館食堂の定食や購買のパンなど比べ物にならない。食の味を活かして少量でも充分な満腹感を与えてくれる一方、いくらでも食べ続けたいと思わせる飽くなき食欲も起こさせる、まさに特別な料理だった。矛盾していながらも導く方向はひとつしかない。

 すなわち、たくさん食べて大きく育てということ――これに尽きる。

 その後はミコの指摘した通りになった。サクラも萌枝も行儀作法なんか二の次にして、心と身体が求めるままに目の前の料理を貪り喰らう。あっという間に食い付くし、食事の時間は終わった。

「ごちそうさまでした」合掌し、深々と礼をするサクラと萌枝。

「よく食べたわね。わたし、2割しか食べられなかった……ちょっと不覚」

 ミコも手を合わせ、感謝しながら少し愚痴る。そう、食への欲望に目覚めたサクラと萌枝で8割、2で割っても一人4割も食べたのだ。3割を優に越えるどころか、ミコの倍も食べている。食べ盛りの子に勝てないわねと、ミコの諦観の詞が聞こえるが、今のサクラたちが感じる充足感の前には無味乾燥なセリフだった。ミコ本人も無粋とわかっていたようで、それ以上は口を挟まず、二人の分まで率先して食器をバスケットに片付ける。それが終わると影帽子のがま口チャックを開き、中から漆黒の箱と絹の布を二つ取り出す。

 それらを机の上に置くと、ミコはビーカーにつけていたリバムーク・プロトタイプとキャッシャーの「親花」を絹の布の片方で包み保護する。そしてもう片方は薬包紙で包んだ瑠璃色の「種子」を二重に包むために使った。上質な絹の布で包まれた「親花」と「種子」を黒い箱にそっと入れたミコは、箱の蓋を閉じ、がま口チャックの中に戻した。

 その様子を見ていたサクラと萌枝は、ハッとする。ミコの行動が最悪の可能性を想起させたからだ。なりふり構わず二人がかりでミコの袖を掴み、問い質す。

「ミコさんまさか、もう行っちゃうつもりですか?」

 それは困る。とても困る。ミコにはもう少し身の上話をしてもらったり、あの寝顔の秘密を聞いたりととにかく色々話したいことがあるから、まだ一緒にいてほしかったのだ。いくら彼女にとっての用事が済んだからって、今この場で別れるなど論外であった。

 そんな風に必死になっていたサクラと萌枝だが、不意に頭に感じる暖かく柔らかな感触。いつの間にか閉じていた目を開けてみると、ミコが二人の頭にその手をのせていた。

「心配しないで、世話役様。わたしの目的は果たされたけど、これだけで去るには少々勿体無いわ。雨も上がらせたし、また人々の活気で賑わうこの街の祭をもう少し堪能したい。本家本命のリバムークの発表会も見たいしね。それまではお世話になるわよ。よろしくね、サクラちゃん、萌枝ちゃん」

「あは……」まるで漫画のキャラクターのような歓声を上げて、サクラと萌枝は手を合わせ、喜びを分かち合った。

 が、喜びもつかの間という格言を地で行く、まさにその瞬間!

 Beep! Beep! Beep!

 フロア全体……否、栄華会館全体を震わす警告音が轟いた。

 その意味は異常事態の発生とわかれど、原因がわからず頭を右往左往させるサクラたち。

 そこに駆け寄ってくる人影があった。ツバキが息を切らせ頭を汗だくにして現れたのだ。

「ミコ! サクラ! 萌枝! いるか……いるよな。そうだ、カメラで見てたし……」

「ツバキ兄さん、どうしたんです。この警告音」

 サクラが代表して尋ねると、ツバキは驚愕の事実を伝えた。

「一大事だ。大宝庭に保管してあったリバムークの花と種が、ひとつ残らず盗まれた!」

 風雲急を告げる事態。祭は狂乱物へと変わる。

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