彷徨える人形 ②

すすけた貧相な骨董品のお店だった。

蚤の市に並ぶような、ガラクタと一緒に、

ガラスケースに入れられ、人形は店の片隅に飾られた。


あんな女の姿を見なくて済むと思っただけで、

むしろ清々した気分で人形は嬉しかった。

ただ、あの青年のことだけが気がかりだった――。

「今ごろ、どうしているのだろう?」

ひとり部屋に取り残されて、絶望した彼の姿が浮かんできて、

胸が締め付けられた。


どのくらい、経っただろうか……

ガラスケースの上に、うっすら埃がかぶる頃に、

人形は誰かの視線を感じて眠りから覚めた。

眼鏡をかけた小柄な東洋人の男がひとり、

しげしげと食い入るように人形を眺めていた。

やがて店主に声をかけ、

たどたどしいフランス語で値段の交渉を始めた。

あら、わたしを買うつもりなのかしら?


彼は仕事でフランスにきていた旅行者だ。

祖国で待つ、妻へのお土産にアンティークドールを探していた。

この店で人形を見るなり、「これは掘り出し物だ!」と内心喜んだ。

しかしながら、幾らかでも値切って買おうと彼は必死だった。

もう何年も売れ残っている人形にうんざりしていた店主は、

東洋人の男のいう値段に譲歩して人形を売り渡した。


そして人形は彼の旅行鞄に詰められて、

何日々も船に揺られ、見知らぬ国へ連れて来られた。

そこは言葉も習慣も全く違う、 JAPONという東洋の国だった。


やっと窮屈な旅行鞄から取り出された人形を、

ひと目見るなり、東洋人の男の妻は歓喜の声をあげた!

「まあ、なんて綺麗なお人形なの!」

その美しさに目を見張った。

奥さんは、『メアリー』という名前を人形に与えた。


人形好きの奥さんは、部屋いっぱいに人形を飾っていた。

それは東洋の人形で、市松人形いちまつと呼ばれている。

黒い髪とキモノを着た、少女の人形たちだった。

市松人形たちが解らない言葉で話していた。

「あの人形、髪の色が黄色いわ!」

「目も青いのよ! ヘンな格好だし、みっともないわね」

「本当、なんて気持ち悪いんでしょう!」口々に人形を罵った。


西洋人形の彼女は、みんなから除け者扱いされたけど……

ひと目みるなり人形が気に入った奥さんは、

お部屋の一番良いところに人形を飾ってくれた。

居心地の良い家に、とても満足していた。


奥さんは、出張がちで留守の多い夫をいつも家で待っていた。

夫婦には子供はなく、ひとりぼっちで孤独な時間が長かった。

家事を済ませたら、庭のお花をいじったり、愛猫とじゃれて遊んだり、 

人形相手におしゃべりをしたりして、一日を過ごしていた。

そうやって、淋しさを紛らわせようとしていたのかもしれない。


そんな奥さんが、この頃そわそわして気もそぞろになった……

窓辺でため息をついたり、毎日、誰かに手紙を書いていると、

ときどき夢みる乙女のような瞳の色になった。


ある日、ひとりの男性が奥さんを訪ねてきた。

どう見ても、奥さんよりずっと年下らしい男性は、

優しげな声で話しかけていた。 

はにかんだ奥さんは下ばかり向いて、男性の顔をまともに、

見れずに頬を赤らめていた。

突然、男は奥さんの手を握ると抱き寄せた。


ふたりは惹きあうように抱き合ったままソファーに崩れた。

「まあ、奥さんなんてことを!?」人形は驚いた。

純情な奥さんが、夫以外の人、

この男性を好きになったのだと分かった。


奥さんは夫の留守中、家でこの男と逢うようになっていった――。



vol.Ⅴ


ふたりの蜜月は、そう長くは続かなかった……

ついに奥さんの浮気が、夫にバレてしまったのだ。


それから人形が見たものは、凄惨な夫婦の修羅場しゅらばだった。

妻の浮気に激怒した夫は、奥さんに暴力をふるうようになった。

大人しく優しかった旦那さんは、 まるで人格が変ったみたいだ。


奥さんが可愛いがっていた猫を殺した。

夜になると、寝室で妻を殴ったり蹴ったりした。

人形に聴こえてくるのは、毎晩、毎晩……

旦那さんの怒号と、奥さんの悲鳴と号泣だった。

人形は、誰かに助けを求めて叫びたかった。

「お願い! 奥さんを助けて!」

「このままでは、旦那さんに殺されてしまう!」

人形も泣き叫んでいた、何もできない人形の身が悲しい。

奥さんを助けたくても、動けない無力な自分に絶望していた。


一日中、奥さんは外出もしないで家でせっていた。

夫に殴られた傷が痛むのか、苦しいそうに呻いていた……

特に顔は紫色に腫れあがり、切れた唇から血が滲んで、

とても痛々しかった、その顔を見るのが人形には辛かった。

奥さんは鏡で自分の顔を見て泣いていた。


女の顔を、こんなになるまで殴るなんて!

人形は激しい怒りで心がどす黒くなるようだった。

いくら妻の浮気を許せないとはいえ、あまりに酷すぎる。

そんなに憎いのなら、なぜ別れないんだろう?


妻を殴りながらも、彼は妻を愛していた。

それは嫉妬という、男の執着心だった。

あまり深く深く愛し過ぎて…… 

愛と憎しみの境界線が見えなくなっていたのだ――。


なぜ奥さんは夫の暴力から逃げないんだろう?

……ただ、彼女は待っていたのだ。 

この家にいれば、恋人が助けに来てくれると信じて……

だけど恋人の若い男は夫にすごまれて、

奥さんを見捨てて逃げてしまっていた。


愛は哀しい、人間は悲しい、と……人形はそう思った。


ついに、怖れていたことが起こった。

真夜中、家の中に男の絶叫が響き渡った!

その声に、恐怖で人形は身の毛がよだった。

「あの声は旦那さんの声だわ、いったい何が起こったの?」


いきなり部屋のドアが開いて、奥さんが入ってきた。

長襦袢の前がはだけ半裸身、全身におびただしい血を浴びて……

手には血のついた包丁を握っていた。

ひと目でなにが起きたのか、人形にも察しがついた。

奥さんは、ついに夫を殺してしまったのだ!


真っ赤な血のついた手で、奥さんは人形を握った。

そして抱きしめて、愛おしそうに頬ずりをした。

奥さんは誰かの名前を呟いていた、何度も、何度も……

その名前は奥さんをもて遊んで逃げた。

あの若い男の名前だった!


男の名を呼びながら、奥さんは泣いていた。

涙をぽろぽろこぼしながら…… 

子供のように声をあげて、泣きじゃくっていた。

それは、あまりにも哀れな女の姿だった。

人形も一緒に、奥さんと声をあげて泣いた。


やがて、奥さんは放心したように……

ゆっくりと、包丁の刃の先を自分の喉にあてた。

「奥さん、何をするつもりなの!?」人形は驚いた。

「やめて、やめて! お願い馬鹿なことはしないで!」

聴こえない声で、必死でとめたが、


大きく頷くように、奥さんは包丁で自分の喉を刺し貫いた。

悲鳴と共に鮮血が降ってくる、人形のドレスにも、髪にも、顔にも……

ぜんぶ奥さんの血だ! 血が雨のように降ってきた。

「お願い、死んじゃあダメよ!」人形は叫んだ。


「奥さん、奥さん! 死なないで!」


奥さんは人形を抱きしめたまま、こと切れた……

あまりに凄惨せいさんな死ざまだった、そして人形も心を失った……


そして世間では、人形のことを『血塗られた人形』だと呼んだ 。

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